白冥霜花

紫雲丹

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幻燼夢

第七十八話




第七十八話



 書斎で文机に向かっていた虎渓は、筆を握る手の震えをどうすることもできず、紙の上にまともな文字を記せなかった。何度目かの失敗に、歯噛みしながら手紙を丸めて投げ捨てる。そのまま机に突っ伏すと、両腕で震える体を押さえつけた。

 秋霖の余命は、あと半年――。
 それは、この冬を越せるかどうかも分からないということだった。

 ――自分のせいだ。

 嫌われても、命令してでも、無理にでも太晋城へ残してくるべきだった。「置いていくな」と縋られたことが、あんなにも嬉しかった。何があっても一人にしないと傍にいてくれる温もりが、ただただ愛おしかった。
 甘えていた。命を削らせてまで、共に在ることを選び続けた。それは、もはや愚かとしか言いようがない。自分が秋霖を殺すも同然ではないか。

 民を失い、友を失い、仲間を失い、家族を失って、今また、最も愛する者までも手放せと言うのか。
 秋霖を、愛してはいけなかったのか。
 どうせ、この恋は、誠の意味では報われない定めだった。
 秋霖は、虎渓のためなら命さえ差し出す。それこそが忠節であり、献身であると信じて疑わない。幼いころに結ばれた主君と臣下の契りであり、兄弟としての愛だ。
 虎渓がどれだけ対等な関係を望んでも、それは見せかけにすぎない。秋霖はいつも、一歩後ろに控えている。自分からは求めてこない。求めてくれることはない。
 間違っているのは自分の方だ。秋霖は、常に正しい。
 どんな時でも、秋霖だけが共にいてくれる。それでも、秋霖にすら触れられない部分がある。たった一人の相手に、全てを理解してもらいたいという願いはきっと、不可能な事なのだ。 
 それなのに、理解されたいと自分の想いを一方的に押し付け、あまつさえ、秋霖を辱めようとさえした。秋霖のことを理解しようとしなかったのは、自分だった。価値観の違いは、伝えようとしても、決して交わらない。
 余命のことも、秋霖は最後まで隠すつもりだったに違いない。もし自分が確かめに行かなければ、秋霖は何も告げぬまま、消えていっただろう。

(俺が共にいる限り、あいつは命を削り続ける)

 思わず笑いが漏れた。乾いて、掠れて、哀しみに滲む。
 天はなぜ、これほどまでに冷たい。
 悪は罰されず、善だけを取り上げる。
 この世に悪が栄え、国は崩れてゆくというのに。

(……俺に残された道は一つだ)

 虎渓は筆を取り直し、涙を拭って顔を上げた。
 しばらくして、鍼治療を終えた秋霖が音もなく書斎に入ってくる。気配に気づいた虎渓が、わずかに顔を綻ばせた。

「手紙は苦手だ……俺は字が下手だから、何回も書き直したぞ」

 手元の小さな文を筒に収めながら、秋霖に笑いかけた。秋霖も、口元に柔らかな笑みを浮かべる。

「秋霖、体調は大丈夫か」
「……ああ、先生のおかげで、だいぶ良くなった」


 *


 朝の光が診療所の庭先を照らし始めた頃、虎渓は密書の内容を簡潔に記した文を鳩の足に括りつけて放った。鳩は羽ばたき、燕雲城の顧家の屋敷がある方角へと飛び立っていく。顧家と凌家の屋敷の管理は魏昶が担っているので、おそらく鳩文も受け取って貰えるだろう。
 その後、朝食の席で虎渓は劉致に都へ行く為の相談を持ちかけた。秋霖には無理をさせないよう言い聞かせ、部屋で休ませている。

「お持ちの身分証が使えないとなると、商隊に紛れて同行する他ないでしょうな。ですが、今の都では商人一人一人の身分まで確認する徹底ぶりです。……聞くところによると、闇市では身分証の偽造を行う者もいるとか」

 粥を食べ終えた劉致がそう告げると、虎渓は腕を組み、重く息をついた。

「まずは新しい身分証の用意が必要か……」

 劉致は頷き、静かに続けた。

「皇太子の国喪が明けて、来年の正月は新年を祝って良いそうです。今年は先帝の国喪がありましたし、都では準備を進めている事でしょう。もし例年通りであれば、冬前に都へ行く商人達が人手を集めています」
「そこに上手く入り込めれば、検問を抜けられるかもしれないな……」
「ああそういえば……玄安では近頃、新しい大きな薬舗ができるとかで薬草の輸送人の人手を求めているという話を患者から聞きましたな。その伝手をあたってみましょうか?」
「……いや、先生にそこまで迷惑はかけられない。万が一の事があるから、足がつかないように適当に探すさ」
 
