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幻燼夢
第七十一話
第七十一話
地面に落ちていた紅い布を拾い上げた虎渓は、忽然と姿を消した秋霖を探して、上階の窓に視線をやった。すると、妓女の一人が手招きをしている。虎渓は誘われるままに階段を上がり、部屋の戸をそっと開けた。
「お姐様方、さては俺のご主人様をおもちゃにしていたな」
冗談めかして言いながら室内に入ると、数人の妓女たちが集まり、涼しげに扇を仰いでいた。そのうちの一人が衝立の方へ視線をやりながら答える。
「あら、お召し物が濡れていたから、着替えをしていただいたのよ」
虎渓もそちらに目をやると、衝立の向こうから、確かに着替えの気配が伝わってきた。
「そうよ、ちょうどいい衣があったから、あなたも気に入るはずだわ」
妓楼では、遊び金の足りなくなった客が上等な衣を脱ぎ置いていくこともある。秋霖は、まさにその衣を着せられているのだろうと察して、虎渓は肩を落とした。
「おいまさか、その衣は俺の給料から引かれるわけじゃないよな……」
「あら、それはいい考えね。老鸨にも伝えておくわ」
「姐さん~~それは困るぞ…一体いくらするんだ」
「おほほほ、さあできたわ」
その声に続いて、衝立の奥から秋霖が現れた。
滑らかな深緑の衣には丁寧な刺繍が施されており、垂れる髪は梳かれて艶やかに輝いている。やややつれた肌を隠すように白粉が薄く乗せられ、目尻には紅の化粧が引かれていた。気品ある顔立ちに、どこか妖艶な雰囲気が差し加わり、まるで白磁の花瓶に紅い一輪が添えられたような美しさを帯びている。
普段は控えめで地味な色を好む秋霖が、こうして濃い色の衣を纏うと、その存在は際立ち、どこか別人のように華やかに映る。恥じらうように目を伏せ、唇をかたく閉じたまま立つ秋霖の姿に、妓女たちは思わずため息を漏らした。
「まあ、なんて美しいの」
だがその中で最も心を揺さぶられていたのは、誰でもない、長く彼の傍にいた虎渓だった。
共に戦場を駆け、戯れ合い、凍える冬を越え、野を山を逃げ、過酷な日々を生き抜いた。そんな嵐のような月日からは想像できないほど、今の秋霖の姿は情緒的で、これまでに一度も見たことのないものだった。
虎渓は静かに歩み寄り、秋霖の両手を取る。自分達だけに届くような声で、そっと、熱を帯びた言葉を囁いた。
「阿秋、綺麗だ」
「……揶揄うな」
遊び心を持て余した妓女たちに抗えず、冗談の一つも返せぬまま頬を赤く染める秋霖の姿に、虎渓の目にはもはや他のものは映らなかった。
「本気だ」
そんな様子を見て、妓女たちがくすくすと笑い声を漏らす。
「小笛ったら、なんて分かりやすいの」
「蒼洵様がお困りだわ」
はっと我に返った虎渓は、顔を赤くして頭をかき、気まずそうに言った。
「お姐様方、この衣の代金は俺の給料から引いておいてくれ」
「……あっ、おい」
秋霖が反応する間もなく、虎渓は彼の腕を取ってぐいと引き、連れ立って部屋を出ていく。残された妓女たちはぽかんとしながら、顔を見合わせた。
「すこし、小笛をからかいすぎたかしら」
「ああ見えて初心でしょう?きっと大丈夫よ」
楼閣の裏手にある建物には、妓楼で働く者たちが暮らす小さな部屋が並んでいた。虎渓はその一室へ、秋霖を伴って入っていく。
手首を掴まれたままの秋霖は、軽く腕を引いたが、虎渓の手は離れなかった。
「虎渓……離してくれ」
「うん……」
返ってきたのは空返事だけだった。虎渓はどこか上の空のまま、優雅な衣を纏った秋霖を恍惚と見つめている。掴んだ手を放す気配は微塵もない。むしろ、美しく着飾った愛しい姿をこの腕の中に抱きしめていたいという欲が、胸の奥からこみ上げてきていた。
