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幻燼夢
第八十一話
第八十一話
「秋霖、お前に誕生日の贈り物だ」
残暑が和らぎ、空気に秋の気配が混じり始めたころ。虎渓は一枚の紙を手に、寝台の秋霖のもとを訪れた。差し出された紙を受け取り、秋霖は目を細める。
「新しい身分証だぞ。証書までつけてあるから、これだけ精巧なら顔を知られていない限りは怪しまれないだろう。……これがあれば、まだ旅を続けられる」
明るく告げる虎渓の声に、秋霖も自然と微笑んだ。けれど、その笑みはどこか翳りを帯び、視線は伏せられたままだ。
「お前の刀を質に入れさせてしまったな……」
「……阿秋、喜んでくれ」
虎渓はふいに拗ねたような口調で言う。その様子に、秋霖は小さく息を吐いてから、慎重に身分証を枕元の荷物へしまい、改めて虎渓に向き直った。
「喜んでいる。お前の気持ちが嬉しい」
虎渓は満足そうに笑みを浮かべた。けれど、秋霖にはその目の奥がどこか遠く感じられ、胸に一抹の不安が過ぎる。根拠はなく直感だったが、確かな違和感があった。
「あとは都に行く隠れ蓑として、商隊の荷運び人の働き口を探す。身分証があれば必要ないかもしれないが、念の為な。いい募集が出てないか見てくる」
そう言って立ち上がろうとする虎渓の袖を、秋霖は思わず掴んだ。
「お前の身分証も見せてくれ」
虎渓の顔に、わずかに困ったような苦笑が浮かぶ。だが秋霖は強く袖を握ったまま、まっすぐに彼を見据える。その眼差しの強さに、虎渓は諦めたように口を開いた。
「別に、似たようなものだ」
そう言いながら懐から身分証を取り出す。秋霖はそれを受け取ると、目を通してすぐに声を強めた。
「私のものは証書がついているのに、お前のものは無いのか。それにまた身分が違う」
「秋霖、お前の顔立ちと立ち振る舞いじゃ、庶民の方が不自然だ。それに、商隊の荷運び人に士人が二人も紛れていたらおかしいだろう」
淡々と返す虎渓の口調から、周到に考え抜いた結果であることが伝わる。秋霖は目を見開いた。理由はわかっている。だが、納得はできなかった。
「……私に荷運びができないとでも」
虎渓は黙ったまま片眉を上げる。それが答えだとわかって、秋霖の声はかすかに焦りを帯びた。
「かつてはお前と共に何ヶ月も戦場を駆け続けたのだぞ。病身であっても一ヶ月の荷引きぐらい問題ない」
虎渓は、そう言われることも予測していた。ただ、どれだけ説得しても、秋霖は自分の身を省みずに付いて来ようとする。それがわかっているからこそ、今は強く言わなければならなかった。
「お前に荷引きはさせない。これは俺のお願いだ。聞いてくれるだろう?」
感情が抑えられた、しかし決して譲らぬ声だった。その低さに、秋霖は思わず息を呑む。命令ではないが、そう言われるよりなお重たく響く言葉だった。けれど、どうしても認めたくない。
「劉先生のおかげで私は平気だ。壊れもののように扱わずとも――」
「俺が病人に鞭打つような悪徳な鬼に見えるのか?」
言いかけた秋霖の言葉を、虎渓が遮る。その顔には笑みがあったが、どこか冷たく、拒絶するような色が差していた。その態度に、秋霖は呆然と言葉を失う。
掴んでいた袖を虎渓の手が引き剥がし、ふっとため息が落ちる。これ以上は話しても無駄だと、虎渓は部屋の扉へと歩いた。その背中を見つめながら、秋霖の胸にぽつりと寂しげな言葉が落ちる。
「私を置いていくつもりなのだな」
その一言に、虎渓の動きが止まる。続けざまに、秋霖が立ち上がり、背に手を伸ばしてそっと抱きしめた。虎渓の肩に秋霖の頬が寄せられる。その温もりが、虎渓の心の奥にじわりと染みた。
「……秋霖」
呼ばれた名に、秋霖はただ黙って寄り添う。
――お前を一人にしない。
