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「――というワケで、カシム、私は逃げるぞ!」
 澱みなくキッパリそれを宣言したと同時、呆れたようなタメ息が返された。
「まあ、言うとは思っておりましたけど……」
「だったら話は早いな。後は頼んだ」
「仕方ありませんね。――朝まで部屋に引き留めておけばよろしいですか?」
「ああ。事情は適当に、おまえの口から説明しておいてくれ」
「承知いたしました。では、遅くとも日の出前までには御戻りになってくださいね。それと、決して王宮の敷地内からはお出になりませんように」
「わかってる」


 そして、綺麗な月に誘われるまま、夜の庭園にでも散歩に行こう、あそこなら東屋もあるから横になって寝られるし、と、部屋を脱け出してみたのだったが―――。


 まだ幾らも歩いていないうちに、ふいに行く手に、小柄な人影が現われた。
 息を切らせながら走っていたらしいその人影は、やはりこちらに気付いたのだろう、ハッとしたように唐突に足を止める。
 かぼそい月明かりの下で、その眼前の人物の顔をまじまじと見て……ぽろりと口から飛び出した、その名前。


「――アリーシア嬢……?」


 こちらの呟きを聞き止めるなり、その人影が、慌てたように踵を返す。
 再び走り出したその背中を、咄嗟に追いかけてしまった。
 すぐに自分の手が届き、細い腕を掴み寄せる。
 と同時に、騒がれないよう軽く手刀を食らわせたら、呆気なく落ちた。
 崩れ落ちたその身体を抱え上げると、深々とタメ息が洩れる。


「さて……どうするかな、これは―――」


 そして今、目の前の寝台に横たわっているアリーシアを、私はまじまじと見つめていた。
 ――ただの人形だとばかり思っていたが……また、えらく思い切ったものだ……。
 その寝顔を、そのあまりにも短く切り落とされた髪を、眺めては感心さえ覚える。


 彼女は、部屋の窓から逃げ出してきたのだ。
 よりにもよって、貴族の象徴、かつ、女の命でもある長い髪を、ばっさりと短く切り落として―――。


 ――まるで人形のような女だ。
 彼女を見た第一印象が、それだった。
 側妃候補として引き合わされた、ティアトリード侯爵令嬢アリーシア。
 べらべらと横で父ティアトリード侯爵が、どんなに彼女が素晴らしい女性であるかを、どこまで本当かもわからないことを、これでもかとばかりに紹介しているというのに……そんなことになど、さしたる興味のカケラすらないかのように、その口許はニコリともしていない。ずっと視線を合わせずに小さく俯いているだけ。
 視線を上げてこちらを見たのは、無愛想なまでに細く掠れた声で『お初にお目にかかります、アリーシアと申します』と、まさに横から父にせっつかれて渋々ながら、といった体で挨拶をしてきた時のみ。
 その顔も無表情なことといったら限りなく、決して美しくないとは言わないが、その色の白さと相まって、本当に人形のようにしか見えなかった。
 あの場へ出るにあたり、相当な時間をかけて着飾ってきたのだろうが……骨ばった細すぎる体躯には、布地がふんだんに使われている豪奢すぎる衣装など、どこまでも不釣り合いでしかなく。不機嫌そうに固く引き結ばれた厚みに欠ける唇には、引かれた紅の煽情的なまでの赤さは似合わない。
 ――女の衣装より……どちらかといえば、少年向けの軽装の方が似合いそうだ。
 実際、彼女は何も飾らない方が美しいのではないか、とさえ思った。その纏う雰囲気には、妙齢の女性らしさというものが、あまりにも無さ過ぎるから。
 色気らしきものが全く無いのは…まあ生娘ならば仕方が無いとは思うが。それにしたって、円やかな雰囲気のカケラすら感じられない。それは、細くきりっとした眉の所為だろうか、それとも、涼やかな眦の所為だろうか―――。
 ただ、その立ち姿だけは称賛に値する美しさだな、とは思った。
 体つきは、お世辞にも美しいとは言えない――むしろ女性にしては可哀相なくらい痩せすぎて凹凸に乏しく貧相なことといったら限りないくらいだが。
 しかし、その真っ直ぐなまでの姿勢は良い。
 大柄な自分と比べれば、当然かなり小柄ではあるものの、それでも女性にしては背が高くスラリとしていて、その細い首のうなじの白さが、はっとするくらいに目を惹いた。
 …でも、それだけだ。
 諾々と親の命令に従うしか出来ない、まさに人形としてしか生きられない貴族の娘になど、こちらは何の興味も無い。


