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幻燼夢
第八十五話
第八十五話
潘廷傑は宮殿に参内し、皇帝への新年の挨拶を終えた帰途にあった。
都では爆竹が盛んに鳴り響き、それを追うように銅鑼や太鼓の音があちこちから聞こえてくる。大通りにはすでに人波が溢れていた。新調の衣をまとった男たちが袖を返して拱手を交わし、子どもたちは紅包を手に駆け回る。門戸には正月の赤い飾りが揺れ、爆竹の殻が血飛沫のように石畳に散っていた。
大晦日の酒がまだ体に残っていた潘廷傑は、あくびを噛み殺しつつ、屋敷に戻ってひと眠りするつもりで護衛を連れて馬をゆっくりと歩かせていた。潘家の屋敷が目前に迫ったとき、前方から、人混みをかき分けながらゆっくりと歩み寄るひとりの男の姿が目に入る。
その瞬間、潘廷傑の瞳が見開かれた。
――なぜ奴がここにいる。なぜ誰も気づかない。
人々は年の初めの賑わいに夢中で、誰ひとりとしてその黒い影に気づかない。男は一歩一歩、石畳を踏み締めながら、鬼神のような眼光で潘廷傑を射抜いていた。
すぐさま潘廷傑は兵に向かって怒声を上げた。
「凌虎渓だ!! 殺せ!!」
号令と同時に兵たちが一斉に剣を抜く。ざわめきが広がり、人々の波が割れた。その裂け目を縫うように、虎渓は刀を抜き、素早く兵を斬り伏せていく。
その光景を一瞥し、潘廷傑は即座に馬を蹴って駆け出した。援軍を求めて宮殿へ戻ろうとするが、虎渓は密書を持っているはずだ。舒王の前で公にされては、一巻の終わりである。
潘廷傑の馬は虎渓の頭上をかすめ、一直線に潘家の屋敷へと逃げ帰った。将軍でありながら、背を向けて逃げるその姿に、虎渓は怒りのままに拳を握りしめる。
奪った兵の馬に飛び乗ると、虎渓は潘廷傑を追って屋敷へと駆けた。塀を越えて中へ踏み込み、待ち構えていた私兵たちへ次々と斬りかかっていく。正月を祝っていた潘家は、突如として戦場へと変貌した。
立ち塞がる者を容赦なく斬り伏せながら、利き手に刀を、左手に奪った剣を握り、虎渓は声を張り上げ、屋敷中に響き渡るよう叫んだ。
「潘廷傑……! 北彊と通じた裏切り者が! 我が一族と北軍五万の兵を滅ぼした罪がお前に償い切れるか!!」
二つの鉤爪を持った一匹の獰猛な虎が、獲物を求めて咆哮するように屋敷内を駆け回っている。復讐と憤怒に満ちたその殺気に、潘家の者たちや使用人たちは部屋へと逃げ込み、喰い殺されないよう物陰に身を潜めて震え上がった。
虎渓は目についた戸を片端から蹴破り、人の気配がする部屋を次々に改めていく。やがて侍女たちが身を寄せ合って怯えている一室で、潘廷傑の妻の姿を見つけた。彼女は舒王の娘であり、今や麟和公主の称号を賜っていた。
悲鳴を上げる侍女たちを押しのけ、虎渓は抵抗する麟和公主の腕をつかむと、そのまま見晴らしの良い中庭へと引きずっていく。周囲に神経を研ぎ澄ませながら、彼女の首に刃を突きつけ、声を低く命じた。
「潘廷傑をここに呼べ! そうすれば命は見逃す!」
脅された公主は、泣き叫びながら夫の名を呼んだ。
「あなた……! 助けてください……! あなた……!」
公主を人質に取られて、侍女や使用人たちは武器を捨てると地に膝をつき、泣き伏すように頭を垂れた。
だが、潘廷傑は、屋敷へ戻るなり、妻と子を置き去りに、書斎の奥にある隠し部屋へとたった一人で逃げ込んでいた。差し迫る危機と恐怖に、我が身可愛さに、考える暇もなく、ただ本能のままに。
麟和公主の叫び声に、彼は耳を塞いだ。
舒王を裏切った今、妻を裏切ったところで何が変わるか。彼女は潘家の血を引いているわけではない。だが、我が子は惜しい。されど、いかに凌虎渓が復讐に燃えていようとも、子どもにまでは手を出さないだろう。
