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フラマリオン編
001.『闇に咲く光』1
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そうじゃない生き方もあったと思う。
たくさんの人を傷つけた。もう償えない。どうしたって取り返しがつかない。一番謝りたい人はもういない。
ずっと同じことを繰り返してる。ずっと同じことを繰り返し続ける。
「たすけて」
静謐な空間に忽然と若い女の涼やかな声が響いた。それは近くで聞こえるようでもあり、遠くのどこかで聞こえるようでもあった。耳朶に直接響くようでもあり、体の内から鳴り響くようでもあった。それは聞いたことのある声のようでもあり、聞いたことのない声のようでもあった。辺りを包む白い光の中で彼はそれを聞いた。光はあまりにもまばゆく、辺りには影さえなかった。白い光が景色を強烈に染め上げたため彼は自身がどこにいるかさえ判然としなかった。不意に重力から自由になり、彼は中空を漂うような心地を味わっていた。同時にどこか柔らかい地面に立っているかのようにも感じていた。彼は光の中で何かを強く求め、手を伸ばした。同時に何かを諦めて、その手の内からすべてがこぼれていくようにも感じた。彼ははじめその光を怖れた。しかし次第に慣れると恐怖は薄らぎ、やがて彼はそれを受け入れた。光は次第に強さを増した。同時に彼の意識は遠のいた。徐々に彼の体はその光の白さの中に溶けていった。
少年は床の固さと冷たさで目を覚ました。彼は小さく呻きながら体を起こした。固い床にうつ伏せで寝ていたため彼の頬や腕は赤く、体は軋んだ。彼のぼやけた視界の中で景色は次第に鮮明になっていった。そこには灰色の床があった。同じ色をした壁と天井があった。そこは床が五メートル四方ほどで、天井も五メートルほどの高さの立方体の部屋だった。部屋の一面にはアーチ状の出入り口があり、部屋の外からは日の光が差し込んできてまぶしかった。少年はその景色をしばらくぼんやり眺めていた。どれほどそこにそうして寝ていたかわからず体は重かったが、彼は何とか四肢に力を込めて立ち上がった。彼は白いシャツに黒いズボンという格好で、それはところどころ土で汚れていた。彼の背後には彼の身の丈よりも大きな扉の形を模したオブジェのようなものがあった。材質は石膏か青銅か、何か重くて堅そうなものだった。床には紋様のようなものが刻まれていたがその意味するところは判然としなかった。
彼はゆっくりと重い足取りで歩き出した。アーチ状の出入り口をくぐると、日の光はその先が見えないほど強くなった。彼は目を眇めながらさらにその先へややためらいがちに足を運んだ。部屋の外は丘の上だった。丘の下には街があり、出入り口の正面には街へ下りる階段があった。街並みはヨーロッパのそれを感じさせる風情だが、同時に時代を感じさせた。眼下の街並みには往来があり、そこを人がまばらに行き来していたが、みな西洋風の古めかしく染色のほとんどされていないような素朴な衣服をまとっていた。しばらくその景観をぼんやりと眺めた少年は呟いた。
「ここは…どこだろう…」
「フラマリオンだよ」
不意に少年の耳元で明るい女の子の声がした。少年は心底驚いて声のする方に慌てて体を振り向けた。するとそこにはやはり少女がいた。しかし少年は彼女の姿を見てさらに大きく目を見開いた。栗色のポニーテールの髪に華奢な体。レオタードから伸びるすらっと長い手足、弾けるような笑顔。それだけ見ればともかく、少女には明らかにおかしな点がいくつかあった。まず体が不自然に小さかった。一般的な胎児よりも小さいほどだった。さらに彼女は背中に半透明の薄い羽根のようなものをもっており、その羽根のためか彼女は宙に浮いていた。彼女はその体の小ささにもかかわらず少年と同じ目の高さにいた。このとき少年は気付かなかったが、彼女の羽根は動いてはいなかった。風もないのに羽ばたきもせずに空中に静止していたのだ。
「ごめんごめん、驚かせちゃったかな」
