Help!

栗木 妙

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『Help!』



 ――赤ん坊の泣き声が聞こえた。
 それは、もう自宅マンションは目の前、というところ。歩みを止めぬまま何の気なしに視線を巡らして、そこに人影を見つけた。
「ああ、もう、何だよ、今度は何で泣いてんだよ、泣いてるだけじゃわかんねえってば……」
 赤ん坊の泣き声に交じって、ほとほと困り果てた、といわんばかりの声音でもって聞こえてきた、そんな弱々しい呟き。
 立っていたのは、身体を揺らして抱っこした赤ん坊をあやしているらしき、一人の男性。ほかに連れらしき姿は無い。もちろん、母親と思しき女性の姿も。
「ホントにさあ……何でコイツ置いていっちまうかなあ、マスミぃ……」
 続いて聞こえてきた、おそらく女性のものらしき、その名前。
 ――ひょっとしたら……赤ん坊を置いて奥さんだけ出ていっちゃったのかな……。
 思い当ったら何となく不憫にも感じられてしまい、僕はその男性の方へと近付いていった。
「ええと、さっきミルク飲ませたばかりだし……じゃあ、オムツか? オムツ換えればいいのか?」
 ああもうわっかんねえ! と、呟く声音にどうやら苛立ちのようなものが混じり始めてきたことを感じ、僕は「大丈夫ですか?」と思わず声を投げていた。
「よかったら、お手伝いしましょうか?」
「え……?」
 弾かれたように振り返った、そのきょとんとした瞳を見つめて、努めて穏やかに微笑んでみせる。
「僕、赤ん坊の扱いとか、わりと慣れてるので。オムツも換えられます」
「それは助かる!」
 途端、泣き笑いのような表情に、目の前の彼の顔がくしゃっと緩む。――思わずどきっとした。
「実は俺、そういうの全くカラッキシで。ついでに、やり方とかも教えてくれると、なおのこと助かる」
「ええ、いいですよ。――じゃあ、オムツ換えられる場所に、どこか……」
「それなら、ウチすぐそこのマンションだから」
「え? 僕も同じマンションです」
「なんだ、ご近所さんだったのか」
「偶然ですね」
 ――あれ? ウチのマンション、独身者向けだったはずだけど?
 夫婦で住んでいる人が居るなどと聞いたことも無かったが……奥さんと別れたからここに引っ越してきたのだろうか?
 互いの部屋番号を教え合ってみたら、真上の部屋の住人だということも判明したのだが……赤ん坊の泣き声なんて、それこそ聞こえてきたこともなかったけどなあ?
 だが、そこらへんの事情を尋ねるのも気が引けた。うっかり訊いて、話してもらったらもらったで、それこそ“聞かなきゃよかった”と後悔するハメになんてなったら居た堪れないし。
 男女間のイザコザを突っ込んでみたところで、聞いて楽しかったタメシがない。――というのが、僕の持論である。
 僅かな疑問には蓋をし、その場は何事も無かったように流して、僕は彼の手から泣いている赤ん坊を受け取った。
「…何だか抱き方からして手慣れてるよな」
「ウチは兄弟が多かったもので。実家暮らしの間は、弟妹はじめ、甥っこ姪っ子まで、よく世話をさせられてました」
「成程、道理で」
「慣れていないと、どうしてもおっかなびっくり抱っこしちゃいますからね。それだけで不安を感じて泣き出しちゃう赤ちゃんも多いんですよ」
 和やかに当たり障りの無い会話を続けながら、僕たちは連れ立って自宅マンションへと向かって歩き出したのだった。


