白冥霜花

紫雲丹

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幻燼夢

第八十話




第八十話



 夏の嵐が吹き荒れる午後。
 秋霖は寝台の傍で、脈を取るように自らの手首に触れながら、医書に目を走らせている虎渓に問いかけた。

「この医書が理解できるのか」

 枕元には、劉致から借りた数冊の医書が積まれていた。秋霖はそのうちの一冊を手に取り、ぱらぱらと捲ったあと、一度閉じる。虎渓は医書に視線を落としたまま、淡々と答えた。

「そりゃあ一度読んだだけでは分からんさ。何度か読み返して、劉先生に聞いてようやく理解できる」

 医書には、秋霖でさえ難解に感じる専門用語が並んでいた。そんな書を地道に繰り返し読む虎渓の姿に、素直に感心していた。

「お前にしては勤勉だ。まさか医術に適正があったとはな」
「医術は面白い。それに習得できれば、お前の体も診てやれる」

 虎渓はようやく顔を上げると、秋霖を見た。そして脈を比べるように手首に触れたり、自分の脈と照らし合わせて首を傾げたりしていた。その様子が少しおかしくて、秋霖は小さく笑う。

「昔のお前は、私が書いた作文をそのまま書き写していたというのに……」

 その言葉に虎渓は顔を上げ、むっとしたように抗議した。

「おい、子どもの頃の話だぞ。俺は作文は苦手なんだ。それに算術は得意だった」
「そうだな。確かにお前の算術の速さは目を見張るものがある」

 秋霖がそう認めると、虎渓は再び医書に目を戻し、読み進めていく。部屋に静寂が訪れると、外から風の唸りと、窓を叩く激しい雨音が響いてきた。
 寝たきりの日々が続く中、虎渓が傍にいてもなお、静けさが続くことにどこか物足りなさを感じた秋霖は、ふと虎渓を試すように問いかける。

「……戦の翌日、お前の陣営には五千の兵が残った。戦闘前にいた兵は八千。戦で戦死した者は、生き残りの四分の一より百人多い。別の城から千五百の補充兵が届いたが、そのうちの十分の一は既に負傷しており戦に出られない。では、次の戦で仕える兵力は全部で何人だ?」
「……嫌な聞き方だな。六千三百五十だ」

 一瞬の迷いもなく答えた虎渓に、秋霖は目を細める。

「わざと捻ったのだ。よくもまあそんなに早く計算できる」
「お前だって計算は早い」
「いや、私は実際にあった例を覚えていたからな」

 秋霖は愉快そうに笑ったあと、ふと満足げに呟いた。

「お前は生まれながらにして将だ」

 その言葉に虎渓は顔を上げ、医書を膝の上に閉じてそっと置く。そして秋霖の手首に触れたまま、身を少し屈め、じっとその顔を覗き込んだ。

「……お前は、何にでもなれたはずなのに俺の臣下におさまってる」

 秋霖は視線を虎渓へ移す。その言い方が不本意だと感じ、静かに心の内を語った。

「私が多芸なのは、全て、お前を支えるという目標があったからだ。お前がいなければ私は何にもなれない」

 国のため、民のため、凌家のため、そして虎渓のために生きてきた。己の宿命に疑問を抱いたことはない。それでも、辛い日々を乗り越えるには、目に見える希望が必要だった。明るく、情に厚く、素直で、心優しい虎渓の存在がその希望だった。何よりも、自分を慕ってくれる彼の眼差しが救いだった。頼りにされ、必要とされるからこそ、ひたむきに自分を磨いてこれた。
 それこそが、自分の価値であり、誇りなのだ。

「お前の腹心という立場を、他の誰にも奪われるわけにはいかなかった。私でなければならないと、一番に必要とされなければ意味がない。それが私の生きる理由であり本望だ」

 虎渓は頬を赤らめながらも、どこか睨むように秋霖の顔をじっと見つめた。

「秋霖、お前は今、自分が何を言っているか理解しているか」
「……どういう意味だ?」

 真摯に気持ちを伝えたつもりだった秋霖は、虎渓の言葉の真意を測りかねて首を傾げる。虎渓は少し肩を落とし、言い聞かせるように答えた。

「阿秋、強さも賢さもその努力も、全てお前が一番だ。お前が隣にいるおかげで俺がどれだけ誇らしいか、どれだけ頼りにしてきたか、語りきれないほどだ」

 虎渓の熱のこもった真っ直ぐな瞳に、今度は秋霖の頬が徐々に赤く染まっていく。

「だが、俺は他と比べてお前が優れているという理由だけで好きになったわけではない。お前にはお前だけの良さがある。唯一無二だと感じる尺度というものは、きっと他人と比較することではかるものでは無いのだろう」

 胸の内に確かな喜びが芽生える。秋霖は視線をそらすことができず、虎渓に問いかける。

「それでは、どう決めるのだ」
「……魂だ。こうして触れ合った時に分かる」

 虎渓は脈に触れていた手を滑らせて秋霖の冷たい掌に重ね合わせる。互いの指が絡み、握り合うと体温が伝わる。触れ合っているだけで、まるで形がぴたりと嵌るように心地良い。これはきっと、互いを想い合っているからこそ生まれる感覚なのだ。

「……脈が早いな」

 虎渓がにやりと笑うと、秋霖は慌てて手を振り払い、寝返りを打って顔を背けた。

「考え事をすると、不安で脈がよく乱れる」

 そう言い訳をすると背後で、再び医書を開く音が聞こえた。虎渓は鼻先で笑い、小さく呟く。

「お前は心配性だな」
「お前ほどじゃない」
「俺がこんなに心配するのは、お前が自分を省みずに無茶をするからだ」
「……」

 返す言葉を失い、秋霖は静かに胸元を押さえた。触れ合うことで生まれる確かな喜びが、まだ掌に残っている。

 虎渓のためならば、どんなことでも、命を投げ出すことも惜しくない。だが今は、彼を一人にすることの意味が、ようやく分かる。
 せめて命が尽きるそのときまで、もう少しだけ、隣にいよう。できることなら、もっと長く、永く隣にいよう。

 ――私も、お前が特別に好ましく思う。ずっと触れ合っていたいと願ってしまうほどに。

 その想いが、確かに胸の内にあった。

 
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