一樹の陰

碧 春海

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三章

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 昭和三十三年八月、名古屋市守山区で小さな薬問屋として創業した新宮司薬局は、創始者である新宮司正男の口癖でもあった『良い品物をどの店よりも安くお客様に提供する』と言う、各薬品メーカーの希望販売価格を大きく割り引いての徹底した薄利多売の経営方針で急成長すると、隣接していた用地を買収して生産工場を有する製薬会社を立ち上げ、同時に名古屋薬科大学や岐阜薬科大学などの優秀な卒業生を獲得することによって、多くの漢方薬や新薬の開発に成功して業績を伸ばして、愛知県は勿論全国でも売上販売部門で上位に名を連ねる優良企業となっていた。そして、平成二十年には名古屋市中区栄、テレビ塔をシンボルとする栄セントラルパークの東に地下三階地上二十四階の本社ビルを建設していた。その本社ビルの西、日の差し込む社長室では今年喜寿を迎える新宮司正勝社長がデスクの上に各社の朝刊を並べて、それぞれの新聞の同じ記事に目を通しては溜息を吐いた。
「それで、捜査状況はどうなっているのだ」
 しばらく目を閉じた後、ゆっくりと老眼鏡を外して言葉を発した。
「はい、情報によりますと、今のところは自殺と他殺の両面で捜査しているとのことですが、遺書もなく死亡現場が徳川美術館内のレストランということを考えれば、やはり誰かに殺害された可能性が高いと思われます」
 五十代後半であろうか、細身で背が高くどちらかと言えば色白で彫りの深い顔立ちの島田邦夫が、手帳を開いて状況を報告した。
「殺害、間に合わなかったか」
 テーブルに両肘を着いて頭を抱えた。
「気づくのが遅れて、申し訳ありません。再確認の最中の出来事でして、どうしようもありませんでした」
 新宮司の言葉の意味を噛み締めていた。
「それで、調査はどこまで進んでいたんだ」
 新聞を畳んでデスクの端に畳んで重ねた。
「父親で、西京大学医学部の学部長である澤田光洋氏は、亡くなられた和也さんの中学、高校時代の友人でしたので、戸籍謄本を取り寄せて確認してみましたが、裕司さんは戸籍上実子となっていまして、リストから外すことになってしまったのです」
「言い訳はいい。結論を聞かせてくれ」
「あっ、はい。二週間程前に、西京大学の事務局が発刊した雑誌に、澤田夫妻のインタビユー記事が掲載されていまして、光洋氏がO型で夫人がAB型と答えているのですが、我々が調査したデーターによりますと、裕司さんはO型だったのです」
「O型とAB型の両親からは、A型とB型の子供しか生まれない」
「そうなのです。裕司さんは、澤田ご夫妻の間に生まれた子供ではなかったと言うことになります」
「しかし、遺伝における血液型は百パーセント完璧ではないからな」
「残念ながら、今現在は血液型以外に決定的な証拠を得る所までは至っておりません」
 話の途中で島田の背広の内ポケットで携帯電話が振動して、慌てて取り出すと新宮司に頭を下げて背を向けた。
「私だ・・・・・・・・それで、どうだったのだ・・・・・・・・間違いないのだな・・・・・・分かった。引き続き調査してみてくれ」
 島田は一つ溜息を吐いて携帯電話を切った。
「どうも、良い知らせじゃないな」
「はい、調査員の報告によりますと、澤田家に村正の短刀があったようです。ただ、龍や虎の刻印があったかどうかまでは確認できていません」
 新宮司社長の気持ちを察して、悲痛な表情で答えた。
「いや、村正の短刀と言うだけで十分だろう」
「一応、念のために確認だけはさせます」
「分かった、そうしてくれ。それから、葬儀の方はどうなっているのだ」
