白冥霜花

紫雲丹

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幻燼夢

第七十九話




 第七十九話



 身分証が手に入るまで、およそ二ヶ月。秋の終わりには、都へ向かう商人たちが荷運びの人手を集め始めるだろう。準備にかけられる時間としては、十分すぎるほどだ。

 外の用事を終えて裏口から診療所に戻った虎渓は、秋霖が休む部屋に向かった。
 室内は静かで、秋霖はまだ眠っている。劉致の処方が効いているのか、長旅で損なった体力を取り戻そうとしているのか、呼吸は穏やかで、顔色もいくらか和らいで見えた。
 けれど、ふとした拍子に、胸を締めつけるような不安が押し寄せてくる。このまま二度と目を覚まさないのではないか。そんな思いに駆られ、虎渓はそっと顔を近づけた。規則正しく上下する胸の動きを確かめ、ようやく心に少しの安堵が落ちる。虎渓は秋霖の手を握り、そのまましばらく傍に座り込んでいた。

 やがて、診療所の外で戸締まりの音がした。劉致が仕事を終えたのだろうと察し、虎渓は静かに立ち上がって部屋を出た。診療所の奥に向かうと、劉致が床を掃いていた。

「劉先生、ここで力仕事があれば手伝わせてくれないか。身分証がないと、玄安で職を探すのは難航する。それに目立つと索将軍にまで迷惑がかかるからな」

 掃き手を止めた劉致は、やや驚いたように目を瞬かせ、手を振った。

「ああそんな、お気を遣われなくとも……。今までお辛い目に遭われたのですから、ここで休養なされたらよろしいでしょう」

 だが、虎渓は引かない。真顔のまま、やや芝居がかった口調で続ける。

「……先生、俺は暇なんだ。それに前にいた街では俺を働かせたい奴らが喧嘩するほどだったんだぞ。この労働力を使わない手はないぞ」

 軽口とともに掃き手を掠め取ると、得意気に胸を張る。
 だがその明るさの裏に、隠しきれない苦しみがあった。何かして動いていなければ、秋霖が横たわっている姿を見るだけで、焦燥と恐怖に胸がかき乱されて壊れてしまいそうだった。
 劉致はその様子を悟ったのか、目尻に皺を寄せて微笑むと、書棚の方へと歩いた。

「そういえば凌世子様は医書をお読みになられてましたな。新しいものを学ぶと宜しいでしょう」

 虎渓は少し口元をほころばせて答える。

「そうだ、柳子琅の本は何度も読んだから覚えたぞ」
「聡明でいらっしゃる。私の息子は医書を開くことすら嫌がったものです」

 手渡された医書を受け取りながら、虎渓はほんのわずか俯き、表情をやわらげた。

「でも、御子息は別の形で人の命を救っておられた」
「……ええ。早逝しましたが、立派に務めを果たしました」

 劉致の息子はかつて北軍に従軍し、そして殉職した。劉致自身も軍医として仕えていたが、その死を機に職を退き、妻の実家がある玄安で診療所を開いた。
 凌峰と顧涵仁が遺体を連れて戻ってくれたことで、父として最期を看取ることができた。劉致は今もそのことに感謝していた。その後も顧涵仁とは文を交わし続け、恩を忘れぬようにと生きてきた。
 書棚の前に立つ劉致は、懐かしむような眼差しで虎渓を見つめ、そっと肩に手を置いた。

「わからない事があれば、いつでも聞いてください」
「ああ、もちろんだ。先生、恩に着る」

 それからの日々、虎渓は勧められた医書を片手に、診療所の雑務を手伝うようになった。合間には、劉致の協力を得ながら、なおも秋霖を救う手立てを探し続けた。だが秋霖が毒を受けてからは、すでに長い時が経っており、調べ上げたあらゆる療法も、どれもがすでに効力を失っていた。
 虎渓は、都へ行けば武芸を失わずに秋霖を救える手がかりが、どこかに残されているかもしれないと考えていた。しかし、ここで医術を学び知識を深めるほどに、その希望がいかに儚いものかを思い知らされる。
 それでも、静かに眠る秋霖の傍らで、今の自分にできることをしておきたかった。



