G戦場のファミリー

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G戦場のファミリー

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 二十三時を迎えるころ。自室で大学受験の過去問に取り組んでいた愛姫は一つ伸びをしてペンを置いた。すっかり冷えてしまったミルクティーをグイッと飲み干すと、椅子を回転させて立ち上がる。一階に下りてコップを洗って、歯を磨いて。明日の準備まで終わらせてからベッドに入る。愛姫はいつもの流れを思い起こしながら、ふわぁっと大きなあくびをした。
 そのぼやけた視界の端。黒い物体がピアノの影に潜り込む。反射的に飛び退いた愛姫はそれが姿を隠す寸前にそれが何者であるか把握することに成功した。
 奴を逃してはならない。愛姫は奴が消えた場所から目を離すことなく、お手製の蝿叩きを棚から掴み取りながら叫んだ。
「ブラテラゲルマニカ!」
 そう、ブラテラゲルマニカ。またの名はG、もしくは太郎くん。その場その場で隠語で呼ばれる奴だ。その声に反応した足音がドタドタと愛姫の部屋に集まった。
「無事か!」
「奴はどこだ!」
 部屋に飛び込んできた母、清音と兄、政宗。清音の手には冷却スプレーが、政宗の手には湯気の立つ電気ケトルが握られている。
「ピアノの裏に隠れたよ」
「くっ、十万円」
 愛姫が蝿叩きでピアノを指し示すと、清音は憎々しそうに冷却スプレーを持つ手に力を込めた。
「十万円は壊したくないってか。母さんはまだまだ余裕だな」
 呆れる政宗に清音はニッと口の右端を持ち上げてみせた。
「あれ、信之は?」
「寝てんじゃね?」
「まったく。どっちでも良いから、叩き起こして来い」
 清音の鋭い指示に愛姫は戸惑いの表情を浮かべた。
「アイアイサー」
 愛姫の顔色を窺った政宗は、ふざけた様子で敬礼をすると電気ケトルを愛姫に預けて階段を駆け下りた。愛姫はホッと息を吐くと電気ケトルと蝿叩きの二刀流の構えで奴の動きを追う。塵の動きも見逃さないほど視覚を高め、屋外を歩く人の声が聞えるほど聴覚を研ぎ澄ます。空気の動きを肌で感じ、いつもと違う臭いを追う。
「愛姫、奴に動きは?」
「ないよ。多分こっちの動きに気が付いて警戒しているんだと思う」
「小癪な」
 清音は舌打ちをすると棚に置いてあった懐中電灯を手に取った。
「政宗と信之が来たら裏見てみようか」
「頑張って」
「お前な」
 そう言う清音も覗く気はない。清音が全く痛くない力で愛姫を軽く小突いた時、部屋のドアが静かに開かれた。
「ねぇ、俺嫌なんだけど」
「俺だって嫌だよ」
 政宗は父、信之をズルズルと引っ張って連れてきた。信之は顔を歪めて抵抗する。どっちが父親だろう。清音は信之に満面の笑みを向けると、その肩にポンッと手を置いた。
「信之。みんな嫌なのにやってんの。お前だけ逃げられると思うか?」
 清音の優しい声音に三人は身震いした。信之は渋々といった様子で一旦部屋を出ると、隣の物置部屋に武器を探しに向かった。
「奴はまだピアノの裏?」
「うん」
「じゃあ、近くにこれを置いておこう」
 政宗は信之を呼びに行ったついでに取って来ていたネズミ捕り用の粘着シートを取り出した。それをピアノの周りに敷いていく。手持ちの分を全て敷き終わった政宗は愛姫から電気ケトルを受け取った。
「これ、くっつくの?」
「多分?」
「後処理どうするの?」
「くっついたらいつも通り畑で燃やす。くっつかなかったら米蔵に設置してたやつをそろそろ変えようと思ってたし、週末にでも交換するよ。父さんが」
 清音は政宗の言葉に納得する。つっこめばやらされる。ならば何も言わないのが得策だ。
 そして信之が背中に何かを隠し持つように戻ってくる。清音はその肩にポンッと手を置いてニコッと笑いかけた。状況を把握できていない信之が政宗と愛姫を交互に見るけれど、二人も何も言わず笑うだけだった。
「さて、見てみようか」
 戸惑う信之を完全に無視した清音は懐中電灯をつけてピアノの裏を照らす。清音に顎で指示された信之と政宗が裏を覗くが、奴は見当たらない。
「愛姫、いないぞ」
「いや、いる。下から出てくる」
 愛姫が言った瞬間、奴が素早くピアノの下から飛び出して愛姫の方に突進していく。奴は後ろには進めない。愛姫は目をギュッと瞑って奴目掛けて蝿叩きを振り下ろす。
