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幻燼夢
第七十四話
第七十四話
朱二公子の姿が雑踏に消えていったあと、虎渓は何も言わず踵を返し、寺の方角へ歩き出した。秋霖もそれに気づき、黙ってその後を追う。
「どうして春夢楼で俺を呼ばなかった。お前が来ていた事をさっき聞いて探しに来たんだぞ」
前を歩きながら、虎渓は苛立ちを隠しきれない声音で言った。歩を止めることもなく、背を向けたまま感情が滲み出る。秋霖は視線を落としたまま、抑えた声で答える。
「……すまない。忙しいかと」
「俺がここに来なかったら、お前はあの男の所へ行くつもりだったのか?」
問い詰めるような声音に、秋霖は言葉を詰まらせた。沈黙は否定の代わりにならない。虎渓は舌打ちし、勢いよく振り返った。
「お前の事だ、俺が妓楼でうまくやれているからと、街を追い出されないよう、あの男の機嫌を取る方を選ぶつもりだったんだろうな!!」
怒声と共に、虎渓は秋霖の両肩を掴み、感情をぶつけるように揺さぶった。その剣幕に、秋霖は目を見開く。
「俺のためか?!俺はそんな事命じないぞ!?どうしてお前はッ………!!」
震える声に、肩を掴む手にも力がこもる。どうしてわからないのだと、虎渓は喉の奥で言葉を噛み締めるようにして、秋霖を見つめていた。
秋霖は目を逸らさず、凍りついたような表情のまま、じっと虎渓を見ている。理解はしている。それでも、秋霖にとって虎渓を優先するのは当然のことだった。その考えのあり方に、虎渓はどうしようもない憤りがあった。
自分のためであれば、行きたく無い場所へ赴き、興味のない相手と交わり、望まぬ関係を築こうとする。
主君と臣下という関係なら、それで納まったかもしれない。だが、そうあって欲しくない。それだけで終わることを望んでいない。
何も言葉を返さない秋霖に、虎渓は怒りに任せて肩から手を振り払うように離した。
「友人が欲しいなら、お前はあの男に匿って貰ったらどうだ?面倒を見てもらえるだろうな!」
「……何だと?」
秋霖は蒼白な顔のまま、胸に突き刺さった言葉の痛みに声を震わせた。以前の秋霖であれば、叱責の一つもくれてやっただろう。だが今の秋霖は前とは違う。体の状態も、心も、確実に変わってしまっている。
突き飛ばされた勢いで数歩下がった彼の表情を見て、虎渓はすぐに自分の過ちに気づく。
「ちが、すまない、今のは」
「その方が、お前は楽か」
静かに告げられた言葉に、虎渓は血の気が引いていく。秋霖は、疲れ切ったように小さく笑い、自嘲を滲ませて以前よりも力の入らない拳を握る。
「楽だろうな」
――この身体ではお前の役に立てない。
逃げても、戦っても、足手纏いになるばかりで。あの男の顔色を伺うことくらいしか、お前を守る術が思い浮かばなかった。
秋霖はそう思いながら、虎渓の脇を通り過ぎ、黙って寺へと続く石段を上り始めた。
「違う!秋霖!!待て!!」
虎渓が声を張り上げて呼び止めるが、秋霖は振り返らなかった。虎渓は思わず一歩踏み出しかけて、しかし足を止める。
このまま旅を続けて、秋霖にこれ以上苦痛を与えるよりも。いっそ、自分の手から解き放った方が、あいつのためになるのではないか。
そんな迷いが、虎渓の心を締めつけた。
灯りひとつない夜の闇に溶けるように、秋霖の背中は寺の門の向こうへと静かに消えていった。
*
線香の香が立ち込める正殿で、秋霖は静かに目を開けた。寺で写経の仕事をもらってからというもの、時間があれば礼拝に通っている。毎日、同じことを祈り続けていた。
立ち上がると、近くにいた僧侶が穏やかな笑みを浮かべて声をかける。
「その後、お加減はいかがでしょうか」
「ご心配をおかけしております。おかげさまで、暫くは落ち着いております」
「日々よく尽くしてくださいます。おかげで経蔵も清らかに保たれております。あなたには天のご加護があるでしょう。南無阿弥陀仏…」