そうやって、自らの行動を必死に正当化していた。
まだ死ぬわけにはいかない。ここで死ねば、これまでの努力も計画も全てが水泡に帰す。生き延びさえすればいい。機を見てどうにか都を脱し、銅陵城へ逃れることができれば、再起の道はまだある。
「麟和公主よ、見限られたようだな」
虎渓は、彼女にだけ聞こえる声で言った。冷たく笑みを浮かべた鼻先が揺れる。公主がいくら叫ぼうとも、物音一つせず、屋敷は沈黙に包まれ、潘廷傑が現れる気配はない。
「潘廷傑! 北彊との密書は必ず陛下の手に渡るぞ! ここで逃げ隠れたとて無駄な足掻きだ!」
苛立って声を荒げる虎渓の隣で、麟和公主はそっと涙を流した。潘廷傑が現れない事が"答え"だ。
凌虎渓の母、昭月公主は先帝の娘であり、凌家が代々国境を守ってきた一族であること。寧国を裏切るはずがないことを麟和公主は理解していた。そして、虎渓が言う「密書」が真実を語るものであるなら、本当の裏切り者が誰かを、彼女は黙って悟った。
その時、侍女頭が恐る恐る前に進み出て、地に伏し、震える声で懇願した。
「凌虎渓様……! 奥様は旦那様が北彊と密通していたことなど知りませんでした……! どうか、ご慈悲を……!」
潘廷傑は、舒王の娘である妻にはその事実を知らせていなかったのだろう。
虎渓は女子供に手をかけるつもりなど初めからなかった。だが、公主として新たな位を与えられた彼女に、どうしても言わずにはいられなかった。
「我が父、凌峰は、北彊と通じた奸臣の手から先帝の生誕祭の日に皇族の命を救った! 舒王だった陛下もそこにいた! だが陛下は、その時の恩をお忘れになっているようだがな!!」
虎渓は吠えるように叫ぶと、麟和公主の体から刀を離した。彼女は膝から崩れ落ち、地面に伏す。
「命あっての玉座だ! 公主であるならば、一体誰のおかげで今があるのか、陛下によくお聞かせしろ!」
麟和公主は虚ろな瞳で地面を見つめていた。
夫は国を裏切り、密通を知らされることもなく、命の危機にすら見捨てられた。もはや夫婦とは呼べない。虎渓の言う密書が公になれば潘家は終りだ。そして舒王とて、地位と体面を守るためならば、潘家に嫁いだ娘すら切り捨てるだろう。もはや望みはなく、このまま生き恥を晒す事は耐えられなかった。
「……凌家への忘恩負義、我が父に代わり死んで償います……!」
麟和公主は力を振り絞り、立ち上がりざま、虎渓が手に持ってた剣を奪うように素手で掴むと、己の喉を掻き切った。彼が止める間も無く、彼女は血を噴いて崩れ落ちた。
「奥様ぁぁああ!!!」
屋敷に響く侍女頭の絶叫。そのまま彼女も駆け寄り、懐に隠し持っていた毒瓶の蓋を開け、一息に飲み干す。そして後を追って自害した。
虎渓は茫然とその様子を見つめていた。だが、すぐに我に返り、血に濡れた剣を拾い上げる。滴る血をその手に受けながら、憎き潘廷傑を追って、ふたたび歩き出した。
「俺はまさしく悪鬼だが、潘廷傑……お前ほど外道に落ちた者はおらぬぞ! 惨めに援軍を待とうとも、お前を殺すまで俺はここを離れん!」
やがて、虎渓は潘廷傑が身を潜めている書斎へと足を踏み入れた。気配を探って室内を見渡していたその背後、隠し部屋の扉が跳ね上がる。そこから潘廷傑が飛び出し、怒声と共に襲いかかってきた。
「おのれえええ!!凌虎渓いいい!」
不意打ちだったが虎渓は咄嗟に反応し、刀で相手の剣を受け止めた。そのまま火花を散らしながら、二人は死に物狂いで斬り結ぶ。刃が交差するたび、書斎にあった燭台が倒れ、積み重ねられた書物に火が燃え移っていく。
「いつもいつも!!凌家は!!我が潘家の邪魔をする!!」