 だからこそ逃げ出したのだ。
『――今夜、殿下のもとへ、アリーシアをおうかがいさせましょう』
 そんなティアトリード侯爵の言葉に曖昧な笑みを浮かべて頷き返しながら、内心、受け入れる気など全くなかった。


 なのに、今こうして彼女を自分の手元に受け入れてしまっている――どんな皮肉なのだろうな、これは。


 あの後、気絶したアリーシアを抱えたまま、とりあえず私は、来た方向へと舞い戻った。
 今宵は自分の部屋へと続く控えの間に居てくれているはずだと目星を付けて、窓に小石を投げて合図したところ、案の定カシムが顔を出す。
『――おい、ちょっと手を貸してくれ』
 下に居るのが私だと気付いたと同時、私の背に負われていたものも目に入ったのだろう、慌てたような素振りでカシムが窓から身を乗り出した。
『なにやってんですか、殿下……!』
『静かにしろ! 誰かに気付かれるだろうが!』
 まずはカシムを黙らせると、『何か縛るものを寄越せ』と頼む。
 そうして投げ落とされた細い紐で、背負った彼女を落とさないよう、しっかり身体に括り付けると、カシムの待つ窓まで壁をよじ登った。


 そのまま、その控えの間に彼女を寝かせておいたワケだったのだが―――。


 当然のことながら、アリーシア嬢の逃亡と失踪は、晩のうちに早々と発覚した。
 その報せを受け取ってきたカシムに、『ティアトリード侯爵から何か言ってくるようなことがあれば、私は著しく気分を害しているとでも言って、当面の面会は断れ』と命じておいた。
 そして当然、自分の手元にアリーシアが居ることを秘匿した。
 偶然にでも手に入った、この“駒”を、みすみすティアトリード侯爵の手に返す気など、さらさら無かったのだ。
 ――この女は使えるかもしれない。
 この娘は、あのティアトリード侯爵の見せた、思いもよらぬ“隙”だ。
 あの天敵たる厄介な狸ジジイを、たとえ僅かな間だけでも、この王宮から遠ざける何かしらの手段とし得るのではないか、と―――。


 そうやって、いかにもティアトリード侯爵の所為で不興を被っている、とでも言わんばかりに、まさにそれを見せつけるかの如く、夜が明けてからも私は部屋へ引き籠もり続けて。
 そうしながら、昏々と眠り続けるアリーシアの目覚めを、その枕元で待っていた。


「まさか、ここまでの手段に及ぶとはな……」
 なまじの男より度胸がある、と、軽く笑みが洩れる。
 よりにもよって、初夜を迎えるという、その夜に逃亡を図るとは……のみならず、髪を切り落とすという覚悟さえも見せて。
 ――かつて私の目の前で、やはり長い髪をばっさりと切り落としてみせた男の姿が、脳裏を過った。
「この細い身体のどこに、それほどの覚悟が秘められていたのか……」
 それは、貴族であることを捨てる、女であることも捨てる、まさにそんな覚悟だったろう。
「そこまでして逃げたかったか……可哀相に」
 ――この娘も、あのティアトリード侯爵の“駒”であることを強いられていたのだな……。
 ざんばらになった短い髪を、おもむろに指で梳いた。
 ――ここまでして逃げなければならないほどに思い詰めていたとは……。
 ひょっとしたら、将来を約束し操を立てた恋人でも居るのだろうか?
 しかし、事前に調べさせたところでは、このアリーシア嬢は十五歳の時から今に至るまでの約十年間を神殿で生活していたということだし、その慎ましい生活ぶりを聞くだに、どこにも男の姿など入り込む余地など無さそうだった。
 神殿に入った理由については……父であるティアトリード侯爵いわく『母の死を悼み自らそれを望んだ』ということだったが、そんなはずはあるまい。いかに母の菩提を弔うためだとしても、神殿などという男しか居ないような場所に、うら若い女性が一人で籠もろうなどと考えるはずもないではないか。おおかたヤツ自身で命じて神殿送りにしたのだろう。そこまで詳しく調べさせてはいないものの、そうに決まっている。
 であるならば、もはやアリーシアは、ティアトリード家から捨てられていたも同然だ。そんな利用価値さえ無い彼女に、どうして男が近付こうものか。近付いたところで、父であるティアトリード侯爵の不興を買うだろうことが目に見えているだけなのだから。
 また、ああやってティアトリード侯爵が“この娘ならば文句はあるまい”とばかりに自信満々で差し出してくるくらいなのだ。当然、彼女に虫が付いているか否か、事前に調べなかったはずもないだろう。
 断言してもいい。このアリーシア嬢に、男の影は一切ない。
 ――ならば、何がこの女を、これほどまでの行動に掻き立てたのだろうな……?
 手持ち無沙汰のあまり、彼女の短い髪をくるくると弄んでいた私の指が、頬にでも触れてくすぐったかったのだろうか、ふいに掛布の内側から伸びてきた彼女の手が、鬱陶しそうに、それを払った。
 しかし、まだ目覚める気配はない。
 あまり触って目を覚まさせてしまうのも可哀相か、と、素直に手を引っ込めた。
 そして、胸元のはだけた掛布を直そうとして……唐突に、そのことに気付く。
 目に映る、その痩せた彼女の胸元から、どうしても目が離せなくなった。
 ――本当に……これは、女の身体か……?
 その薄い胸板は、幾ら痩せぎすとはいえ、女としてのまろみにも膨らみにも、いささか欠け過ぎてはいやしないだろうか。
 目を覚まさせないよう気遣いながら、どこまでもゆっくり、その掛布を剥いでゆく。
 彼女が纏っているのは、薄い布地の夜着、一枚だけ。きっと初夜を迎えるにあたり着せられたものなのだろう。
 その胸の上に、そっと自分の手を這わせる。
 ――やっぱり……。
 確信を得て、纏う夜着を脱がせるべく、合わせ部分を止めた紐に指が伸びる。――それと同時、


