白冥霜花

紫雲丹

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懐誓月

第八十八話

【懐誓月】第八十八話

 * * * * *



「阿虎、見つけたぞ」

 燕雲城の裏山を流れる滝の裏には、幼い虎渓が見つけた秘密の場所がある。崖下の窪みに身を潜め、枯れ枝を擦り合わせて火を起こそうとしていた虎渓のもとへ、松明を手に秋霖が得意気に微笑みながら現れた。

「阿秋……」

 虎渓は顔を上げ、思わず声を漏らした。誰にも見つからないと思っていた場所。だが、心のどこかで、秋霖ならきっと来てくれると信じていた。今すぐにでも飛びつきたいほど嬉しかったが、ぐっと堪えて、わざと拗ねたような顔を作る。

「こんなところに隠れてたなんて……お前は仙人にでもなる気か」

 秋霖が松明で辺りを照らすと、崖下に積まれた石や枝が目に映る。それは虎渓が作りかけた小さな家のようなものだった。もし見つけられていなければ、本当にここで一夜を過ごすつもりだったのだろう。虎渓は持っていた枝を放ると、腕を組んでむくれた。

「仙人になんかなるもんか! 俺は山の虎になる!」
「虎虎」

 秋霖が茶化すように名前を呼ぶと、松明の火を虎渓の積んだ枝に移す。焚火が勢いよく燃え上がり、周囲が柔らかな灯りに包まれる。虎渓は炎を見つめたまま黙り込んだ。仕方なく、秋霖はその隣に腰を下ろす。

「阿虎、みんな心配してる。ずっと探してたんだぞ」

 迎えに来られても、すぐに帰る気にはなれない。虎渓は秋霖の肩に少しもたれ、ぽつりと尋ねた。

「……なあ阿秋、どうやってここを見つけたんだ?」

 屋敷を飛び出してから、夜になるまで誰にも見つけられなかったこの場所を、秋霖だけが迷わず来た。

「どうしてだろうな。なぜだかすぐに分かった。お前のいる場所はすぐに分かる」
「俺のことをわかってくれるのは阿秋だけだ」

 虎渓はふんと鼻を鳴らす。秋霖は虎渓の髪についた木屑をそっと払いながら、宥めるように言った。

「私だけじゃない、みんなお前のことは分かってる。お前ほど分かりやすい奴はいないぞ」
「俺はみんなが思ってるほどいいやつじゃないんだ。我慢することが多いぞ……」

 秋霖は虎渓がなぜ飛び出したのか、よく分かっていた。虎渓は稽古や私塾に縛られる日々に不満を抱えていた。遊ぶ時間がもっと欲しいと宿題を後回しにしていたら、丹瑤に叱られ、母にも味方してもらえず、ついには飛び出した。

「……そうだな。お前は大きくなったら侯爵になって、人の上に立つからきっと、我慢することが多い。私もよく父上に言われている。忍耐だと」
「阿秋、お前は忍耐のしすぎだ。辛くないのか?」
「辛い事もある。だが、お前がいるから平気だ」

 秋霖は淡々と語ったが、そこには確かな思いがこもっていた。将来、虎渓のためになると信じて、日々の鍛錬を重ねていた。
 虎渓はそんな秋霖を尊敬していた。けれど、少し大人びすぎて見える彼を、どこか遠くに感じる時もあった。だからこそ、今日は一緒に逃げ出してほしかったのだ。