窮鼠、猫を噛む。潘廷傑は虎渓に武では及ばぬが、それでも一軍を率いた将としての戦場経験があった。死に物狂いで周囲の家具を投げ倒し、虎渓の動きを塞いでは逃げ道を探る。
「燕雲城が落ちたのは馬家が凌峰に愛想をつかしたからだろう!!!慢心が引き起こした自業自得ではないか!!」
「黙れ!!寧国を売り渡す密約を交わしておいて何の言い逃れをするつもりだ!!己の保身しか考えず、国も主君も妻も捨てたお前に道理を語る資格などない!!」
虎渓が追いつき、背を見せた潘廷傑の背中を斬り裂いた。呻きながら膝をついた潘廷傑は、最後の力を振り絞って反撃の一撃を見舞う。虎渓はそれを受け止め、刃と刃が押し合った。
次の瞬間、潘廷傑は血を吐き、狂気のように笑った。
「凌虎渓!!俺とお前の死をもってこの国は滅ぶのだ!!!」
その刹那、虎渓の背後に小さな影が滑り込む。身の丈に合わぬ剣を握った少年が、部屋の外から現れて虎渓の脇腹を狙って迫っていた。潘廷傑の息子だった。
「母上の仇だッ…!!」
両腕をふさがれたまま、虎渓はほんの一瞬、どうすれば少年を傷つけずに回避できるかを迷った。だが、その一瞬が命取りになる。足で剣を蹴り上げて少年の武器を弾いたが、直後に潘廷傑の剣が虎渓の胸を深く裂いた。
「お前の息子はお前と違って義理堅いな……!」
血を吐きながらも、虎渓は歯を食いしばって刀を振るい、力任せに潘廷傑の首を断ち斬った。鮮血が噴き上がり、仇の首が床に転がる。すぐ目の前で父を失った少年は、剣を取り落としたまま呆然と立ち尽くしていた。
「望み通り死んでやろう!!!行け!!!どこへでも行って生き延びるといい!!!」
虎渓の怒声が書斎に響く。その背後では、燃え広がった炎が屋敷全体を包み始めていた。潘廷傑の息子を探していた侍従たちが駆け寄り、少年の手を取って慌ただしく外へ連れ出していく。
虎渓は肩で荒く息をし、刀と剣を手放して胸を押さえた。流れ出す血が掌に広がり、地を赤く染める。潘廷傑の執念が残した一太刀は深かった。
だが、復讐を果たした虎渓の心のうねりは凪いでいた。
――秋霖のもとへ帰らねば。
その思いだけを支えに、虎渓は屋敷の外を目指して一歩を踏み出す。しかし、崩れた瓦礫が既に行手を塞いでいた。煙と炎が視界を覆い、足元から迫る熱が体を呑み込んでいく。
業火に包まれるその瞬間、まるで地獄が手招くように、熱が皮膚を焼いた。虎渓は喉にせり上がった血を吐き出し、震える肩で笑った。
「天理昭昭!!!天は悪を誅する!!!天は誠に正しい!!!ははははははははは!!!!」
その時、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。虎渓ははっとして顔を上げる。炎の向こうで、黒い人影がじっとこちらを見つめていた。
「……すまなかった」
共に南へ行くと約束したのに、それを果たせなかった。だが、自分はやり遂げた。一族の仇を討った。その想いだけは、秋霖に伝えたかった。
「俺は――例え悪鬼になろうとも……父上や母上、叔父上、叔母上…皆の無念は、晴らしたぞ」
秋霖のもとへ帰りたかった。だが、足元にはもう炎が絡みついていた。それを察した秋霖が、火の中へ飛び込もうとする。虎渓は、声を絞り、懇願するように止めた。
「来るな、秋霖。……頼む。お前は俺の代わりに……生きて、南へ行ってくれ。だからもう……ついてこなくていい」
だから、お願いだ。少しでも生き延びてくれ。
虎渓は、髪にさしていた虎の簪を外す。それを片手に握りしめて、胸元に引き寄せると、目を閉じた。
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