 *



 雷鳴が遠くから近づいてくる。
 秋霖は寝台の上で目を覚まし、ぼんやりとした視線を薄暗い部屋の天井へ向けていた。夢を見ていたのかどうかも分からない。目を覚ましてからしばらく経つのに、意識はまだ靄の中にあるようだった。
 一日のほとんどを眠って過ごしているせいで、今日が何日で、今が昼なのか夜なのかも判別できなかった。
 秋霖はゆっくりと身体を起こし、床に足をつける。しばらく立ち上がるのが億劫で、壁伝いに扉の方へ歩いた。軋む音を立てて開いた扉の隙間から、中庭が見える。土砂降りの雨が軒を打ち、庭石に激しく跳ねる水しぶきが見えた。
 空を見上げると、雲が厚く垂れ込め、雷光が一瞬だけその輪郭を浮かび上がらせる。真夏の通雨だろう。
 そう思って目を戻した先、中庭の向こう、向かいの部屋の軒下がふと視界に入った。
 そこには、虎渓と見知らぬ女性が並んで座っていた。手元には青豆の山があり、二人は顔を見合わせながら笑い、豆の筋を剥いている。
 雨音のせいで会話は聞こえなかったが、彼らの表情を見ればそれで十分だった。扉の隙間からぼうっと、亡霊のようにその様子を眺めていた秋霖は、気づかれぬように静かに扉を閉じた。

 虎渓が知らぬ間に知らぬ誰かと仲良くなるのはいつもの事だ。だが、今はそれがどうしても寂しく思えた。
 それは一体なぜなのか。人生を共に歩めないと悟ってしまったからか。否、そうではない。これはもっと胸の奥に刺さる棘のようなものだ。
 目が覚めたときに、彼が自分を見つめていない。別の誰かと笑っている。その寂しさは、どのように言葉にすればいいか分からない。

 (あの廃寺で、私を求めて名を呼んでくれたのだから、今だって隣にいてくれてもいいではないか)

 秋霖は自分の欲求に気づき、手を震わせて拳を握った。この気持ちは、きっと病のせいだ。病で弱ったのは身体だけではない。自分は彼の瞳ではなく、背中だけを追っていればいい。心を律して、ふらふらと寝台へ戻ろうとしたとき、部屋の扉が開いた。

「秋霖……!やっぱり起きてたか」
「………あ……」

 顔を覗かせた虎渓は、にこやかだった。先ほどの女性との会話の余韻がまだ残っているのだろう、声にも雰囲気にも笑いが滲んでいる。
 秋霖の胸に、またひとつ棘が刺さった。

「さっき一瞬お前を見たような気がしてな。起きたなら声をかけてくれ」
「あの方は……」

 言葉は無意識に口をついて出た。虎渓は秋霖の問いの意図を一瞬だけ考えたあと、軽く笑って答えた。

「ああ、劉先生の奥方の姪御さんだ」
「仲がいいのか」

 秋霖は自分が何を口走っているのか理解しつつも、なぜか聞かずにはいられなかった。虎渓はきょとんと、首を傾げ始める。

「……仲がいいって?人妻だぞ。十も歳上で五才の子供がいる」

 その途端、秋霖はふっと笑みをこぼしたように息を吐いた。自分の胸を締め付けていた考えが、あまりにも愚かだった事を突きつけられたからだ。

「ふ、ふふふふ」

 急に肩を震わせて笑い出した秋霖に、虎渓はおそるおそる顔を覗きこむ。このように声を上げて笑う秋霖は酒に酔ったとき以来、見た事がない。

「何笑ってる……?」

 秋霖は答えずに視線をそらし、そのまま寝台へ腰を下ろした。ようやく笑いが収まったころ、胸元を押さえながら自嘲気味にぽつりとつぶやく。

「私は……長く眠り過ぎて、少しおかしくなったようだ」
「……ええ?!先生を呼ぶか?!」

 心配そうに虎渓が一歩踏み出しかけたその瞬間、秋霖が手を伸ばし、それを制した。

「お前の声が少し頭に響く、私はまた休むから部屋を出て行ってくれ」

 言葉はやや冷たく、余裕のない響きを帯びていた。虎渓は不満げに眉を寄せたが、黙って従いその場を後にする。
 扉が閉まる音がして、部屋に静寂が戻った。秋霖はゆっくりと寝台に身を倒し、掛け布団を引き寄せる。
 瞼の奥に焼きついて離れない虎渓の笑顔から逃げるように目を閉じ、雷の音が聞こえないように耳を塞いだ。

 ――あまりに愚かだ。
 安堵した矢先、その腕に、抱きしめられたいと思うなど。どうかしている。
 
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