そう言って彼女は少し悪びれるように微笑んだ。彼女の表情や言葉は友好的だったが、驚きのため少年は彼女に返す言葉を見つけられずにいた。そんな少年の混乱をよそに少女は言葉を継いだ。
「ようこそフラマリオンへ」
やはり何と返して良いかわからない少年は仕方なく胸に去来する疑問を素直に口にしてみることにした。
「ここは、どこ…?」
「フラマリオンだよ」
彼女は先ほどと同じことを言った。しかしすぐに質問の意図を履き違えたと思ったのか彼女は訂正した。
「ああ、この世界の名前? それならムーングロウ」
親切そうで愛想の良い少女に対し少年はいつしか警戒心をおおよそ解いていた。彼はおそるおそる質問を重ねた。
「君は…誰?」
少女はにっこり笑った。
「私? 私は樹李だよ」
「樹李…」
少年はその名を復唱した。
「こらこら、お客様が混乱しているでしょう? 樹李」
その声は階段の方からした。建物を出たところで唐突に樹李に話しかけられた少年は気付かなかったが、丘の階段を上って若い女性が近づいて来ていた。声の主はまさにその女性だった。
「相手を唖然とさせるような挨拶をするなんて、本当にいたずら好きね」
樹李は声の主に向き直って弾けるような笑顔を見せた。
「神楽様」
若い女性は階段を上りきると中空に浮かぶ樹李の隣で足を止め少年に向き合った。それは古風な白いドレスに身を包む華奢で美しい女性だった。往来を行きかう人々の身に付ける衣服の色彩や意匠の素朴さの中で、彼女のドレスの繊細な美しさは異彩を放っていた。日の光を浴びて彼女の瞳と肌と布地の薄いドレスは透き通るように輝いていた。少年と同じくらいの背丈をし、地に足を付けて歩く彼女は隣の樹李が不自然に小さく中空に浮かんでいることなど気にも留めていないようだった。
「初めまして旅の方。私は神楽と申します。この街の管理と旅人の案内をしている者です。どうぞお見知りおきを。ようこそフラマリオンへお越しくださいました」
そう言って神楽と名乗った女性は綺麗なお辞儀をした。少年は慌てて会釈した。
「いえ、あの、すみません、僕は…」
樹李にも自己紹介をしていなかったことにようやく気付いた少年は、その焦りもあって慌ててそう言いかけて言葉を失った。
「僕は——」
「慌てなくて大丈夫」
神楽がそう言って諭す声を掛けると少年は顔を上げた。
「少し混乱しておいでのようですね」
樹李は少年に尋ねた。
「どこか体が痛んだりはしてない?」
彼は呆然としながら答えた。
「え? ううん、大丈夫…」
樹李は元の奔放な調子で続けた。
「じゃあ、少し街を歩こうよ! 案内してあげるね」
まだ混乱のさ中にいる少年は戸惑いながら返事をした。
「う、うん…」
少年はどうして自身がここにいるのかわからなかった。どれだけこの建物の中で眠っていたかもわからなかった。さらに自身が誰なのかも思い出せなかった。少年は思索した。この奇妙に小さく宙に浮かぶ少女が街を案内してくれると言う。それに付き従って街の案内を受けること、それは自分が今一番すべきことなのだろうか? しかし少年の思考はそれ以上うまく働かなかった。ともかく好意的に接してくれるこの二人の女性を頼り、二人に従うのがこの状況における最善策であるような気がした。
「ありがとう…」
「さあおいで」
樹李は弾けるような笑みを少年に向けると、階段の上の中空を滑り降り、意気揚々と案内をし始めた。彼女のあとについて階段を下りると、体は先ほどより軽く動いた。神楽も二人に続いた。少年はまだ戸惑う思考の中で一段ずつ階段を下りて行った。三人はそのまま丘を下りて街に出た。
街の人々は神楽を見かけるとみな会釈をしたり挨拶をしたりした。そういった人々の顔や所作はあるいは晴れやかであり、またあるいはかしこまっており、神楽という人物がこの街や地域において有名で人望の厚い人物なのだとわかった。
少年は二人の案内で街を歩いた。主に案内役は樹李が務めたが、時折樹李をたしなめるように神楽が案内の順番を変えたり、樹李の案内の文言に漏れた言葉を補ったりした。二人の女性の関係性を観察すると、どうやら神楽が主人であり、樹李はその部下にあたるようだった。しかし仕事における単なる主従以上の信頼が二人にはあるように見え、少年から見た二人は親友のようでもあり、また姉妹のようでもあり、また母娘のようでもあった。
