Eclipse/月蝕症候群

ひろい

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壊れた、一日

その3

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 黒い不気味な球体が、空に浮かんでいた。
 北村はそれを、研究室の格子窓から見上げている。眼鏡をかけ直し、視線を腕時計に移す。
 現在時刻は、午前七時二十一分。
 早春のこの時期、まだ太陽は昇っていないだろう。視線を反対の窓に移すと、やはり東の地平線より太陽の光が漏れ出始めていた。
 だとすると、あれは月か。
 北村は再度、眼鏡の位置を直す。珍しい事態だ。これだけ広い範囲に影響を及ぼす症例とは。しかもそれが、自分の目に付く範囲内で現れるとは。
 北村は口の端を吊り上げ、笑う。それは通常の笑みとは、隔絶されたものだった。人たる温かみはなく、かつ深い愉悦のみが宿った――それは嗤う、という表現が似合うものだった。
 一瞬、厚い雲間から一筋の稲光が走った。
 そして、北村が纏う白衣には――夥しい赤い血が、大量に付着していた。



 安坂謙一(あざか けんいち)は、その黒い月の下学校へと向かっていた。
 誰も、いない中を。
「…………」
 現在通学路には、誰もいない。いつもなら無数の学生が群れをなして歩いているはずのに、それが一人もいない。さらに街までも、まるでお通夜のような静けさを湛えていた。謙一は通学かばんを抱え、一路学校を目指した。
 校門前まで行っても、服装判定の教師すらいなかtった。うるさくなくてよかったが、さすがに気になり出した。休みだったかと少し疑い、ポケットから携帯を取り出した。今日は特に祝日でもない、火曜日だった。
 なにかが、おかしかった。
 ガランとした雰囲気の下駄箱に靴を突っ込み、廊下を歩く。耳鳴りがしそうなほどの静寂の中、スリッパの音が不気味に響く。ゴミ一つ落ちていない階段を上がる。踊り場の窓からは、曇り暗い空が広がっていた。不意に、小学生の時に行った県一怖いお化け屋敷を思い出した。
 さらに廊下を歩き、教室の前まで来る。少し、胸が高鳴る。一つ深呼吸をしてから、その引き戸を開け―― 

 誰もいない教室。

「――――」
 整然とした机の列。落書きひとつない黒板。開いていない窓。その中に、ただ人だけがいない。その非日常、不気味さに、全身から血の気が引いた。
 不意に、亜希子の言葉が思い出される。

『月を食べる悪夢がいると、聞いたことはない?』
 謙一はその受話器越しの声に、眉をひそめた。
「――なんだそりゃ? ひょっとして、オカルトかなんかか?」
 時刻は午後十一時過ぎ。未だ肌寒いこの時期、謙一はカーディガンを着込みその上で自室の窓を開けて身を乗り出し、夜の街を睥睨していた。
 受話器の向こうの亜希子の声は、どこか愉しげだった。
『フフッ……面白いね、謙一は。この話を聞いて、すぐにオカルトって発想に向かうんだから。普通は星占いとか怪談とか、そういうメルヘンチックな方向に向かうんじゃないの? 女の子と話してるんだし』
「女の子、ねぇ……」
 普通女の子はこんな時間に男に電話をかけてこないと思うし、月を食べる悪夢という単語で星占いは出ないと思うし、怪談はメルヘンチックの欠片も無いと思う。
『フフッ……まぁ、アレよ。一種の都市伝説みたいなものね。それは、あるかないかはわからない。だけど人々の間でまことしやかに囁かれている噂。そんなところよ』
「へぇ……それで、どんな内容なんだよ、それは?」
 二階から見下ろす街は暗く静まり返り、底が見えず、まるで――あの世の淵を、覗き込んでいるようだった。
『月が照らすわたしたちの世界をすべて、呑み込んでしまうような存在らしいわよ――』

 ガラッ、という引き戸が引かれる音。 
 それに謙一は我に返り、視線を向ける。そこには――同じクラスの美化委員をやっている金田恵(かねだ めぐみ)が立っていた。おさげでメガネという、真面目な女生徒の定番をそのまま体現したような女だ。
「あぁ……金田か」
 それに謙一は、人心地つく。人っ子ひとりいない中、ようやく会えた顔見知り。とりあえず会話して、状況を探ろうと考えた。
「あっ、ざァか、クン?」
 しかし謙一の意図と違い、金田は様子がおかしかった。やたらと愉しげな笑みを浮かべ、詠うように自身の名前を紡ぐ。だが残念ながら、謙一と金田の間にそれほど親しい関係はない。その呼びかけは現状の違和感を裏付ける、もしくは増すだけの材料にしかならなかった。
「……随分と元気なんだな。なにか、いいことでもあったか?」
 刺激しないように言葉を選び、様子を窺う。そんななんでもない問いかけにも関わらず、金田は跳ねるような足取りで謙一の目の前まで迫り、
「あっ。わっかるー?」
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