「なあ阿秋、ここで俺と二人で自由に暮らそう!」
「私も虎になるのか」

 秋霖が思わず吹き出す。虎渓は後ろに寝転がると視線だけを向けた。

「嫌か? 阿秋は何になりたいんだ……?」
「私は……」

 言いかけて、秋霖はしばし考える。将来は決まっている。でも、本当にしたいことが、ふと心に浮かぶ。

「阿虎、大きくなって強くなったら二人で旅に出よう」
「旅に出るのか? ここじゃだめなのか」
「私は南に行ってみたいんだ」

 その言葉に、虎渓は目を輝かせて起き上がった。

「迅流無剣だな!」
「お前とならきっと楽しい」

 北しか知らない彼らにとって、南はまだ見ぬ世界であり、魅力的だった。虎渓はすっかり上機嫌になり想像を膨らませる。

「二人でいろいろ旅しよう! 阿秋! 俺たちなら強い敵も倒せるぞ!」
「ああ、冒険しよう」

 秋霖の表情が嬉しそうに緩む。その顔を見て満足げに笑った虎渓は、肩を組みにじり寄る。

「阿秋、お前が一番大好きだ」
「私もだ。お前がいないと楽しくない。お前は毎日私を笑わせてくれる」

 二人はお互いの肩を組み合い、顔を近づける。

「だからここに隠れてないで、一緒に山を降りてくれないか」
「……仕方ないな、阿秋のためだぞ」

 照れくさそうに唇を尖らせながら、虎渓は承諾した。焚火を消すと、秋霖が掲げる松明の灯に照らされながら、手を繋いで二人はゆっくりと山を下っていった。


 ――これは誰の記憶だったか。
 これは、“俺”の記憶だ。

 白冥バイミンはゆっくりと目を開けた。
 鬼界の西方、崩れかけた廃城の中、かろうじて屋根が残る一角に、彼は黙して腰掛けていた。
 白鬼王の領土には、雪のように細かな灰が絶えず降り積もっている。一面の灰が大地を覆い、かつて存在した建物の輪郭すら失われ、風化した残骸が灰の海に沈んでいた。
 白冥は、己の魂を分けて作り上げた分身の虓屠と意識を共有していた。その虓屠に神経のすべてを注いでいるあいだ、白冥はただ座して眠りに落ちたままだ。結果、白鬼王の領土は長らく彼の無関心のもとに放置されてきた。

 虓屠が眠れば、白冥は目覚める。
 気づけば髪や肩には灰が積もり、まるで風景の一部のように同化していた。彼が周囲に鬼気を放つと、積もった灰はさらさらと空に散り、また音もなく舞い落ちてくる。
 黒く長く伸びた髪は白銀の毛がわずかに混ざり、鬼気に煽られてたなびいている。金色の瞳は冷たくも柔らかく揺れ、肌は名のとおり白冥のように透けるほど淡い。白虎の毛皮を思わせる外套を羽織り、黒衣に身を包むその姿は、鬼でありながらどこか気高く、人間の影を残していた。

 白冥は自らの掌に残る灰をそっと握った。
 その手の内に、虓屠として共有された記憶の断片が蘇る。

『虓屠、お前の中に凌虎渓の魂はあるのか?』

 秋霖の問いに、虓屠は答えることができずに、逃げるように隠れた。ただ、答えられなかったのではない。正体を知られてしまうことへの、恐れと後ろめたさの方が勝っていた。

 ――自分は凌虎渓であるし、そうではないともいえる。

 凌虎渓であった最期の日。
 潘家の屋敷で全てを終わらせ、炎の中で焼き尽くされ、灰となったあの日から、どれほどの時が経ったのか定かではない。目覚めた時は己が誰であったのかも分からず、名も記憶も曖昧なまま、亡鬼として地獄を彷徨っていた。

 それでも、一つだけはっきりと覚えていた名前があった。

 ――顧秋霖。

 その名だけは、何があっても忘れるわけにはいかなかった。秋霖は己の半身であり、必ず迎えに行かなければならない愛しい存在だった。
 その強い念と執着が、虎渓を鬼として生かした。襲いかかる亡鬼たちの中、喰らい喰らわれ、自我を奪い合う中で、虎渓は己の魂に刻みつけた。

 ――顧秋霖、秋霖、秋霖、秋霖。

 一度でも自我を失えば、もう二度と戻ることはできない。地獄とは魂と肉体を巡る終わりなき奪い合いが続く修羅の場である。その無限の渦を逃れようと、それぞれの因縁を辿って四つの領土へ流れ着く鬼もいれば、更なる力を求める鬼、人間界への帰還を夢見る鬼もいた。
 虎渓は、地獄を彷徨い歩き回りながら、あてもなく己の片割れを探し続けていた。自分という存在を見失わない為に、鬼として生き延びるために、途方もなく戦い続けた。

 幾つもの魂を喰らい、やがて肉体を持つ鬼を討ち、その体を乗っ取る。こうして猛鬼となった者の多くは、融合した魂の中から新たな人格が生まれる。だが虎渓は、自我をかろうじて保ち続けた。他者の記憶や感情が入り混じり、意識が渦を巻く中でも、ただ一つの想いが、彼を”虎渓”として繋ぎ止めていた。

 復讐の為に愛する者を、自分を信じて待つ者達を置き去りにしたという後悔。
 もう一度、愛する者に会いたいという欲望。
 顧秋霖という唯一無二の存在への執着。
 彼と交わした約束を、今度こそ果たしたいという願い。
 それこそが、鬼としての彼の形となった。

 気づけば、虎渓は西の地へと流れ着いていた。生前、自らの家族を殺された“西”への怨念が、自然と彼を引き寄せていたのだ。

 そこには当時、緑蚓師リューインシーという名の鬼王がいた。
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