「はい、今夜七時からお通夜で、明日の午前十一時より告別式とのことです」
「血の繋がった孫の葬儀なのだ。せめて線香の一本だけでも・・・・・・・・」
「社長。気持ちは良く分かりますが、裕司さんの不可解な死にマスコミも興味を示しています。ですから、通夜も告別式も報道関係者が大勢押し寄せると思います。そんなところに社長が顔をお出しになれば、どんな関係なのかと競って調べることでしょう。もし、社長と裕司さんの関係が表に出ることになれば、社長も会社も大きなダメージを受けることになるでしょう。どうか、ご理解下さい」
「そうか、仕方ないな・・・・・・・」
 体から次第に力が抜け始め、口を動かすのも億劫になっていた。
「よろしければ、私が代わりに会葬して参りましょうか」
「そうだな、そうしてもらおうか」
「分かりました。通夜や葬儀の様子も後で報告させて頂きます」
 島田は頭を下げると新宮司に背を向けて出口に向かった。
「島田部長。君はこの会社の将来を誰に託せば良いと思うかね」
 島田は新宮司の言葉に驚いて慌てて振り返った。
「あっ、それは・・・・・」
「遠慮はいらない、率直な意見を聞かせてくれないか」
 島田の困惑した表情からある程度察しはついたが、言葉として聞いてみたかった。
「そうですね。和也さんが亡くなり、そのお子さんまでも命を絶たれたとなりますと、残念ながら社長の血を引く人間は誰も居なくなってしまいました。会社の繁栄を考えれば、吉川陽一朗副社長が妥当だとは思いますが、私としては新宮司社長にもう少しがんばって頂きたいと願っています」
「もう少しがんばって、一成に引き継ぐというのはどうだろう」
「どうでしょう。一成さんはまだ若く経験も不足しています。特に現場の人間の仕事について、もう少し勉強された方がよろしいと思います」
「若いと言っても、今年で三十六になるのだけど。親父のように薄利多売か知らないけど、余り儲からない会社を幾つも作って来た吉川副社長よりは、社員の皆も喜ぶと思うけどね」
 アルマーニの紺のスーツ姿に、アラミスのオーデコロンを匂わせた新宮司一成と、大島紬を着こなした母親の紀子がノックもしないで現れた。
「失礼致します」
 厳しい目付きで睨まれた島田は、慌てて新宮司母子に深く頭を下げてそそくさと部屋を出て行った。
「呼んだ覚えはないが、何か用か」
 二人に背を向けて、オレンジ色に輝く夕日に目を移した。
「今、島田と話していた社長人事の件だけど、どうするつもりなのですか。まさか、島田の意見を採用して吉川副社長を社長にするつもりじゃないですよね」
 一成はソファに深く腰を沈めて足を組んだ。
「つもりもなにも、私一人で決められるものではないからな。しかし、今までの功績を考慮すれば、吉川副社長が選ばれても不思議ではないが」
「確かに、形式的には議決権のある重役たちが集まって決めることにはなっているけど、今までその会議で決まった社長は誰も居ないですよね。それに、創業以来新宮司家の人間が守り続けてきた社長の椅子を、全くの他人に渡すなんて馬鹿なことはしないでしょう」
「新宮司家の人間か・・・・・・・厳密に言えば、新宮司家の人間は私で終わりだ」
「血は繋がっていませんが、一成も立派な新宮司家の人間です。社長にして心配と言うなら、あなたが会長になって補佐して下されば良いことです。それで十分やれますよ」
 紀子夫人が間に入って意見を言った。
「社長と言うのは会社の顔なのだ。そんな安易な考えでは、この不況の中多くの競争相手に勝つことは出来ないだろう」
「偉そうに言われますが、見えないところでは勝手に家を出て行った和也さんの息子を探し出して、後を継がそうと企んでいるのですからね。それで、可愛いお孫さんは見付かったのですか」
「えっ、どうしてそんなことを知っているのだ」
 顔を硬直させて、紀子夫人を睨みつけた。