不思議なことに、というより当たり前なのだが、樹李のような体の小さな中空に浮かぶ人間は彼女の他に街のどこにもいなかった。だが街で樹李に接したり樹李を見たりするすべての人々は彼女の体の小ささや彼女が宙に浮いていることを神楽同様まったく気にも留めていないようだった。
街はのどかだった。往来の脇に立ち並ぶ建物や並木に派手なものや意匠をこらしたものはないが、素朴な生活感の中に花の彩や屋根の彩があり、そこに住む人々の心の余裕を感じさせた。往来をゆく人々の表情も穏やかで豊かだった。表通りばかり歩いているためかもしれないが、浮浪者や生活に困窮している人の姿をどこにも見かけなかった。きっと治安の良い街なのだろうと少年は思った。
ただ、時折甲冑に身を包んだ兵士とすれ違うことがあった。また、街を高い城壁のようなものが囲んでおり、その上には四方に高い櫓が立ち、物々しい雰囲気を醸し出していた。
しばらく少年と樹李と神楽が街を散策しているとこちらへ呼びかける女性の声がした。
「神楽様、御機嫌よう」
声のした方を見ると、そこに清潔なメイド服に身を包み、髪を束ねた華奢で若く美しい女性の姿があった。彼女は中身の詰まった紙袋を抱えており、袋の口からは野菜が覗いていた。彼女は神楽の前に立つと袋の口から野菜がこぼれないように気を付けながら深く腰を曲げて綺麗なお辞儀をした。神楽は微笑を浮かべてそれに応じた。
「あらマリア。また買い物をしてくださっているのですね」
会話から察するにマリアと呼ばれたメイド服の女性は神楽の世話や手伝いをする立場の人物であるようだった。
「はい。今日は晴れて心地が良いですね」
マリアはそう言って微笑み、少年に目と体を向けた。樹李が少年をマリアに紹介した。
「こちらは旅のお客さんだよ」
「旅のお客さん」という紹介をされた少年はそれがはじめ自分のことだとは気付かなかった。
「あらお客様、ようこそフラマリオンへ。私は神楽様のお世話をさせていただいておりますマリアと申します」
少年は子どもらしくどぎまぎとしながら挨拶をした。
「よろしくお願いします。僕は——」
少年は再び自己紹介を試みたが、名前はどうしても思い出せなかった。しかしそれを察してか少年の自己紹介の終わらぬうちにマリアは微笑んで挨拶を返してきた。
「よろしくお願いいたします、お客様」
少年は慌てて苦笑いして会釈した。すると神楽が思い出したように言った。
「そうだわマリア。ぜひこの方にもお食事とお布団を用意してくださる?」
驚いた少年は神楽に目を向けた。初対面の自分に食事と寝床を用意してくれるなんて。驚き様はマリアも同じだった。
「まあ、お邸にご案内なさるのですか?」
神楽は少しためらいがちに答えた。
「少し私の昔の知人にそっくりなんです。もしかしたら…。いえ、ぜひまだ混乱されているようですし、懇意にさせていただければと思った次第ですわ」
マリアはやや戸惑いを表情に浮かべつつも了承した。
「ええ、喜んで」
マリアは笑顔を神楽に、続いて少年に向けた。少年はただただ唖然としていた。
「え…」
「ではお客様、のちほどぜひお邸へいらしてください。お食事をご用意いたしますわ」
少年は遠慮しようかと思ったが、自身の身の上を何も思い出せず、この場所がどこなのかもわからない状況を鑑みれば、家に泊めて食事と寝床を提供してもらえることを遠慮するわけにはいかなかった。少年は深々とお辞儀をした。
「すみません、ありがとうございます」
それを聞いた神楽は再びマリアの方を向いて言った。
「私たちはもう少しこの方に街を案内するわ」
「では私は先にお邸で支度いたします」
そう言うとマリアは笑顔で一礼してその場を辞した。少年は戸惑う頭で慌てて会釈を返した。
さらに五分ほど歩くと商店や飲食店の多い通りに出た。街は壁に囲まれているためそのおおよその大きさと自身の位置の想像がついた。どの方角の壁からもおよそ等距離にあるため、そこはおそらくこの街の中心部であり、この街のメインストリートかその裏通りにあたるのだろうと少年は推測した。不意に樹李が頓狂な声をあげた。
「おお、飛茶っち!」
