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遊月怜華
その37
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じっくりと、黒い痣が侵食してきている。それは這い上がり、顔半分を覆った。そしてそのまま――首から上すべてを、覆い尽くした。
絶叫は響き続ける。激しく、哀しく、切なく。胸を、締め付けるように。
形が変わる。黒いそれは、ウニョウニョと謙一の顔の上でのたうっている。気づけば制服から覗いている右腕も、既に真っ黒に塗り潰されていた。黒く謙一の存在は、塗り潰されていた。
おお――――ん、と謙一は遠くへと、啼き続けた。
「結局は、こうなるわけか……」
「やっぱり、精神疾患……心まで侵食された時に、体は変わるみたいね」
この事態による、二人に動揺は見られなかった。ただゆっくりと、各々の武器を取り出す。古河はショットガン。亜希子は胸元から、香水のようなものを。
千夏をかき抱く謙一"だった"黒い塊が、一際大きくたわめいた。そしてその姿が、白く変わる。古河は思った。Eclipseとはよくいったものだ。これはまさに、『月蝕』だ。
現れた謙一の体は、無数の刃で出来ていた。
「おどろおどろしいな、こりゃ……」
古河が呟く。謙一の体からは、無数の刃が飛び出していた。脳天からも、額からも、肩からも、胸からも、どてっ腹からも、脇腹からも、腕からも、肘からも、太腿からも、膝からも、脛からも、踵からも。反り返ったそれは、周りを拒絶し、近づくもの全てを傷つけるようだった。
「あらら……すっかり、たくましくなって」
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
亜希子のふざけた呟きとほぼ同時に、謙一は咆哮した。全身から生えている刃を振り乱し、体をよじり、猛った。そのすぐ傍で、千夏は仰向けに静かに、横たわっていた。
謙一は、啼いていた。
疾る。
「…………っ」
古河は後退し、笑う。迫力は、先ほどの千夏の比ではない。全身まさしく凶器と化した謙一の体は、触れる者すべてを粉砕するだろう。それでも背を向けることはしなかった。友の接近を、笑顔で迎える。
その手のショットガンを、向けて。
「……ふふっ」
亜希子は動かず、嗤う。刃に囲まれた謙一の顔は、完全に変形していた。顔中の筋肉が引きつり、原型が見て取れないほどだ。だけどその瞳だけは――哀しそうに、歪んでいた。最期だ。せめて、見送ってやろう。
香水のスプレー部に、手をかける。
そしてぶつかる直前、三者は同時に攻撃を発した。銃声と、焼け爛れる音と、刃が肉を切り裂く音が、響いた。
一時の、静寂。それはまるで永遠のように、三者には感じられた。
「……可哀想な、謙一くん」
三者の間に、遊月が立っていた。
『…………』
三者とも、言葉を語らない。ただじっと、その光景を見つめていた。
遊月の体は、穴だらけになっていた。
「……可哀想な可哀想な、謙一くん。みんなに残されて、みんなに裏切られて、みんなに奪われて。たった独りに、なってしまって。心をこんなに、削られて。かわいそうなかわいそうな、謙一くん。だけど、だいじょうぶだよ。ワタシだけは、そばに、いてあげるからね……」
既に先の戦闘で変形し、貫かれ、焼け爛れたそれに、さらに背中には無数のショットガンの弾丸が食い込み、足は濃硫酸が溶かし、頬、肩、胸、腹、太腿、脛には、鋭い刃が食い込んでいた。全身から濁流のように赤黒い血が、流れ出ている。
それを謙一は、驚愕の表情で、見つめていた。突っ張っていた顔の筋肉は、緩んでいた。
その頬に、遊月は手を伸ばす。
「……好きだよ、謙一くん。だいじょうぶ。ワタシだけは、キミの味方だからね。しんぱいしなくても、いいからね。ずっとそばに、いるからね……」
頬をなで、そしてその顔を優しく胸に、かき抱いた。
その光景に、古河と亜希子は言葉を失っていた。持てるショットガンが硝煙を噴き出し、垂れるスプレーの雫が床に焦げ目を作る。遊月はそんな周りの光景は目に入らないかのように、ただ謙一にのみ言葉を紡ぐ。
背中の窓から覗く月が、徐々にその姿を現そうとしていた。
「……好き、だよ。謙一くん……もうこんな世界は、消えるから……ワタシたちに冷たい世界は、もう終わるから……だから……」
遊月の言葉がゆっくりと、小さくなっていく。それは泣いているようにも、喜んでいるようにも、消えていくように聞こえた。謙一はそれに、自分の中の猛りが収まっていくのを感じていた。
「……安心、してね。もう謙一くんを、傷つける人は、いないから……ワタシが守って、あげるから……だから、」
とつぜん遊月がその顔を上げ、謙一の顎を持ち上げ、
「ワタシだけ……見て」
その唇を、重ね合わせた。
『――――』
時が止まったように、古河と亜希子はその光景を見つめた。一瞬のような、永劫のような間。そして二人は離れ、両者の口元には、血が垂れていた。
一瞬だけ遊月は、微笑んだようだった。口元だけを、微かに。きっと本来の、彼女のように。
そして、遊月は倒れた。糸が切れた人形のように。瞳は、既に閉じられていた。その表情は、穏やかだった。ただまるで眠りについているかのように。その体を支えるカーペットのように、その床には赤い染みが、広がっていく。
その背中に生えた翼は、いつの間にか消えていた。
まるで、ユメが覚めたように。