 策が見えたことで、虎渓の視線が劉致へと定まる。そのまま声の調子を変え、探るように問う。

「劉先生、秋霖の具合はどうなんだ」

 その問いに、劉致は少し言い淀みながらも、率直に答えた。

「……あまり思わしくありません。しばらくは絶対安静でしょう……」

 虎渓にはその返答で十分だった。真っ直ぐ劉致を見つめたのち、唇の端をわずかに吊り上げる。

「……なんだ、劉先生は秋霖の味方か」

 声は軽く聞こえたが、底には微かな棘があった。それに気づいた劉致は眉を下げ、苦笑する。

「知っておられたのですか。困りましたな、板挟みだ」

 虎渓は首を振り、そのまま視線を手元に落とした。口調は静かだが、胸の奥に沈んだ重さが滲む。

「あいつがあんな事になってるのは、俺のせいだ。秋霖は、無理をしてでも動こうとする。今回の旅も……置いて行こうとしたら、気取られて、すごく怒られた」

 その言葉には、後悔と愛しさが入り混じっていた。何を守りたくて、何を犠牲にしたか。その答えを、自分で抱えるしかない。虎渓は顔を上げ、劉致に正面から向き直る。瞳に迷いはなかった。

「先生……、いざという時のために、秋霖をちゃんと朝まで眠らせられるような薬の処方箋を書いてくれないか。これ以上あいつの寿命を縮めたくない」

 しばし沈黙があった。劉致は医者として、そして一人の人間として、その願いの意味を考えていた。やがて小さく頷き、声を落として答える。

「……いいでしょう。体に負担が少ない薬があります。それに、あたためて薬酒として飲ませることができます」
「劉先生は俺の味方だな?よし、寝返ってくれ!」

 虎渓が冗談めかして声を弾ませ、膝を打つ。劉致は肩をすくめ、苦笑しながら茶杯の残りを啜った。

「医者としては、体を大切にして欲しいと思っておりますから」
「ああ、そうだとも。また無理に動こうとしたら鍼を打ってでも止めてくれ」
「分かりました」

 密やかな同盟が交わされたあと、劉致は診療所の奥へと向かっていった。
 虎渓は部屋へ戻ると、静かに身支度を整えた。鏡に映る顔を見つめる時間は短く、変装を済ませると足早に診療所を後にする。

 玄安の街を歩き、情報を求めて闇市の奥へと足を踏み入れるころには、手元の銀は底をついていた。喧噪と湿った空気の中でようやく身分証の偽造を請け負う商人に辿り着く。
 通された建物の中は、いくつかの書画が飾られており、一見すると何の変哲もない画廊に見える。だが、虎渓はそれが仮の姿であることを察していた。部屋をぐるりと見渡し、机に向かって筆を走らせる職人に声をかける。

「金はどのくらい必要だ」

 職人は筆先を止めずに返す。

「精巧なものをお求めでしたら一枚銀三十両はいただきます」

 銀十両あれば、庶民が一年を暮らせる額だ。必要なのは二枚、つまり六十両。虎渓は内心で舌を巻いた。

「仕上がるのにどれくらいかかる?」

 職人は筆を絵皿に置き、ようやく虎渓の方へ顔を向けた。口元に愛想笑いを浮かべながら言う。

「印章に裏証書、家系名簿を加えるとなると一枚に一ヶ月はかかります」

 虎渓は短く息を吐いた。考える間も惜しい。やむを得ず、腰に差していた刀に手をかける。密書のあるもう一振りは秋霖に預けたままだ。刀を抜き、机にそっと置いた。

「なら、この刀で二枚作ってくれないか。最近は手入れを怠っているが、北の職人の特注品で質に入れたら八十両はするだろう」

 職人は刀を手に取ると、鞘を払い、刃をじっと見つめた。研ぎは甘いが鍛造の技は確かだ。彼は軽く頷いて口を開く。

「いいでしょう、承りました」
「そのうちの一枚は特に精巧に作ってくれ。出来栄えが良かったら追加で支払うぞ」

 職人は再び頷き、今度は口角をゆがめて不気味に笑った。形式的な手続きを済ませ、身分や名義に関するいくつかのやりとりを終えると、虎渓は画廊を後にする。
 闇市の裏路地を抜けた先、ようやく人通りのある通りへ出る。ふと無意識に腰へと手をやると、そこにあるはずの重みがなく、空虚な感触に小さくため息をこぼした。

 あの刀は、虎渓が将軍の位を賜った日、凌峰が祝いとして贈ってくれたものだった。形見でも勲章でもない。だが、あの瞬間だけは、確かに自分が誰かに認められていた証だった。その重みを手放してでも、今やるべきことがある。虎渓は帰路へとついた。

 
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