少年が目を向けると樹李は近くの小さな飲食店の方を向いていた。樹李の視線の先にはその店の出入り口があり、開け放たれたその向こうには幾人かの客と店員がいた。そこはカウンター席が五つほど、二名掛けのテーブル席が四つほどしかない小さな喫茶店のようだった。どうやら樹李はテーブル席でお茶をしながら樹李の方を見る男性の老人の名を呼んだようだった。こちらに気付いた彼は大儀そうに席を立ちこちらへゆっくりと歩いて来た。薄暗い店内で腰掛けているときにはわからなかったが、立って歩くとその体は小柄を通り越して幼児ほどの大きさしかなかった。腰はすっかり曲がっていたが、腰を伸ばしてもその体は少年よりも、また一般的な老人よりもはるかに小さく、それを見た少年は驚いた。老人は薄い髪も眉毛も髭もすっかり白かった。彼の外見の中でも特徴的なのは、眉毛と髭が長いため、目や口元がほとんど隠れてしまっていることだった。ちょうどそんな顔貌の特徴をもつ犬種があったことを少年は連想した。これほど髭が長いとしゃべったりお茶を飲んだりするのに苦労しそうだなと少年は思った。会計を済ませていない老人が店員に断りもなく店を出ても咎められないのは、この街の治安の良さの表れか、この老人の人徳の表れなのだろうと少年は推測した。老人は神楽の前に立つと「お客人の案内ですかな」と問うた。
「ええ飛茶。あなたは執務をサボってお茶かしら?」
彼女は明るい口調で皮肉を言った。すると飛茶と呼ばれた老人もにっこりと笑った。眉毛と髭に隠れた顔でも、皺の動きと声色で彼が笑ったことがよくわかった。
「いえいえ、お茶をしながら読書をしておりますゆえ、これは執務をこなすための勉学の時間。すなわち執務にございます」
「あらまあずいぶんな言い訳だこと」
飛茶と神楽と、その横に浮かぶ樹李はいつもの冗談を言い合っているらしかった。冗談が一通り済むと神楽は少年に飛茶を紹介した。
「こちらは飛茶。この街の政務をお任せしております」
これほどの年嵩の老人に政務を任せる立場にある神楽はやはり「街の管理」という言葉に収まらない立場の方なのだろうと少年は推測した。
「飛茶と申します。よろしく。お客人」
すでに腰が曲がっているためか会釈をしなかった飛茶だが、その言葉には客を歓待する温かみがあって少年は安心した。
「あの、僕は——
少年は三度自己紹介を試みた。しかし自分のことで思い出せることはなかった。仕方なく失礼のないよう挨拶だけでもしようと思った矢先、目の前の老人は唐突に不思議なことを少年に尋ねてきた。
「何をしにいらした」
飛茶は長く白い眉毛に隠れて見えない目でこちらを見上げていた。
「え…?」
唖然とする少年に飛茶は再び尋ねた。
「何をしにいらした」
語調は挨拶の延長線上にあった。だがその問いはまだ混乱のさ中にある少年にとって、いやおそらくそうでない誰にとってもあまりにも唐突なものだった。
「えっと…」
少年が混乱の目を神楽と樹李に向けると二人もこちらを見ていた。その顔は客人に対する笑顔を保ってはいたものの、先ほどの談笑の折とは一転してやや神妙だった。答えを三名から求められた少年は意を決してそれを記憶の内から探すことにした。それは少年自身も望んでいることであった。僕は誰だ。どうしてここにいる。黙考して目を足元に落とすと日の光を集めて石畳は白かった。彼はその白く反射する地面の一点を見た。光…。少年はそこに何かを思い出せそうな感覚を掴んだ。
しかしそれからしばらく時間をかけても何も思い出せなかった。彼は三名をあまり待たせてはいけないと思い、ひとまず悪びれるように苦笑いして状況を素直に伝えることにした。
「すみません、何もわからないんです」
「そうですか。では思い出せると良いですね」
その神楽の言葉でやや落ち着きを取り戻した少年は「はい…」と悄然と答えた。少年を慮るように神楽が言った。
「少し歩きましょう。何か私たちにお手伝いできることがあるかもしれません。また何か思い出したら遠慮なくおっしゃってください」
その言葉に安心した少年は礼を述べた。
「ありがとうございます」
同時に彼は先刻と同じ違和感に見舞われた。記憶を失った素性の知れない人間である自分が今一番すべきことは街の案内を受けることなのだろうか? なぜこの人たちは自分にここまで親切にしてくれるのだろうか? 街を案内し、寝食まで提供しようなどと…。