 それをキッカケに、彼――須田すだ真広まひろさんとの交流が始まった。
 自分で言っていたとおり、本当に須田さんは、赤ん坊の扱いについて『全くカラッキシ』だったようで。
 出会った日に連絡先を交換しておいたのをいいことに、何かというとSOSメッセージが飛んでくるようになった。僕の在宅を見計らい、いきなり部屋まで押しかけてきたりもする。
 とはいえ、もともと器用な方なのか、オムツの取り換え方もミルクの作り方も離乳食の作り方も、ちゃんと丁寧に教えればわりとすぐに出来てしまうし、飲み込みも早くて同じことを何度も訊かれるようなことも無い。
 加えて、最初から他人をアテにしない、自分で出来ることは極力自分で何とかしようと頑張る、そして、何事にもくよくよ悩んだりもしない、とても大らかで気持ちの良い人柄の持ち主でもあり。
 そういう人だからか、僕としても頼られるのを重荷に感じられてしまうようなことも無く、ご近所さんとして、そして友人として、良い付き合いをさせてもらっていると思っている。


 ――だからこそ、少し困っていたりもするんだけどね……。


 その笑顔を初めて目の当たりにした時から、そんな予感はしてたんだ。――僕は須田さんを好きになるんだろうなあ、って。
 まず真っ先に、外見が好みのタイプだ、っていうこともあったけど。
 友人としての付き合いの中で、彼のその気持ちのいい人柄に触れ、ますます想いは膨れ上がり、募っていくばかりだ。
 僕は、男性しか恋愛対象に出来ない。
 でも須田さんは……子供がいる――ということは、つまり女性を愛せる人なワケで。
 加えて、ひょっとしたら元奥さんかもしれない『マスミ』さんとやらを、困った時ついその名を呼んでしまうくらいには、まだ愛しているのかもしれなくて。
 それを考えると、どうしたって自分の気持ちを打ち明けることが躊躇われてしまった。
 だから未だに、彼が何故一人で子供を育てているのか、その事情を訊くことが出来ずにいる。


 相手の事情に目を瞑ったまま気持ちを打ち明けられるほどには、そこまで僕は器用じゃない。
 自分の気持ちをどうするべきか、その整理をつけるためにも、いつかは訊かなければならないとは思っている。
 だが、その行為は、今の僕たちの関係が終わってしまう、という可能性を孕んでいる。
 そもそも、男同士の恋愛――しかも相手がヘテロだなんて殊更、想いが報われる可能性の方が確率的にも低いのだから。結局のところは、想いを打ち明けられずに終わるのか、想いを打ち明けて終わるのか、その二択でしかない。
 ならば、今はまだ、この友人としての関係に、甘えていたい。
 彼の気持ちいい人柄に、友人としての自分に向けてもらえるあたたかさに、もう少しこのまま、包まれていたい。
 そう願うだけならば、まだ赦されるだろうか―――。


「リョースケくんリョースケくん、なんかカスミ熱あるみたいなんだけど、どうしたらいい!?」
「まずは落ち着いてください。子供はよく熱を出すものですよ。見たところ発疹とかも無いようですし、咳も出てないし、そこまでの高熱じゃないなら少し様子をみましょう。それと、薬とかは……」
「わかった、薬な! 買ってくる!」
「ちょっ、待っ、この時間じゃもうドラッグストア開いてないですっ……!」
「あ、そうか、どうしよう!」
「常備薬が無いなら、素人判断で乳幼児に薬を与えるのは、かえって危険です。とりあえず、いま用意できるもので何とか今夜をしのぎましょう。クーリングは保冷剤なんかで代用できますから。足りないものは、コンビニで買えるなら買って。それで明日、朝イチに病院へ連れていってあげてください」
「うん、わかった。本当リョースケくん居てくれて助かった、毎度毎度ありがとう、こんな夜遅くにまでゴメンな」
「大丈夫ですよ、明日は僕も休みですし。ついでに、カスミちゃんの看病も手伝います。そしたら、交代で休めるでしょ」
「え、いいの!? 本当にリョースケくん神だわーもはや神にしか見えんわーマジありがとうっ!」
「あはは、そんな大袈裟な」


 頼ってもらえることにかこつけて、須田さんと他愛もない会話を交わせることが嬉しい。少しの時間でも、須田さんの傍に寄り添っていられることが幸せ。
 こんな生活が、いつまでも続いてくれたらいいのに―――。



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