秋霖は僧侶に一礼し、正殿をあとにした。境内には参拝客が行き交い、それぞれが静かに手を合わせている。
「この街に凌虎渓がいるそうよ」
「あの北軍の? 恐ろしいわ……」
通りすがりの声に、秋霖の足が止まり、瞳が見開かれる。すぐさま方向を変え、迷いなく私室へ駆け戻った。
昨日の出来事が原因だ。まだ一日しか経っていないというのに、正体を知られた。誰の仕業か、見当はついていた。
私室には、すでにいつでも街を出られるよう荷がまとめてあった。虎渓の密書が収められた刀の一振りも、秋霖が預かっていた。必要な物を手早く背負い、机に残してあった作りかけの簪を懐にしまう。
衣桁にかけてある深緑の絹衣に目をやりながら、秋霖は一瞬だけ迷いを見せた。しかし、路銀は足りている。荷は少ない方がいいと未練を振り切り、寺を後にすると、春夢楼へ向かって花街を駆け抜けた。
建物の前にはすでに兵士が詰めかけていた。軍装からして西軍ではなく、朱家が抱える私兵だ。虎渓は入り口に立ったまま、槍で包囲されているが、その顔には怯えの色など微塵もない。
私兵達の後方では、朱二公子が腕を組み、通りに向けて高らかに声を張り上げていた。
「こいつはお尋ね者の凌虎渓だ。北彊と通じる逆賊で、陛下の御命を狙う不届者がこんなところに紛れ込んでいた。朱家は大義名分をもってこの男を取り押さえる」
花街は騒然となった。老鸨や妓女たちは顔を覆い、春夢楼の者たちは蒼白になって固唾を呑む。虎渓は剣呑な目つきで沈黙を貫いていた。
「じきに西軍がお見えになるだろう。それまでは大人しく捕まっている事だ。さあ膝をつけ」
朱二公子の命令が淡々と響く。その時、兵の列の一角で叫び声が上がった。槍を奪い、駆け込んできたのは秋霖だった。手にした槍を一振りするだけで、まるで波を割るように私兵たちが次々と膝を折っていく。
虎渓と朱二公子が同時にその姿へ目を向けた。
髪を流し、文士然とした装いにもかかわらず、槍を手にしていればその気迫は見る者を震え上がらせる。彼が纏う冷ややかな殺気に、周囲の空気が静まり返った。
――これが「孤槍寒雨」か。
朱二公子は目を細めた。
虎渓は秋霖の姿を見て、胸の奥で安堵と焦燥を同時に感じていた。来てしまったのか。いや、彼ならきっと自分を助けに来ると信じていた。たとえ喧嘩をしても、突き放しても、秋霖は決して誓いを裏切らない。
「さて、我が私兵を薙ぎ倒すとは一体どのような御用件でしょう……たしか蒼洵殿でしたか」
朱二公子が愉快そうに口元を歪める。気に入った者は見逃すつもりだという、その意図は明白だ。だが、秋霖は虎渓に視線を送ると、預かっていた刀を気を巡らせて空へ投げた。常人では触れることすらできない刀を、虎渓は迷いなく片手で受け止める。
「蒼洵様、迷惑をかけたな」
虎渓が微かに笑って答えた。秋霖が黙っていれば朱二公子は彼を匿うだろう。ここに残ればきっと、これ以上体が傷つく事はない。だが。
「私は顧秋霖です。凌虎渓に忠節を誓っております」
秋霖は絶対にその道を選ばない。手に持つ槍のように真っ直ぐに、芯の通った声で言い切った秋霖は舞うように飛び出て槍を振った。
「朱二公子、我が主君と共に押し通らせていただきます」
その言葉を合図に、虎渓が両刀を抜いた。花街の者達に見せていた人当たりのいい陽気な用心棒の姿は既に無く、その表情は戦場に降り立つ猛虎さながらだった。
二人は阿吽の呼吸で道を切り開くと、疾風のように花街を去っていく。そのあまりの素速さに、朱家の私兵達は手も足も出ず、慌てて落とした武器を取り直すが、朱二公子は手を振ってそれを制した。
「追わなくていい、どうせ掴まらん」
彼は通りをゆっくりと歩きながら、二人が逃げ去った方角を見送り、溜め息混じりに肩を落とした。
「誠に…まことに残念だ。あれほどの逸材であるのに、望んで死地に向かうとは」
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