「諦めるなよ」
唐突に飛茶が口を開いた。少年は驚いて飛茶を見たがその表情は相変わらず窺い知れなかった。重い響きをもつ言葉ではあったが、その声音は先ほど神楽たちと談笑していたときのように飄然として柔らかかった。少年は呆然としつつも返事をした。
「はい…」
「諦めなければいい」
そう飛茶は言い直した。先ほどより一層温かい声色だった。
「はい」
「それでは、儂はしばらく執務を続けますゆえ」
飛茶はそう言って返事も待たずに踵を返し、小さな背中を店の中へと運んでいった。
「ほどほどにね」
神楽はまた冗談めかしく言った。少年は飛茶の背中を呆然と見送った。
飛茶と別れてから三人はさらに通りを進んだ。
「この街の名前はフラマリオン。それはさっき言ったよね」
樹李が街の紹介を続けてくれた。
「うん」
少年はすっかり彼女に気を許していた。
「小さな国だよ。少なくともアーケルシアやルクレティウスに比べれば」
唐突に知らない国の名が出てきたが、少年は黙って先を聞くことにした。
「一応アーケルシア領ってことになってる。でもアーケルシア騎士王と神楽様との契約でフラマリオンに実質的自治が認められてるんだ」
少年はあらためて神楽を見た。大きな国の王と半ば対等ともいえる契約を結ぶ人物。やはり神楽は大物だったのだ。
「神楽様はフラマリオンの自治の象徴でありトップ。にもかかわらずご自身も旅人の案内や街のみんなの声を聴く仕事をしてるんだ。すごいでしょ?」
「うん」
少年は素直に感嘆し頷いた。きっとすごく忙しくて、なのにこんなに親切でみんなから慕われていて、すごい人だな、と思った。神楽は照れくさそうに口元を綻ばせて謙遜を言った。
「私はみなさんのご意見を伺っているだけです。それに政務の多くは飛茶の担当よ」
神楽の謙遜をよそに街の紹介を続ける樹李の語調は相変わらず明るかったが、話の内容は急に暗転した。
「この国はね、よく戦争に巻き込まれるんだ。アーケルシアもルクレティウスも大きい国なんだけどその間に挟まれてるからね」
少年は驚きとともに城壁を見渡した。さらにその上に佇む物見櫓を見た。櫓の中は遠くて見えなかったが、その中に街の周囲を監視する兵がいることを想像してみた。よく見ると城壁の上にも巡回する兵らしき人の影を見ることができた。一人、二人…。数は知れない。逆光の影に塗りこめられた城壁と櫓の姿は少年の目に先刻よりもさらに物騒に映った。
「今はアーケルシア領だけど、中立だった時期もある。もともとはアーケルシアとルクレティウスとの交易で栄えた国なんだけど、両国の戦争が激化してからは交易もなくなるし、悲しいこともたくさん起こったんだ」
漠然としか『戦争』という言葉の意味を知らない少年の心に、それは大きな底知れぬ恐怖の影を落とした。ここは安全なのだろうか。神楽さんや樹李は…?
たくさんの人を傷つけた。もう償えない。どうしたって取り返しがつかない。一番謝りたい人はもういない。
ずっと同じことを繰り返してる。ずっと同じことを繰り返し続ける。
「たすけて」
静謐な空間に忽然と若い女の涼やかな声が響いた。それは近くで聞こえるようでもあり、遠くのどこかで聞こえるようでもあった。耳朶に直接響くようでもあり、体の内から鳴り響くようでもあった。それは聞いたことのある声のようでもあり、聞いたことのない声のようでもあった。辺りを包む白い光の中で彼はそれを聞いた。光はあまりにもまばゆく、辺りには影さえなかった。白い光が景色を強烈に染め上げたため彼は自身がどこにいるかさえ判然としなかった。不意に重力から自由になり、彼は中空を漂うような心地を味わっていた。同時にどこか柔らかい地面に立っているかのようにも感じていた。彼は光の中で何かを強く求め、手を伸ばした。同時に何かを諦めて、その手の内からすべてがこぼれていくようにも感じた。彼ははじめその光を怖れた。しかし次第に慣れると恐怖は薄らぎ、やがて彼はそれを受け入れた。光は次第に強さを増した。同時に彼の意識は遠のいた。徐々に彼の体はその光の白さの中に溶けていった。