「阿秋、いい匂いがするな」
囁くように言われ、秋霖は自らの袖を顔に近づけた。髪を梳く際に使われた香油か、それとも衣に染みついた香か。どちらにせよ、ふわりと淡い花の香りが鼻先をくすぐる。
その瞬間、虎渓は秋霖の腰を抱いてぐっと引き寄せた。首筋に寄せられた鼻先から熱い吐息が肌を撫で、秋霖はざわつく胸を抑えながら、そっと虎渓の肩に手を添えた。
「虎渓……?」
名を呼ぶと、二人の顔はほとんど触れ合うほど近くにあった。虎渓の目には、熱に浮かされたような光が宿っている。こんな表情は、これまで見たことがない。だが、以前のような苛立ちはなかった。これは、秋霖に口付けを求めている目だと感じ取ったからだ。
秋霖は拒まず、ゆっくりと瞼を閉じた。
「……ん、」
すぐに唇が重なる。薬を飲まされた時の口付けとは異なり、それは深く甘いものだった。柔らかく啄ばまれるたび、切なさを帯びた熱が体の芯に灯っていく。秋霖は思わず、虎渓の紅い衣をぎゅっと握った。
「……っ」
「……は、……」
わずかに開いた唇の隙間に、虎渓の舌が秋霖を追い求めて入り込み、口内を貪るように絡め取る。背筋が震え、抗う間もなく飲み込まれ、喰われている、そんな感覚だった。
「んん……」
「っ……阿秋……」
虎渓はその甘さに完全に酔いしれていた。どれほど酒を飲んでも酔い潰れたことのない男が、たった一つの口付けで理性を手放していた。秋霖をすべて自分のものにしたいという、熱く仄暗い欲望が沸き上がり、それがあっという間に彼の全身を支配していく。
虎渓の手が秋霖の衣の腰紐を引き、するりとほどいた。
「ま、待て……何をッ」
帯に手をかけられ、秋霖は慌ててそれを押し留める。しかし、勢いそのままに踏み込んできた虎渓の体重に押され、視界が揺れる。硬い寝台に倒れ込むと、虎渓がその上から覆い被さってきた。
衣が乱れかけ、秋霖の胸に困惑が走る。これは、口付けだけでは終わらない。
――想い人がいるのではなかったのか?
それは自分のことなのか?
これは戯れなのか?
どのように応えるのが正しいのか?
心に押し寄せる疑問の渦の中で、再び性急な口付けが襲いかかる。秋霖は首を振って抗おうとするが、虎渓は無意識のうちに力を込め、体を押さえつけたまま唇を塞ぎ続けた。秋霖は懸命に虎渓の背を叩いた。
――胸が苦しい。
ようやく顔を背けると、息を切らして咳き込んだ。その拍子に歯がぶつかり、虎渓の唇からじんわりと血が滲む。その痛みに我に返った虎渓は、弾かれるように秋霖の体から離れ、後ずさって距離を取った。
――俺は一体、何をしようとした?
青ざめた顔で、虎渓は秋霖を助け起こそうと手を差し伸べかけたが、込み上げる罪悪感に触れることができず、その手を止めた。
(秋霖は病身だぞ……!)
震える指先で頭を抱え、その場に膝をつく。ようやく絞り出した謝罪の言葉は、押し潰されたように小さな声だった。
「……すまなかった」
咳が落ち着いた秋霖は、胸に手を当て、静かに視線を虎渓へ落とした。
「水を……、くれるか……」
その言葉に、虎渓ははっとして顔を上げた。すぐに立ち上がり、急須を手に部屋を出る。外は雨脚が強まり、虎渓の顔に容赦なく雨粒が叩きつけた。冷たい雫が頭を冷やすには十分すぎるほどだった。
とぼとぼと、罪を背負う足取りで、虎渓は楼閣の厨房へと向かった。
(秋霖を辱めないと、そう決めていたはずだったのに)
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