「昔から、壁に耳あり障子に目ありと言いますわ。悪いことは出来ないってことですよ」
 意味有り気に微笑んだ。
「まさかお前・・・・・」
 紀子夫人の言葉に恐怖を感じ、血圧の上昇に伴って痛みと苦しみが心臓を襲い、新宮司は左胸を両手で押さえて椅子から転げ落ちた。
「あなた、あなた、大丈夫」
 慌てて紀子夫人が駆け寄り、一成は受話器を取上げた。
 救急車で名東医科大学に運ばれた新宮司社長は、応急処置と検査を終えて特別室に緊急入院することになった。
「先生、主人の容態はどうなのでしょう」
 担当医に呼び出された紀子夫人が先に尋ねた。
「危険な状態は脱しまして今は安定していますが、予断を許さない状態にあることは間違いありません」
「急に苦しみ出したのですが、どこが悪かったのでしょう」
「狭心症だと思われます。症状としては、心臓部あるいは胸部の裏辺りに、締め付けられるような痛みが発作的に起きていたり、胸部の中央部、特に喉や背中などに圧迫感や窒息感を伴った鈍痛があったと思われますが、気が付かれなかったのでしょうか」
「そんな姿は見たことなかったものですから。それで、手術が必要なのでしょうか」
「今のところは必要はないと思います。冠動脈に狭窄があって起こる病気ですので、一定の血液循環を保つ為に冠動脈拡張剤や、心筋の代謝効率を良くする薬を投与して暫くは様子を見ることになります」
「よろしくお願いします」
 深々と頭を下げたその時、同じフロアーにある応接室では川瀬と井上の両刑事が、事務長の説明を受けていた。
「澤田裕司さんは、一月の二十七日に初めて来院され、耳鼻咽喉科の診察を受けていらっしゃいます」
「どんな症状だったのでしょう」
 川瀬が手帳を取り出して尋ねた。
「患者の病名に関しては一応守秘義務があるのですが、既に本人が亡くなっていますし、殺人事件の捜査と言うやむを得ない事情ですので、特別にお答え致します。澤田さんは、花粉症の予防をしたいと来院されたようです」
「予防の為に、薬が処方されたのですね」
「はい、一日に二回飲むように、二週間分が処方されています」
「患者に薬を渡す方法について説明して頂けますか」
「診察後に、患者に用紙をお渡して、料金の精算をして頂きます。その時に、領収書と一緒に薬の処方箋をプリントアウトしますので、その用紙を病院の指定する薬局にお持ち頂くか、こちらからファックスしておいてから取りに行って頂くことになります」
「医師から直接患者に渡すことはないのですか」
「耳鼻咽喉科ですと、耳の手術をした時の点耳薬などは、その場で渡すことはあるでしょうが、飲み薬を直接渡すことはありません」
「澤田さんが最後に薬を受け取られたのはいつなのでしょう」
「二月の二十四日に、同じように二週間分が処方されていますが、実際に澤田さんに薬が渡されたのかどうかはこちらでは分かりません」
「もし、薬局でいつも通りに薬を受け取っていたとすれば、三月九日か十日くらいまでの分しか薬はなかった。予防薬ですから、毎日飲まなければ効き目はなかったのでしょうね」
 川瀬は手帳のカレンダーに指を当てて尋ねた。
「詳しいことは分かりませんが、二月二十四日まではきちんと二週間ごとに来られていましたので、規則正しく飲まれていたのだと思います」
「花粉はいつ頃まで飛んでいたのでしょう」
「今年は三月の初旬から良く飛んでいまして、今もまだ飛び続けているようですよ」
「花粉は飛んでいるのに、薬は取りに来ていない。他に同じ薬を入手する方法はないのでしょうか」
「そうですね。当院で薬を出す場合は、薬の名前と効き目などを書いた用紙も渡しますので、知り合いの薬局があれば処方してくれるかも知れません」
「知り合いの薬局ですか・・・・・」
 川瀬は額に手を当てた。
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