少年は床の固さと冷たさで目を覚ました。彼は小さく呻きながら体を起こした。固い床にうつ伏せで寝ていたため彼の頬や腕は赤く、体は軋んだ。彼のぼやけた視界の中で景色は次第に鮮明になっていった。そこには灰色の床があった。同じ色をした壁と天井があった。そこは床が五メートル四方ほどで、天井も五メートルほどの高さの立方体の部屋だった。部屋の一面にはアーチ状の出入り口があり、部屋の外からは日の光が差し込んできてまぶしかった。少年はその景色をしばらくぼんやり眺めていた。どれほどそこにそうして寝ていたかわからず体は重かったが、彼は何とか四肢に力を込めて立ち上がった。彼は白いシャツに黒いズボンという格好で、それはところどころ土で汚れていた。彼の背後には彼の身の丈よりも大きな扉の形を模したオブジェのようなものがあった。材質は石膏か青銅か、何か重くて堅そうなものだった。床には紋様のようなものが刻まれていたがその意味するところは判然としなかった。
彼はゆっくりと重い足取りで歩き出した。アーチ状の出入り口をくぐると、日の光はその先が見えないほど強くなった。彼は目を眇めながらさらにその先へややためらいがちに足を運んだ。部屋の外は丘の上だった。丘の下には街があり、出入り口の正面には街へ下りる階段があった。街並みはヨーロッパのそれを感じさせる風情だが、同時に時代を感じさせた。眼下の街並みには往来があり、そこを人がまばらに行き来していたが、みな西洋風の古めかしく染色のほとんどされていないような素朴な衣服をまとっていた。しばらくその景観をぼんやりと眺めた少年は呟いた。
「ここは…どこだろう…」
「フラマリオンだよ」
不意に少年の耳元で明るい女の子の声がした。少年は心底驚いて声のする方に慌てて体を振り向けた。するとそこにはやはり少女がいた。しかし少年は彼女の姿を見てさらに大きく目を見開いた。栗色のポニーテールの髪に華奢な体。レオタードから伸びるすらっと長い手足、弾けるような笑顔。それだけ見ればともかく、少女には明らかにおかしな点がいくつかあった。まず体が不自然に小さかった。一般的な胎児よりも小さいほどだった。さらに彼女は背中に半透明の薄い羽根のようなものをもっており、その羽根のためか彼女は宙に浮いていた。彼女はその体の小ささにもかかわらず少年と同じ目の高さにいた。このとき少年は気付かなかったが、彼女の羽根は動いてはいなかった。風もないのに羽ばたきもせずに空中に静止していたのだ。
「ごめんごめん、驚かせちゃったかな」
そう言って彼女は少し悪びれるように微笑んだ。彼女の表情や言葉は友好的だったが、驚きのため少年は彼女に返す言葉を見つけられずにいた。そんな少年の混乱をよそに少女は言葉を継いだ。
「ようこそフラマリオンへ」
やはり何と返して良いかわからない少年は仕方なく胸に去来する疑問を素直に口にしてみることにした。
「ここは、どこ…?」
「フラマリオンだよ」
彼女は先ほどと同じことを言った。しかしすぐに質問の意図を履き違えたと思ったのか彼女は訂正した。
「ああ、この世界の名前? それならムーングロウ」
親切そうで愛想の良い少女に対し少年はいつしか警戒心をおおよそ解いていた。彼はおそるおそる質問を重ねた。
「君は…誰?」
少女はにっこり笑った。
「私? 私は樹李だよ」
「樹李…」
少年はその名を復唱した。
「こらこら、お客様が混乱しているでしょう? 樹李」
その声は階段の方からした。建物を出たところで唐突に樹李に話しかけられた少年は気付かなかったが、丘の階段を上って若い女性が近づいて来ていた。声の主はまさにその女性だった。
「相手を唖然とさせるような挨拶をするなんて、本当にいたずら好きね」
樹李は声の主に向き直って弾けるような笑顔を見せた。
「神楽様」
若い女性は階段を上りきると中空に浮かぶ樹李の隣で足を止め少年に向き合った。それは古風な白いドレスに身を包む華奢で美しい女性だった。往来を行きかう人々の身に付ける衣服の色彩や意匠の素朴さの中で、彼女のドレスの繊細な美しさは異彩を放っていた。日の光を浴びて彼女の瞳と肌と布地の薄いドレスは透き通るように輝いていた。少年と同じくらいの背丈をし、地に足を付けて歩く彼女は隣の樹李が不自然に小さく中空に浮かんでいることなど気にも留めていないようだった。
