白冥霜花

紫雲丹

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幻燼夢

第七十話



第七十話



 仕事を終えた虎渓は、日が暮れると毎日のように秋霖が写経を行っている寺を訪れ、持参した夕餉を共に取るのが習慣になっていた。

「寺の生活はどうだ? 体調も良さそうだな」

 二人が働き始めてから、既に二週間が過ぎていた。秋霖は文士らしく髪を垂らし、新たに与えられた衣を纏って身なりも整っている。写経においても非の打ちどころがなく、誤字脱字ひとつない美しい字で、完璧な仕事を仕上げていた。それゆえ、寺の者たちからも早くから目をかけられていた。

「……静かで過ごしやすい。写経をしていると心が安らぐし、待遇も良くしてもらっている」
「お前は器用で何をやらせても人並み以上にできる。武も学も書も、絵も詩も芸も、それに料理までこなす。初めてのことでもすぐに覚える。一体何ができないんだ」

 質素な部屋の中、食事をつつきながら虎渓が半ば呆れたように呟くと、秋霖は小さく微笑んだ。

「多芸に見えるかもしれないが、どれも二流以下だ。一芸に秀でた者には敵わない」
「多芸なのがお前の一芸ではないのか?」
「言い方次第だな」

 秋霖はそう言って笑みを浮かべたまま、虎渓の横顔をじっと見つめた。彼の身なりは街に到着した頃とさほど変わらず、むしろ土木作業のせいで足元には泥がついている。

「お前の方はどうなんだ」
「それが聞いてくれ、今日は大変だったんだ」

 虎渓は料理を飲み下し、箸を置いて話し始めた。

「昼飯を食ってた店で、客同士が喧嘩を始めてな。そいつらが店全体を巻き込んで大暴れしだした。落ち着いて飯も食えないから、喧嘩両成敗だと、どちらも店の外へ摘み出してやったんだ」

 虎渓は肩をすくめる。

「そうしたら、それを通りで見ていた老鸨ラオバオが、俺を倍の賃金で雇うから、妓楼の用心棒にしたいと言い出した。しかし、土木場の棟梁にも義理がある。だから、棟梁に掛け合ってくれと返したんだ」

 嫌な予感がした秋霖は眉をひそめながらも、黙って続きを促した。虎渓は面白そうに続ける。

「そしたら今度は棟梁と老鸨が、俺を巡って喧嘩を始めてしまってな。棟梁も必死だったぞ。俺ほど一度に荷を運べる奴は他にいないからな。で、結局は朝に土木の仕事、夜は妓楼の用心棒ってことで話がついた」

 秋霖は聞き終えるなり、思わず机を叩いて頭を抱えた。虎渓がびくりと肩を跳ねさせる。

「虎渓! お前は……! 目立つなと言っただろう……!」
「だ、大丈夫だ、周りにはまだ怪しまれていない」

 虎渓が宥めようとするが、秋霖は首を振って彼の胸板を指先で突いた。

「街に降りればすぐこれだ。ひとたびお前の良さを知れば、お前を放っておくやつなど誰もいない。無自覚なのが、なおのことタチが悪い」

 虎渓には、人を惹きつける魅力がある。それは生い立ちを隠していても変わらない。気前の良さと頼もしさ、恵まれた体格に、無邪気ともいえる笑顔。よく通る声と理を弁えた言動は、人の注目を自然と集める。
 かつては侯爵家の世子という地位が、世間との間にある程度の壁を作っていた。しかし今は、庶民の中に紛れてこそ、虎渓の存在は逆に浮き立って見える。秋霖はその事実に、静かな危機感を抱いていた。

「仕事を掛け持ちするなど。一体いつ寝られる」

 鋭く睨むと、虎渓は大きな体を縮めて小さな声で答えた。

「土木の仕事はもうすぐ終わる……それに、妓楼で部屋を借りられることになったから、寝食には困らないぞ」

 秋霖は溜め息をつき、虎渓の茶杯に残った湯を静かに注ぎ足した。

「虎渓、お前が持つ”芸”は、私など到底太刀打ちできないものだ」

 虎渓は茶杯を受け取り、柔らかな笑みを浮かべた。

「お前は昔から俺を叱りながらも褒めてくれる。つくづく俺に甘いが、そういうところも好きだ」
「……!調子のいいことを」

 飾り気のない真っ直ぐな言葉に、秋霖は思わず顔に熱が集まるのを感じた。茶を啜る虎渓に気づかれないように視線を逸らし、空になった器を片付けるべく席を立った。


 *


 さらに二週間が過ぎたある日、虎渓は真紅の長袍に身を包み、寺へと現れた。その姿を目にした秋霖は、思わず目を瞬かせる。一目で婚儀の礼装とわかる華やかな衣装に、彼の瞳がわずかに見開かれた。

「今日は身請けされた姐さんの婚儀だったんだ。俺は輿を運んだぞ」

 そう笑って衣を見せびらかす虎渓の顔はどこか誇らしげだった。案の定、妓楼でも彼はすっかり認められているらしい。秋霖はもはや何も言う気になれず、ただ肩を落として苦笑するばかりだった。