そう言ったのは、自分が一人になりたくなかっただけだった。しかしこれ以上は、虎渓に迷惑をかけてはならない。困らせて、煩わせて、負担になってはいけない。わかっているはずなのに、それでも心は抗ってしまう。どうしてこれほどにも苦しいのか。
「……最期に一つ頼みがある」
せめて、別れの慰めがほしい。
もう二度と、会えないかもしれないのなら。少しくらい、求めても許してもらえるだろう。今一度、彼の体温を感じられたらきっと諦められる。秋霖は声を震わせ、羞恥に耐えながらも懇願するように囁いた。
「虎渓、私を……抱き締めてくれ」
声は掠れ、もはや音になっていなかったが、かろうじて届いた。次の瞬間には、秋霖の身体は虎渓の腕に強く抱きしめられていた。
互いの体温がひとつに重なり、秋霖は肩の力を抜いて目を閉じた。虎渓の肩に頭を預け、胸の奥から安堵の息が漏れる。
虎渓の腕には、抗いきれない想いがこもっていた。もうどうしようもなく、愛しい。
(俺もお前に、置いていかれたくない)
静けさの中、呼吸と、互いの心音だけが聞こえる。その一瞬が、何よりあたたかく、やさしかった。秋霖が顔を上げると、虎渓の掌がそっとその頬に触れた。秋霖は目尻を朱に染め、伏せた睫毛をわずかに震わせてその手に寄り添った。
「秋霖……」
その名を、愛しげに呼ぶ声が喉を震わせる。求めていたはずの目の前の光景が、なぜか信じられなかった。虎渓はその頬に触れた手を引き寄せ、鼻先をそっと近づける。秋霖の目が閉じられて、唇が重なった。
淡く、柔く、やさしい口づけ。すぐに離れたその瞳に、お互いの姿が映る。再び口づけが落とされ、互いの想いを交わすように、確かめるように、何度も重ね合った。
それは一方的ではなく、たしかに心が通じるものだった。
「……阿秋……」
名を囁くたび、秋霖の白い頬に淡く紅が差していく。抱きしめた体を離すことなど、もうできなかった。これが夢でも、錯覚であっても構わない。そう思えるほどに、秋霖の存在は切実で、たまらなく愛おしかった。
どんな言葉なら、秋霖の心に届くだろう。
どうすれば、秋霖から本当に欲しい言葉を引き出せるだろうか。今、何と言えば結び合えるのか。虎渓は迷っていた。
しかしそのとき、診療所の外から複数の重い足音が近づいてくるのに、二人は同時に気がついた。聞き慣れた兵士たちの足音だった。
甘く静かな空気が一瞬で掻き消える。突如として現実に引き戻され、緊張が二人の間に走った。
「今日、身分証を受け取りに行った時に見られたか……!」
虎渓が顔を歪めながら呟く。秋霖はすぐに身を引き、寝台に置いてあった荷物と、密書の入った刀を掴んで虎渓に押し付けた。
「見つかる前に早く行け」
手渡された荷を受け取りながら、虎渓ははっと思い出す。この中には、秋霖の身分証も入っているはずだ。急いで探ろうと手を伸ばしかけたが、秋霖がその手をそっと止めて微笑んだ。
「二枚あれば状況によって使い分けられる。持っていけ。私にはもう……必要ない」
その言葉に、虎渓は息を呑んで顔を上げる。秋霖の表情には諦観が滲んでいた。だが、それでも微笑みは穏やかだった。
診療所の方から、劉致と兵士たちのやり取りが聞こえてくる。踏み込まれるまで、もう時間はない。秋霖が虎渓の肩を押し、扉のほうへと向かわせた。
「案ずるな、患者のふりをしていれば気づかれないだろう」
虎渓の胸の奥で、鼓動が早鐘のように鳴り響いていた。焦燥と、情念が揺れ動き、渦を巻く。きっとこの冬を最期に、もう二度と、会えなくなる。もう二度と。それを覚悟していたはずだ。
虎渓は一歩を踏み出して背を向ける。しかし、その手は秋霖の腕を掴んでいた。
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