「初めまして旅の方。私は神楽と申します。この街の管理と旅人の案内をしている者です。どうぞお見知りおきを。ようこそフラマリオンへお越しくださいました」
そう言って神楽と名乗った女性は綺麗なお辞儀をした。少年は慌てて会釈した。
「いえ、あの、すみません、僕は…」
樹李にも自己紹介をしていなかったことにようやく気付いた少年は、その焦りもあって慌ててそう言いかけて言葉を失った。
「僕は——」
「慌てなくて大丈夫」
神楽がそう言って諭す声を掛けると少年は顔を上げた。
「少し混乱しておいでのようですね」
樹李は少年に尋ねた。
「どこか体が痛んだりはしてない?」
彼は呆然としながら答えた。
「え? ううん、大丈夫…」
樹李は元の奔放な調子で続けた。
「じゃあ、少し街を歩こうよ! 案内してあげるね」
まだ混乱のさ中にいる少年は戸惑いながら返事をした。
「う、うん…」
少年はどうして自身がここにいるのかわからなかった。どれだけこの建物の中で眠っていたかもわからなかった。さらに自身が誰なのかも思い出せなかった。少年は思索した。この奇妙に小さく宙に浮かぶ少女が街を案内してくれると言う。それに付き従って街の案内を受けること、それは自分が今一番すべきことなのだろうか? しかし少年の思考はそれ以上うまく働かなかった。ともかく好意的に接してくれるこの二人の女性を頼り、二人に従うのがこの状況における最善策であるような気がした。
「ありがとう…」
「さあおいで」
樹李は弾けるような笑みを少年に向けると、階段の上の中空を滑り降り、意気揚々と案内をし始めた。彼女のあとについて階段を下りると、体は先ほどより軽く動いた。神楽も二人に続いた。少年はまだ戸惑う思考の中で一段ずつ階段を下りて行った。三人はそのまま丘を下りて街に出た。
街の人々は神楽を見かけるとみな会釈をしたり挨拶をしたりした。そういった人々の顔や所作はあるいは晴れやかであり、またあるいはかしこまっており、神楽という人物がこの街や地域において有名で人望の厚い人物なのだとわかった。
少年は二人の案内で街を歩いた。主に案内役は樹李が務めたが、時折樹李をたしなめるように神楽が案内の順番を変えたり、樹李の案内の文言に漏れた言葉を補ったりした。二人の女性の関係性を観察すると、どうやら神楽が主人であり、樹李はその部下にあたるようだった。しかし仕事における単なる主従以上の信頼が二人にはあるように見え、少年から見た二人は親友のようでもあり、また姉妹のようでもあり、また母娘のようでもあった。
不思議なことに、というより当たり前なのだが、樹李のような体の小さな中空に浮かぶ人間は彼女の他に街のどこにもいなかった。だが街で樹李に接したり樹李を見たりするすべての人々は彼女の体の小ささや彼女が宙に浮いていることを神楽同様まったく気にも留めていないようだった。
街はのどかだった。往来の脇に立ち並ぶ建物や並木に派手なものや意匠をこらしたものはないが、素朴な生活感の中に花の彩や屋根の彩があり、そこに住む人々の心の余裕を感じさせた。往来をゆく人々の表情も穏やかで豊かだった。表通りばかり歩いているためかもしれないが、浮浪者や生活に困窮している人の姿をどこにも見かけなかった。きっと治安の良い街なのだろうと少年は思った。
ただ、時折甲冑に身を包んだ兵士とすれ違うことがあった。また、街を高い城壁のようなものが囲んでおり、その上には四方に高い櫓が立ち、物々しい雰囲気を醸し出していた。
しばらく少年と樹李と神楽が街を散策しているとこちらへ呼びかける女性の声がした。
「神楽様、御機嫌よう」
声のした方を見ると、そこに清潔なメイド服に身を包み、髪を束ねた華奢で若く美しい女性の姿があった。彼女は中身の詰まった紙袋を抱えており、袋の口からは野菜が覗いていた。彼女は神楽の前に立つと袋の口から野菜がこぼれないように気を付けながら深く腰を曲げて綺麗なお辞儀をした。神楽は微笑を浮かべてそれに応じた。
「あらマリア。また買い物をしてくださっているのですね」