「そうだ、夕餉は馳走の残りの賄いを貰えるから、俺の部屋で食べよう」
「わかった」

 二人で寺の階段を降りていたそのとき、空からぽつり、ぽつりと小雨が落ちてきた。季節はすでに雨季に入り、空模様は気まぐれだ。

「傘を持ってくれば良かったな」
「ああ、いいのがあるぞ」

 秋霖が空を見上げたとき、虎渓が思い出したように懐を探り、大きな紅い布を取り出す。それを両手に広げ、秋霖の頭上からそっと被せた。

「これはどうしたんだ……」
「輿に結んであった飾りだ。輿を戻した時に片付けるっていうから、何かに使えるかとおもって貰ってきた」

 紅布を雨避け代わりに頭にかけられた秋霖は、目の前の虎渓を見上げる。紅衣の彼と視線が重なった瞬間、互いに一瞬言葉を失い、その意味に気づいて頬を赤く染めた。そして、ほぼ同時に視線を逸らす。

「秋霖、……紅蓋頭みたいだな。そういえば前に母上が、凌家と顧家の縁談を話していたぞ」

 虎渓はさりげなさを装って歩き出したが、秋霖が布を脱いだ気配に慌てて振り返る。

「まて、もう言わないから取るな。お前が濡れて風邪でもひかれると困る」

 虎渓は睨むように見上げてくる秋霖の手から布を奪い返し、再び丁寧に彼の頭にかけ直す。しかし秋霖は片腕を上げて隣に虎渓を招いた。

「お前も濡れたら困る」

 虎渓は苦笑して秋霖と共に布を頭から被る。そうして、二人は寄り添うように小雨の中を花街へと向かって歩き出した。
 通りを行き交う人々は皆、早足で建物の軒下へと避難していく。日が暮れ始め、街のあちこちに灯が灯され、濡れた石畳が仄かに光を映していた。 
 やがて、向かい側から歩いてきた中年の男が虎渓に気づき、笑顔で手を挙げた。

「よう小笛!なんだ?お前も花嫁を貰ったのか!」

 男は土木場でともに働いていた元同僚だった。秋霖は思わず紅布を深く被り顔を隠す。虎渓は軽く笑って、冗談を返した。

「そんなところだ、これから春夢楼で祝いがあるぞ!あんたもどうだ!」
「へへ!懐が寂しいんでやめとくよ!またな!」

 男が笑いながら去っていくと、虎渓はそっと秋霖の空いている手を取り、その指を自分の掌で包み込むように握った。

「秋霖、前が見えないだろう。もう少しだから耐えてくれ」

 その声はひどく優しくて、秋霖は布の奥で戸惑っていた。紅い布の下、頬の熱が、いっこうに冷めずに顔を隠せることを密かに感謝していた。

 虎渓が用心棒をしている春夢楼に着くと、夕涼みに出ていた妓女たちが楼閣の窓から通りを見下ろしていた。彼の姿を見つけた彼女たちの艶やかな声が、一斉にその名を呼ぶ。

「やあお姐さん達」

 それに気づいた虎渓は、傘にしていた紅布から出ると、にこやかに手を振り返す。すると、楼内から彼の同僚である用心棒の男が現れ、こちらへと駆け寄ってきた。

「秋霖、老鸨ラオバオが仕事の話で呼んでいるから行ってくる。すぐ戻るから少し待っててくれ」
「ああ」

 同僚と共に早足で去っていく虎渓の背中を、秋霖は布を被ったまま静かに見送る。その耳に、妓女たちの楽しげな声が届いた。

「小笛ったら相変わらずいい体をしているわね」
「そうそう、彼の手相を見せてもらったのよ。そしたらね……」

 一人の妓女がこっそりと囁くと、周囲の女性たちが小鳥のような笑い声をあげた。

「まあ、彼の想い人は大変ね。夜は寝かせてもらえないわ」

 ――想い人。

 その言葉に、秋霖の胸を温めていた熱がふっと冷えていく。
 妓楼で働くうちに、気になる女性でもできたのだろうか。これまでそんな話は聞かされていない。だが、自分に気を遣って黙っていただけかもしれない。
 そう思った瞬間、心の奥底にざらついた違和感が生まれる。強く結ばれているはずの絆が、すべてではないのだと、秋霖はどこかで理解していた。にもかかわらず、胸の奥を掻き乱すような動揺が渦を巻く。言葉にできない感情の波に、静かに俯いたその拍子に、頭にかぶっていた布が滑り落ちた。
 楼閣の上階でお喋りに興じていた妓女たちは、ふと下を見やり、その視線が秋霖の姿に吸い寄せられる。彼の容貌を目にした瞬間、息を呑んだ。
 虎渓とはまた異なる、白く繊細で凛とした気品を纏う男が、静かに雨に濡れて立っている。

 妓女たちは思わず身を引き、急ぎ足で階を下りていった。そして、胸元に手を当てたまま佇む秋霖の背後から、そっとやわらかな声がかけられる。

「もし、そこのお方は……小笛の幼馴染の、ご主人様かしら」

 呼び止められた秋霖は、驚きながらも静かに振り向き、低い声で返事をする。

「はい……」

 その憂いを帯びた横顔に、妓女たちは目を奪われ、思わず陶然と息をついた。扇で口元を隠しながら、今度は秋霖に向けて甘やかな声をかける。

「中で休んでいかれませんか?お茶でもご一緒にいたしましょう?」
「小笛のご主人様でしたら代金はいただきませんわ」
「ええ、こんな雨の日に外で待たせてはおけませんもの」
「い、いえ……私は……、小笛がすぐ戻ってくると……」
「仕事の話でしたらいつになるか分かりません事よ、さあお入りになって」

 困惑する秋霖が言葉を継げずにいるうちに、彼を囲むように妓女たちが寄ってくる。細く小さな手に両腕を取られ、力ではね除けることはできず、目を白黒させながら立ち尽くす。
 やがて背を押されるままに、秋霖は楼閣の中へと引き込まれていった。
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