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【章前】―追憶―
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そこは暗闇の中だった。
もう、どれほどの時間が経ったのだろうか。それすらもわからない。
――いつまでここにいればいいの?
喉の渇きと空腹で朦朧としてくる意識の中で、ぼんやりと考える。
自分をここに閉じ込めたのは母だった。
寝室に置かれた物入れの長櫃の中に自分を押し込めるや、かすめるように頬へキスをし、『良い子ね』と頭を撫でた。
『呼びにくるまで、ここで耳を塞いでジッとしてるのよ。声を出してもダメ。――約束よ?』
あなたはえらい子だから約束は守れるでしょう、と、言いたげな母の微笑みを最後に、その蓋が閉じられた。
――それから後のことは、何も知らない。憶えていない。
気が付くと、日差しがさんさんと降り注ぐ窓辺の寝台の上に、自分は寝かされていた。
目を覚ました自分に、傍に居た大人たちが皆、口々に『可哀相に』という言葉をかける。
母が死んだのだと、その時に教えられた。
しかし、それを言われても、自分には『死ぬ』という言葉の意味が、よくわからなかった。
ただぼんやりと、母は居なくなってしまったのだなと、それだけを理解した。
まだ状況が飲み込めぬまま、ぼんやりとしている自分の頭の上で流れるように交わされる、大人たちのやりとり。否応なしに耳へと流れ込んでくる、自分には理解できないそれを、聞くともなしに聞いていた。
それが途切れる頃に、一つの大きな掌が、自分へと差し出されていた。
『――迎えに来たよ』
それは、離れて暮らしている父の手だった。
『これからは、お父さんと一緒に暮らそう』
わけもわからぬまま、頷いていた。
わけはわからないなりに、それでも、呆然としたままでいる自分を困ったような表情で腫れ物に触れるかのように持て余す、そういう大人たちに囲まれているよりはマシだと思えたから。
そして間もなく、父に連れられ、住み慣れた家を去った。
五歳になったばかりの春のことだった。
去り際に振り返った庭に、白いリリカの花が満開の盛りを迎えていたことだけは、何故か今でも鮮明に憶えている―――。
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