白冥霜花

紫雲丹

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幻燼夢

第七十五話




第七十五話



 街を離れた二人は、山中をひた走っていた。街道は使えず、近隣の町にもすでに情報が伝わっている可能性が高い。そして、街から十分に離れなければ、夜に焚き火を使うことすら危険だった。太陽はすでに傾き始めている。今は玄安への到達よりも、夜を越すための安全な野営地を探すほうが優先だった。
 状況は芳しくない。けれど秋霖は、自分の手を引いて先導する虎渓の体温に、ほんの少し高揚していた。こんなふうに優しく触れられるのは、久しぶりだったからだ。手など引かれずとも、並んで走れるのに。それでも彼がそうしてくれることが、嬉しかった。

 走りながら、秋霖はふと思い出したように口を開いた。

「虎渓、すこし道はそれるがここから北西の方角に廃寺があると聞いた。夜はそこで過ごせるかもしれない」

 虎渓が息をついて立ち止まり、振り返った。

「……追手に見つからないか?」
「……それは祈るしかないな。火が使えない以上は、少しでも屋根がある場所の方がいい」

 一瞬逡巡したのち、虎渓は静かに頷いた。
 二人は森を抜け、廃寺を目指して進んだ。やがて空がすっかり暗くなった頃、ようやく山道の一角に、それらしき古びた参道を見つける。鬱蒼とした木々の合間から、昇り始めた月が漏れ、朽ちかけた山門の影を照らしていた。風に揺れる枝葉が門の前を横切り、その影はまるで亡霊が這い寄ってくるかのようだった。
 隣で、虎渓が小さく息を呑んだ音が聞こえた。秋霖の手にある紙燭が風に煽られ、かすかに揺れる。その灯りの先に、苔むした石段を上った先の仏殿が、朧げに浮かび上がっていた。屋根は崩れかけ、柱は斜めに傾きながらもなんとか立っている。かつての祈りの場も、今や静寂と荒廃の中にあった。

「なあ、秋霖……何か出そうだぞ」

 虎渓が怯えたように呟きながら足を踏み入れる。秋霖はくすりと笑みを浮かべながら、わざと聞き返した。

「何かとは、何だ」
「死霊とか鬼とか……」

 周囲に人の気配はない。静まり返った夜の廃寺に、虫の声が遠くから聞こえる。冷たい風が背筋をなぞるように通り抜けていった。

「八尺の鬼人のようだと言われているくせに、鬼に怯えるのか。雙鉤白虎の名が泣くぞ」
「俺は六尺二寸だ。夜の廃寺など初めてなんだ。秋霖、鬼が出たらその槍で倒してくれ」

 軽口を交わしながらも、秋霖の目は周囲を冷静に見回していた。床板の一部は抜け、足元には崩れた瓦礫が散らばっている。それでも、壁際にかろうじて身を寄せられる空間を見つけ、二人はようやく肩の力を抜いた。

「とりあえず、一晩を無事に過ごせるように祈っておこう」
「そうだな……」

 仏像の首はなく、台座に崩れかけた胴体だけが残り、かつての荘厳さは見る影もない。乱れた世では、仏の首が盗難に遭うのはよくある事だった。
 背負っていた荷を広げた秋霖は、祭壇にある錆びた香台に、檀香を乗せて火をつけた。その様子を虎渓が覗き込む。