「――なにやってんですか、殿下」


 ふいに扉が開いた音がしたと共に、そんな驚いたような言葉が背後から聞こえてくる。
「眠っている女性に対して、よりにもよって痴漢行為を働くとは……最低ですね」
「カシム……おまえ、主人に対して、その言い草はどうなんだ」
 そんなんじゃないと、もごもご言い訳しながらも、焦って私は彼女に掛布を掛け直した。
 ――まあ、いい……彼女が起きたら、改めて質してみればいいことだ。
 彼女が目を覚ました時のために、冷たい水を用意してきたカシムは、それを枕元の棚の上へと置くと、呆れたような視線で私を見下ろす。
「そこまで溜まってらっしゃるのでしたら、今夜あたり、また伽の者をお召しになりますか?」
「だから、そんなんじゃないと……ああ、だが、そうするのも狸ジジイへの当て付けになるか」
「そうですね、少なくとも『貴様の娘が逃げ出した所為で別の者を呼ばなければならなくなったのだ』という嫌味くらいには伝わるでしょうか。――では、そのように手配しておきます。男と女、どちらになさいます?」
「…いや、いい。さすがに今は、そんな気分でもないしな」
「閨の中でしたら、痴漢行為に及んだとしても、誰に咎められることもありませんよ?」
「だから、そんなんじゃないと言っているだろう……というか、おまえほど主人の言葉を信用しない側近というのも、どうなんだろうな……」
「それもこれもすべて、殿下の日頃の行いが悪すぎる所為でしょう」
「失礼だな! その言い方は、そう日頃から私が痴漢行為ばかり好んで働いているみたいじゃないか」
「それに近いことは、いつもやっていらっしゃるでしょう。――閨の中で」
「…見てきたかのように言うのだな」
「そりゃ見てはいませんけど。それでも、そこそこ聞こえてきてはいますからね、あっちこっちから色々と」
 ――ああ、もう……これだからコイツはー……!!
 それほどまでに自分のことを何でも知り尽くしてくれやがっている側近相手には、何をどう言おうと、分が悪いのはこちらである。
 もはや反論は諦めて、「とにかく」と、早々に話題を切り替えることにした。
「もうしばらくは引き籠って、狸ジジイに当て付けてやるつもりだから。仕事の方は、適当に頼む。どうしても急ぎのものがあれば、こちらへ回してくれ」
「わかりました」
 そうしてカシムが「痴漢は犯罪ですよ」と余計なひとことを言い置いて、扉の向こうへと去ってから。
 改めて、寝息を立てているアリーシアを見つめた。
 掛布の上からでもわかる、どこまでもまろみと膨らみに乏しい、薄っぺらい身体―――。


 ――間違いない、これは男だ。


 これは、父であるティアトリード侯爵ですら知らぬ事実だ。
 知っているはずがない。知っていれば、そもそもアリーシアを側妃に献上しようなどと考えるはずもないだろう。
 ならば逃げ出したのも頷ける。
 逃げるしか他に道は無かっただろう。閨に入れば、男であるとバレてしまうのだから。
 では、この男は、アリーシアの替え玉か、それとも、アリーシア当人なのか、そもそも、どんな事情があって、ここへ来たのか―――。


 だから私は、彼が目を覚ますのを、その場で辛抱強く待った。
 そして、ようやっと目を覚ました彼に向かい、尋ねたのだ。


「男である其方が、なぜここに来た? ――其方はなのだ、アリーシア?」



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