 愛姫が作った蝿叩きは駅前で配っていた塾の宣伝入りうちわを改造したものだ。紙を剥がし、空気抵抗を失くすことで素早い打撃を繰り出すことができる。骨組みの間隔が大きい分大型の侵入者を叩くときしか使えないが、市販の蝿叩き以上の柄のしなやかさが攻撃力を格段に高めている。
 これほどの品で叩けばいくら奴でも一撃で倒すことができる。しかしそれは当てることができればの話だ。目を閉じて叩いた愛姫は奴を取り逃がした。何もない壁にぶつかった奴は壁をするすると登って行く。
「愛姫、下がれ」
 政宗の指示で愛姫は政宗の後ろに下がる。愛姫は隠しきれなくなった手の震えをどうにか抑え込もうとするが収まりそうにない。それを見た政宗が奴に向ける視線に鋭さが増す。
「母さん、先制攻撃を頼む。奴が固まったところに俺がお湯をぶっかける」
「分かったけど言葉遣いが汚い」
「今でございますでしょうか、お母様」
「じゃあ、その後に俺が一発焼きを入れるよ。危ないから二人ともすぐに下がってね」
「父の背を見て育ったか」
 そう言いながらやけに声が弾んでいる信之を不審に思った清音は信之が背中に隠している方の腕を力強く捕まえた。
「清音さん、痛いよ」
「ほら、出しな」
「はい、もらうね」
 清音と政宗の連係プレーによって信之が用意した武器がお披露目された。手持ち花火とライター。清音のこめかみにピキッと筋が入る。
「信之、これ、何?」
「見ての通りこの間やった花火の余りだよ。物置に置いてあったから持ってきたんだ。放置しておくのも危なそうだけど、ただ捨てるのも勿体ないでしょ?」
 能天気な笑みを浮かべた信之に、清音は大きくため息を吐く。政宗は信之から回収した手持ち花火とライターを愛姫の部屋の外に静かに放り出した。
「ああ、良い案だと思ったのに」
「阿呆、家ごと燃やす気か。まだ三十年もローンが残ってるんだぞ?」
「あはは、大丈夫だよ。ちゃんとすぐに消火するから」
「そういう話じゃねえだろ」
 清音がつい握り拳を握ると、愛姫はその手をそっと包み込んで諫めた。愛姫の心配そうな笑みに落ち着きを取り戻した清音は、冷静に天井近くまで登った奴を見据えた。
「次に落ちてきたら仕掛けよう」
「分かった」
 清音が冷却スプレーを構えると、政宗は電気ケトルのロックを解除した。
「俺は何をすれば良い?」
「えっと、これ、使う?」
 花火を奪われて手持無沙汰になった信之に愛姫がおずおずと蝿叩きを差し出す。信之は朗らかな笑顔を浮かべながら黙って首を横に振ると、愛姫の後ろに回り込んだ。
 それを見逃さなかった清音の目がスッと細められる。信之の肩が跳ねてさらに愛姫の後ろで身体を小さく丸めた。
「おい、父親。何娘を盾にしてんだ」
 清音は軽く信之の耳を摘まんで自分の方に引き寄せる。信之は引っ張られるままに清音の前に正座した。
「嫌だなあ。娘の成長を願っているんだよ」
 なおもへらへらと言い逃れをしようとする信之に、清音は今日一番深いため息を吐く。そして部屋の隅に置かれていた新聞紙に目を留めると、それを手に取って棒状に丸めた。
「これ使いな」
 清音はそれで信之の頭を叩いてからその手に持たせると、愛姫を守らせるように前に立たせた。
「その新聞、明日書道の授業で使う予定だったんだけど」
「後で新しいの持って来い」
 呆れている清音に愛姫は頷いて、また奴に集中する。奴は天井を我が物顔で闊歩する。奴は愛姫がいつも抱きしめて眠っている犬のぬいぐるみの頭上に差し掛かろうとしていた。愛姫は慌ててぬいぐるみを抱き寄せる。その瞬間奴が天井から落下した。
 愛姫とぬいぐるみは間一髪衝突を免れた。愛姫はホッと息を吐くと、ぬいぐるみをギュッと強く抱きしめた。
「今だ!」
「固まれ!」
 政宗の合図で清音が思い切り冷却スプレーを噴射する。奴の体表が瞬間的に凍り付く。しかし動きは止まらない。動きが鈍ることもなく再びピアノの下に逃げ込もうとする。政宗は奴の進路を塞ぐようにお湯を零す。
「止まれ!」
 言霊も虚しく消える。足を滑らせながらも奴は動く。政宗は愛姫が叫んだ時にちょうど沸いたお湯を持ってきていた。しかしそれも時間の経過とともにすっかり冷めてしまっていた。奴らには多少熱いくらいでも効果がある個体と、それくらいなら気にも留めない個体がいる。共通した倒し方がないところが奴らの厄介なところだ。
「まだだ!」
 信之がギュッと握り締めた新聞紙を振り下ろす。しかし奴は細いそれを余裕そうに躱して逃れていった。
 あと少しでピアノの下。清音が舌打ちをした瞬間、部屋の気温が一気に下がる感覚がして三人は身震いをした。