謙一は、意識を取り戻していた。その体を覆っていた刃も、黒い靄も、晴れていた。元に、戻っていた。
遊月が、助けてくれたのかと思った。
絶叫は響き続ける。激しく、哀しく、切なく。胸を、締め付けるように。
形が変わる。黒いそれは、ウニョウニョと謙一の顔の上でのたうっている。気づけば制服から覗いている右腕も、既に真っ黒に塗り潰されていた。黒く謙一の存在は、塗り潰されていた。
おお――――ん、と謙一は遠くへと、啼き続けた。
「結局は、こうなるわけか……」
「やっぱり、精神疾患……心まで侵食された時に、体は変わるみたいね」
この事態による、二人に動揺は見られなかった。ただゆっくりと、各々の武器を取り出す。古河はショットガン。亜希子は胸元から、香水のようなものを。
千夏をかき抱く謙一"だった"黒い塊が、一際大きくたわめいた。そしてその姿が、白く変わる。古河は思った。Eclipseとはよくいったものだ。これはまさに、『月蝕』だ。
現れた謙一の体は、無数の刃で出来ていた。
「おどろおどろしいな、こりゃ……」
古河が呟く。謙一の体からは、無数の刃が飛び出していた。脳天からも、額からも、肩からも、胸からも、どてっ腹からも、脇腹からも、腕からも、肘からも、太腿からも、膝からも、脛からも、踵からも。反り返ったそれは、周りを拒絶し、近づくもの全てを傷つけるようだった。
「あらら……すっかり、たくましくなって」
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
亜希子のふざけた呟きとほぼ同時に、謙一は咆哮した。全身から生えている刃を振り乱し、体をよじり、猛った。そのすぐ傍で、千夏は仰向けに静かに、横たわっていた。
謙一は、啼いていた。
疾る。
「…………っ」
古河は後退し、笑う。迫力は、先ほどの千夏の比ではない。全身まさしく凶器と化した謙一の体は、触れる者すべてを粉砕するだろう。それでも背を向けることはしなかった。友の接近を、笑顔で迎える。
その手のショットガンを、向けて。
「……ふふっ」
亜希子は動かず、嗤う。刃に囲まれた謙一の顔は、完全に変形していた。顔中の筋肉が引きつり、原型が見て取れないほどだ。だけどその瞳だけは――哀しそうに、歪んでいた。最期だ。せめて、見送ってやろう。
香水のスプレー部に、手をかける。
そしてぶつかる直前、三者は同時に攻撃を発した。銃声と、焼け爛れる音と、刃が肉を切り裂く音が、響いた。
一時の、静寂。それはまるで永遠のように、三者には感じられた。
「……可哀想な、謙一くん」
三者の間に、遊月が立っていた。
『…………』
三者とも、言葉を語らない。ただじっと、その光景を見つめていた。
遊月の体は、穴だらけになっていた。
「……可哀想な可哀想な、謙一くん。みんなに残されて、みんなに裏切られて、みんなに奪われて。たった独りに、なってしまって。心をこんなに、削られて。かわいそうなかわいそうな、謙一くん。だけど、だいじょうぶだよ。ワタシだけは、そばに、いてあげるからね……」
既に先の戦闘で変形し、貫かれ、焼け爛れたそれに、さらに背中には無数のショットガンの弾丸が食い込み、足は濃硫酸が溶かし、頬、肩、胸、腹、太腿、脛には、鋭い刃が食い込んでいた。全身から濁流のように赤黒い血が、流れ出ている。
それを謙一は、驚愕の表情で、見つめていた。突っ張っていた顔の筋肉は、緩んでいた。
その頬に、遊月は手を伸ばす。
「……好きだよ、謙一くん。だいじょうぶ。ワタシだけは、キミの味方だからね。しんぱいしなくても、いいからね。ずっとそばに、いるからね……」
頬をなで、そしてその顔を優しく胸に、かき抱いた。
その光景に、古河と亜希子は言葉を失っていた。持てるショットガンが硝煙を噴き出し、垂れるスプレーの雫が床に焦げ目を作る。遊月はそんな周りの光景は目に入らないかのように、ただ謙一にのみ言葉を紡ぐ。
背中の窓から覗く月が、徐々にその姿を現そうとしていた。
「……好き、だよ。謙一くん……もうこんな世界は、消えるから……ワタシたちに冷たい世界は、もう終わるから……だから……」
遊月の言葉がゆっくりと、小さくなっていく。それは泣いているようにも、喜んでいるようにも、消えていくように聞こえた。謙一はそれに、自分の中の猛りが収まっていくのを感じていた。
「……安心、してね。もう謙一くんを、傷つける人は、いないから……ワタシが守って、あげるから……だから、」
とつぜん遊月がその顔を上げ、謙一の顎を持ち上げ、
「ワタシだけ……見て」
その唇を、重ね合わせた。
『――――』
時が止まったように、古河と亜希子はその光景を見つめた。一瞬のような、永劫のような間。そして二人は離れ、両者の口元には、血が垂れていた。
一瞬だけ遊月は、微笑んだようだった。口元だけを、微かに。きっと本来の、彼女のように。
そして、遊月は倒れた。糸が切れた人形のように。瞳は、既に閉じられていた。その表情は、穏やかだった。ただまるで眠りについているかのように。その体を支えるカーペットのように、その床には赤い染みが、広がっていく。
その背中に生えた翼は、いつの間にか消えていた。
まるで、ユメが覚めたように。
謙一は、意識を取り戻していた。その体を覆っていた刃も、黒い靄も、晴れていた。元に、戻っていた。
遊月が、助けてくれたのかと思った。
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