白冥霜花

紫雲丹

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幻燼夢

第八十六話




 第八十六話



 巡衛司たちが水を汲み、ようやく現場に駆けつけた頃には、潘家の屋敷は轟々と燃え盛っていた。もはや手の施しようもなく、焼け石に水だった。幸いにも周囲に茂っていた青竹が火の勢いを食い止め、隣家への被害は最小限に留まった。人々はただ、屋敷が黒炭と化すのを遠巻きに見守るほかなかった。
 その竹林の中に、秋霖は身を潜めていた。声もなく、静かに涙を流しながら、燃え尽きてゆく屋敷を見つめていた。

 明け方になる頃には、かつての威容を誇った屋敷はすっかり焼け落ち、灰と焦げた柱だけが残されていた。秋霖は足を踏み入れ、焦げ跡の中から燃え残った虎渓の刀を見つけた。そしてその傍にあった、炭のように黒く大きな塊が虎渓であることを悟った。
 秋霖は、屋敷の中で焼け残った陶器の壺を拾い上げる。手のひらですくった黒灰と焦げた破片を、ひとつひとつ丁寧に壺の中へと納めていく。指先が黒く染まっても、彼はただ無言で、それを繰り返した。
 かつて自分を包むほど大きかった身体が、いまや片腕で抱えられる壺にすべて収まってしまった。
 秋霖の心の中は、空白だった。言葉も感情もなく、ただ時おり、涙だけがぽたぽたと地面に落ちていた。

 薬を盛られた秋霖が宿で目を覚ましたとき、懐にはずっしりと重たい虎符が、荷の中には密書が、そして机の上には一通の遺書が広げられていた。すべてを置き去りにして、虎渓は逝ってしまった。

 秋霖はふたたび、その手紙を取り出して広げた。

『――秋霖、置いて行ってすまない。
 俺の代わりに、舒王に潘廷傑の裏切りの密書を届けて欲しい。虎符も奴に奪われないように、お前に託す。
 一日経ってもお前の元へ戻らなければ、先に鎮南へ向かってくれ。お前は俺の、魂の片割れだ。だからこそ少しでも長く生きていて欲しい。
 もし再び会えなくなったとしても、落ち込むな。来世があるならば、必ずお前を見つける。』

 虎渓は、字が汚いことを気にして手紙など書かなかった。その彼が、初めて自分のために残した言葉だった。
 一見すると武骨に見える虎渓だが、その筆跡には繊細さと、あたたかな思いやりが滲んでいる。かつては、その見た目と字の印象があまりに違うと人にからかわれ、照れたように顔を背けていた。それを思い出すと、胸が締めつけられるほど愛おしく、哀しい。

 ――お前が私に役目を託すというのなら、そうしよう。

 けれど、それよりも今は虎渓の遺骸を北へと連れて帰ることが先だった。潘廷傑と麟和公主の死により、都はこれから混乱に陥るだろう。そうなれば、ゆっくりと弔うことすら叶わない。
 秋霖はそっと手紙を懐に戻し、骨壺を胸に抱いて、静かに屋敷を後にした。



 新年の祝いの余韻が残る、とある街に真冬の雪が舞っていた。
 検問の門番たちは、煤と血にまみれた衣を纏った異様な男に目を止めた。亡霊のように青ざめた顔でふらふらとしながら馬を曳き、何かを胸に抱えていた。門番が身分証を改めると、目線はその壺へと移った。

「一体何を持っている、中を見せろ」
「……遺骨です。故郷で埋葬しようかと」

 秋霖が壺にかけていた布をめくる。中を一目見た門番は、顔をしかめて手を振り、追い払うように通行を許した。そのやりとりを見ていた後ろの人々が、囁き合った。

「骨壺を抱えているそうだ」
「まあ……可哀想に……」
「不気味じゃないか、正月だというのに縁起が悪い」

 言葉の一つ一つが背中を刺すようだったが、秋霖は表情ひとつ変えず、馬に跨り、街を抜けて北へと向かった。雪は深まり、寒さは秋霖の心と身体を容赦なく凍らせていった。
 片腕で抱く冷たい骨壺に目を落とすたび、秋霖の瞳にはまた涙が浮かぶ。だが、それは頬を伝う途中で氷となり、睫毛は白く凍った。

 ――どうして私を置いていったのだ?

 無理をさせたくなかったからか? 足手纏いだったからか? 私が復讐を躊躇っていたからか?