「殺す」
 ぬいぐるみをベッドに座らせた愛姫が、いつになく低い声で冷ややかに呟いた。愛姫は虚ろな目で躊躇なく、そして素早く奴の元に近づいた。そして蝿叩きでピアノの下に入り込みかけた奴を蝿叩きで後ろに弾き飛ばす。部屋の中央、隠れる場所が何もないところに弾かれた奴は着地した体勢のまま慌てて真っ直ぐ前に逃げようとする。
 今度はゆっくり振動を伝えないように奴に近づいた愛姫が奴の上に蝿叩きを構える。手首のスナップを利用した最小限のモーション。ピアノで鍛えられた柔らかさと鋭さと兼ね備えた動きが奴を捉えた。目にも止まらぬ速さで鋭く床を弾く。さながらスローロリスだ。蝿叩きが床から離れると、奴は見るも無残な姿になり果てた。ついでに床にも深く長いひびがメキメキと入った。
「愛姫、よくやったな」
「すごいじゃん!」
 異様な空気に飲まれながらも静かに見守っていた三人。信之は静かに遠い目で天を仰いだ。対して床から物理的にも精神的にも目を逸らして清音と政宗は口々に愛姫を褒め称えた。愛姫はその声に現実を引き戻される。愛姫は目の焦点が合った瞬間、奴の亡骸を見てヒッと情けない声を上げて政宗の後ろに隠れた。床のヒビには気が付かない。
「よしよし。よく頑張った」
 政宗は愛姫の髪を梳くように撫でた。政宗の言葉でようやく思考が追い付いてきた愛姫は首を傾げて政宗を見上げた。
「お兄ちゃん、あれ私がやった?」
「おう。格好良かったぞ」
 政宗は満面の笑みで、不安気な表情を浮かべる愛姫の頭をめちゃくちゃに撫で回した。政宗は二つ年下に妹が生まれたときからずっと可愛がって面倒を見てきた。愛姫の成長を喜ぶ気持ちは両親に劣らない。政宗の心の底からの喜びを感じた愛姫は肩の力を抜いて政宗に抱き着いた。
 二人の様子を見て微笑ましそうに頷いていた清音は、隣で羨ましそうに二人を見ている信之を見て小さく吹き出した。そしてその肩を叩くとニコリと笑って奴の亡骸と床のヒビを指さした。
「え、俺?」
 清音の言わんとしていることを理解した信之の頬が引き攣る。
「愛姫は頑張ったお父さんになら満面の笑みで抱き着いてくれるんじゃない?」
「そうか!」
 年頃の娘との距離感を見失っていた信之は明るい顔で意気揚々とトイレットペーパーを取りに部屋を出て行った。
「そういうことだから。愛姫、よろしく」
「えっと、うん」
 信之は仕事の都合で愛姫が高校に入学するまで離れて暮らしていた。愛姫は幼少期には清音が冗談で言った父親とは離婚したという言葉を二年間も信じていた。それほど関わりのなかった父親にいきなり甘えろと言われても難しい。洋服を買って欲しいということにも、進学先の相談をすることにも緊張してしまう。
「信之も、突然大きくなった娘と接しろって言われて戸惑ってるんだ。距離を感じても、それは愛姫のことが嫌いなわけじゃないからな」
 清音の話に愛姫は頷く。頭では分かっていた。しかし政宗のように共通の趣味があるわけでもない愛姫が信之と話す機会は少なくて、慣れようにも話しかける話題がなくて躊躇してしまっていた。
「よし! やるぞ!」
 分厚く巻いたトイレットペーパーを持って戻ってきた信之は、もう十二時を回りそうな時間ということもあってハイテンションで戻ってきた。気合を入れてサクッと奴を拾い上げようとした瞬間だった。
 信之がヒビを踏んだ瞬間にヒビがメキメキと大きくなった。そしてそのまま穴が開いて信之はそこにスポッと収まった。信之はポカンと清音を見上げる。清音は信之、ではなく床に空いた大穴を見て口をポカンと開ける。政宗と愛姫はニヤニヤが抑えきれないまま、そのままお腹を抱えて笑い出した。
 子どもたちに釣られて清音と信之も笑いだした。
「何も面白くないけどな」
「もう、笑うしかないでしょ」
 清音と信之は次第に笑えなくなって、引き攣った顔のままため息を吐いた。奴が出ただけなのに、明日は修理業者に連絡をしなければと頭の中で貯金の計算をする二人。
「ところであいつ、どこ行った?」
 政宗の言葉に、愛姫は目を限界まで見開いた。
「俺の愛姫からの抱擁は?」
「その前にそこから抜け出して」
 嘆く信之にそう言い残して、清音は部屋を出て行った。
「ドンマイ」
「お父さん、頑張ってね」
 政宗と愛姫も立ち去った部屋で、信之は遠い目をして天を仰いだ。


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