「何してる?」
「寺で貰った香だ。虫除けになるかと思ってな」
「……お前はいつも頼りになる」

 白檀の香煙が薄く漂う中、秋霖は静かに膝を折った。虎渓も続き、二人で礼拝を捧げる。秋霖は毎日寺で祈っていたそのままの願いを胸に、三度頭を垂れた。

 一つは天に。一つは失われた家族に。最後の一つは、今ここで共に生きる者に。

 礼拝を終えたあと、二人は壁際の隅に香台を移し、保存食を分け合ってようやく腰を落ち着けた。肩を並べて横になり、風を防ぐように互いの体を寄せる。

「……秋霖、昨日は悪かった。……酷いことを言った。」

 虎渓は秋霖の方を向いて気まずそうに謝罪を口にした。彼の中で、ずっと謝る頃合いを探していた。秋霖は仰向けになって目を閉じていたが、暫くの沈黙の後にぽつりと呟いた。

「……許さぬ」

 その言葉に、虎渓は思わず起き上がりかけた。

「なに。じゃあなんでここにいる」

 秋霖は寝返りを打って虎渓に背を向けた。

「私はお前に役立たずだと思われても付いていく。お前を一人にしないという誓いを立てた」

 虎渓はまたふつふつと、どうしようもない感情が胸の奥から込み上げてきたが、何を言っても無駄だと思い直し、黙って秋霖を背後から抱き寄せた。

「!……何だ」

 秋霖がみじろいだが、虎渓は黙ったまま彼の肩に額を押し付け、ぎゅっと腕に力を込める。秋霖は抗うことをやめて息を吐いた。虎渓は秋霖を捕まえたまま、眠りを決め込むつもりで目を閉じる。
 涼しい夜には、お互いの温もりが心地良いくらいだった。


 明け方。暑苦しさに目を覚ました秋霖は、隣でしがみつくように眠る虎渓の腕を外そうと、ゆっくり手を伸ばした。けれど、逞しい腕も脚も、がっちりと秋霖の体に巻きついていて、びくともしない。早朝の涼しさよりも、虎渓の体温の方がぽかぽかと熱くて、汗ばむほどだった。
 彼を起こそうかと口を開きかけた瞬間、太腿に触れている硬い熱に気づき、思わず唇を噤む。

 男なら誰にでもある、朝に自然と起こる生理現象だ。内臓が傷つき、陽の気が巡らない秋霖には既にこの現象が起こらなくなって久しいが、虎渓であれば眠っている間に引き起こされてしまっても仕方がない。
 そう気づいてしまえば、ますます意識してしまう。羞恥と暑さが皮膚ににじみ、思考を焦がすように絡みついて離れない。
 どうすればいいのか――そう迷っていると、虎渓が微かに身じろいだ。秋霖が目覚めた気配を感じ取ったのかもしれない。

「ん……」

 かすかな声がして、秋霖はとっさに顔を反対側に向けて寝たふりを貫く。虎渓は少しだけ身を起こし、秋霖の顔を覗き込んだ。まだ眠っていると思ったのか、彼はふわりと息をつき、ゆっくりとその顔を秋霖の肩口に寄せてくる。

「阿秋……」

 耳元で、声にならない囁きが届き、秋霖の心臓が跳ねた。けれど、硬直したまま身じろぎ一つせず、呼吸も変えずに眠ったふりを続ける。
 虎渓の鼻先が、秋霖の首筋や頸にそっと触れる。夜のうちに染みついた白檀の香りと、秋霖自身の体温が混ざった微かな匂いを、虎渓は静かに吸い込んでいた。

(気づかれていない……?)

 そう思いながらも、秋霖の顔には一気に熱が上った。頬だけでなく、耳の奥まで火がついたように熱くなる。鼓動が喉元にまで響くほど速まっていたが、何とか呼吸だけは静かに整えていた。

「阿秋……」

 熱に浮かされたような声で、虎渓は何度も焦がれた名を囁く。唇の震えが、秋霖の皮膚にさざ波のように伝わってくる。服越しに触れている虎渓の熱は、ますます強く、はっきりと主張していた。
 やがて、虎渓は秋霖の首筋にそっと唇を寄せ、一瞬だけ触れると、何事もなかったように体を離し、静かに立ち上がった。そして仏殿を後にする。

 その気配が完全に遠ざかったのを確認してから、秋霖は胸を押さえ、膝を引き寄せるように体を丸めて大きく息を吐いた。脈は苦しいほど早く、耳鳴りのように拍動が全身に広がっていた。
 虎渓の唇が触れた場所が、火傷のように熱い。
 戯れの愛撫ではなく、間違いなく、欲情されていた。かつて彼が言った言葉が、胸の奥にずしりと落ちる。

『お前を女のようだと思ったことは一度もない』

 ――それなら、私はどうしたらいい。


 
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