 ――違う。きっとそれだけではない。

 私たちは、最後まで、本当の意味で通じ合えていなかったのだ。本当の気持ちを、理解し合うことができていなかった。

「お前は、私の言葉が欲しかったのだな」

 好きだという想いは当然すぎて、当たり前のように愛していた。けれど、その想いに別の形の愛が加わったとき、どう言葉にすればよいのか分からなかった。言葉にしても許されるのかどうか、分からなかった。
 ただ触れ合えるだけで幸せだと、それだけで満足していた。

 私はいつも、お前の隣に立たず、後ろにばかり立っていたから、とうとう置いていかれたのだ。

「お前を失うことが、何より辛い」

 お前が、生きるための希望だった。
 お前がいないと、こんなにも寒い。凍りつくように痛い。
 お前がいないと、粉々に砕けて、壊れてしまいそうだ。
 魂を別つからこそ、一つになれぬことが、こんなにも苦しい。

「お前と共に、灰になりたかった」

 眠れず、何も喉を通らず、ときおり雪をすくって口に運ぶと、その冷たさだけが体中の痛みを麻痺させてくれるようだった。
 ひたすらに故郷の燕雲城を目指して進み続けた。その足跡の傍に、秋霖の吐いた血が赤く点々と、凍てついた雪の上に並んでいた。


 *


 雪深い燕雲城を一望できる山へ登り、秋霖は虎渓の亡骸を、家族の眠る墓所へと静かに埋葬した。凍えた手で土を掘り、ひと掬いずつ灰を納めて、何度も頭を下げた。朝方に登ったはずの山は、気がつけば濃い夕暮れの気配に包まれていた。
 秋霖の帰還を門番から聞きつけた魏昶は、一日中街中を探し続けていた。そしてようやく、山から降りてきた秋霖の姿を、誰もいない凌家の屋敷の前に見つけた。
 黒い外套は雪にまみれて白く染まり、やつれた顔には生気がなく、今にも倒れそうなほど憔悴していた。
 魏昶はただならぬ様子を感じ取り、そっと彼に近づいて肩に手を置いた。

「入れ違いになりましたな……!朔清遠殿は太晋城へお戻りになられております」
「魏昶殿……」

 秋霖は感覚のない手で礼を返すが、掠れた声は風に溶けて音にならなかった。

「秋霖殿、若君はどうしたのだ……?」

 その問いに、秋霖は答えられなかった。魏昶は胸騒ぎを覚えながら、懐から一通の手紙を取り出した。

「鎮南から便りが届いておりました……!丹瑤様はご無事であられますぞ……!若君にもお伝えください……!」

 秋霖は震えながら手紙を受け取って目を通した。丹瑤は鎮南王の庇護のもと、誅滅を免れ、寺に身を寄せていた。そして、次男も無事に生まれていた。虎渓と秋霖の無事を信じて、再会を心から願っていた。
 秋霖は手紙を魏昶に返しながら、強く瞼を閉じ涙をこぼした。

 命に代えてでも支えると彼女に誓ったのに、もはや、合わせる顔もない。秋霖はその場に崩れ落ちるように膝をつき、魏昶に頭を下げた。

「……魏昶殿、どうか、燕雲城を頼みます。私ももう、病で先が長く無い。朔伯父上にもよろしくお伝えください……」

 魏昶は黙って雪の上に膝をつき、秋霖の肩に手を添えた。

「一体どういうことです……?」

 声は既に震えていた。秋霖はやっとの思いで言葉を絞り出した。誰かに虎渓の死を伝えるだけで、重くのしかかる現実に、押し潰されるようだった。

「虎渓は、我が主君は、潘廷傑を、仇を討ち、差し違えました……」
「まさか、あなたを置いていったのか……?」

 秋霖は感情を押し殺しながら黙って俯いた。魏昶はしばらく呆然とし、何度も首を振ってから雪が降りそそぐ夜空を見上げた。
 玄安から知らせの鳩を受け取った魏昶は、虎渓の帰還に備えて軍を整え、戦支度を進めていた。全ては、凌家のために。

「そんな、私は、私は若君のために……凌家のために……おお天よ…!」

 虎渓の祖父の時代から、凌家を支え続けた男の慟哭が雪の静寂を破った。主君に先立たれ、取り残された二人に、燕雲城の寒さはあまりに厳しかった。

「……私は虎渓から預かった密書と虎符を届けに行かなければ。残された私の役目なのです」

 秋霖はふらつきながら立ち上がり、うわ言のように呟いた。

「虎符は二つで一つですから。必ず返しに行かなければ」 

 少しでも立ち止まれば、そのまま命が尽きてしまいそうだった。魏昶は涙に濡れた顔を袖で拭って慌てて秋霖を呼び止める。

「秋霖殿……!お待ちを……!」

 しかし秋霖は歩みを止めなかった。
 舒王に会いに行けばそこで彼の命は尽きる。けれど、それこそが秋霖の望みであった。役目を終えて、早く後を追いたかった。
 魏昶は二人の絆を知っているからこそ、その場から立ち上がる事ができなかった。

「秋霖殿……!」

 ゆっくりと遠ざかっていく背中に、魏昶はただ名を呼び続けた。

 再び十日の道を越え、都に戻った秋霖は、新しい衣に着替え、身なりを整えてから宮殿に参内した。虎符と密書を納めた書簡を皇帝に渡し、役目を終えた秋霖は定められていた通りに処刑された。彼の遺体は処刑場の裏にある無名の塚に捨てられた。

 顧秋霖が、二十六になる年だった。

 
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