会話から察するにマリアと呼ばれたメイド服の女性は神楽の世話や手伝いをする立場の人物であるようだった。
「はい。今日は晴れて心地が良いですね」
マリアはそう言って微笑み、少年に目と体を向けた。樹李が少年をマリアに紹介した。
「こちらは旅のお客さんだよ」
「旅のお客さん」という紹介をされた少年はそれがはじめ自分のことだとは気付かなかった。
「あらお客様、ようこそフラマリオンへ。私は神楽様のお世話をさせていただいておりますマリアと申します」
少年は子どもらしくどぎまぎとしながら挨拶をした。
「よろしくお願いします。僕は——」
少年は再び自己紹介を試みたが、名前はどうしても思い出せなかった。しかしそれを察してか少年の自己紹介の終わらぬうちにマリアは微笑んで挨拶を返してきた。
「よろしくお願いいたします、お客様」
少年は慌てて苦笑いして会釈した。すると神楽が思い出したように言った。
「そうだわマリア。ぜひこの方にもお食事とお布団を用意してくださる?」
驚いた少年は神楽に目を向けた。初対面の自分に食事と寝床を用意してくれるなんて。驚き様はマリアも同じだった。
「まあ、お邸にご案内なさるのですか?」
神楽は少しためらいがちに答えた。
「少し私の昔の知人にそっくりなんです。もしかしたら…。いえ、ぜひまだ混乱されているようですし、懇意にさせていただければと思った次第ですわ」
マリアはやや戸惑いを表情に浮かべつつも了承した。
「ええ、喜んで」
マリアは笑顔を神楽に、続いて少年に向けた。少年はただただ唖然としていた。
「え…」
「ではお客様、のちほどぜひお邸へいらしてください。お食事をご用意いたしますわ」
少年は遠慮しようかと思ったが、自身の身の上を何も思い出せず、この場所がどこなのかもわからない状況を鑑みれば、家に泊めて食事と寝床を提供してもらえることを遠慮するわけにはいかなかった。少年は深々とお辞儀をした。
「すみません、ありがとうございます」
それを聞いた神楽は再びマリアの方を向いて言った。
「私たちはもう少しこの方に街を案内するわ」
「では私は先にお邸で支度いたします」
そう言うとマリアは笑顔で一礼してその場を辞した。少年は戸惑う頭で慌てて会釈を返した。
さらに五分ほど歩くと商店や飲食店の多い通りに出た。街は壁に囲まれているためそのおおよその大きさと自身の位置の想像がついた。どの方角の壁からもおよそ等距離にあるため、そこはおそらくこの街の中心部であり、この街のメインストリートかその裏通りにあたるのだろうと少年は推測した。不意に樹李が頓狂な声をあげた。
「おお、飛茶っち!」
少年が目を向けると樹李は近くの小さな飲食店の方を向いていた。樹李の視線の先にはその店の出入り口があり、開け放たれたその向こうには幾人かの客と店員がいた。そこはカウンター席が五つほど、二名掛けのテーブル席が四つほどしかない小さな喫茶店のようだった。どうやら樹李はテーブル席でお茶をしながら樹李の方を見る男性の老人の名を呼んだようだった。こちらに気付いた彼は大儀そうに席を立ちこちらへゆっくりと歩いて来た。薄暗い店内で腰掛けているときにはわからなかったが、立って歩くとその体は小柄を通り越して幼児ほどの大きさしかなかった。腰はすっかり曲がっていたが、腰を伸ばしてもその体は少年よりも、また一般的な老人よりもはるかに小さく、それを見た少年は驚いた。老人は薄い髪も眉毛も髭もすっかり白かった。彼の外見の中でも特徴的なのは、眉毛と髭が長いため、目や口元がほとんど隠れてしまっていることだった。ちょうどそんな顔貌の特徴をもつ犬種があったことを少年は連想した。これほど髭が長いとしゃべったりお茶を飲んだりするのに苦労しそうだなと少年は思った。会計を済ませていない老人が店員に断りもなく店を出ても咎められないのは、この街の治安の良さの表れか、この老人の人徳の表れなのだろうと少年は推測した。老人は神楽の前に立つと「お客人の案内ですかな」と問うた。
「ええ飛茶。あなたは執務をサボってお茶かしら?」
彼女は明るい口調で皮肉を言った。すると飛茶と呼ばれた老人もにっこりと笑った。眉毛と髭に隠れた顔でも、皺の動きと声色で彼が笑ったことがよくわかった。
「いえいえ、お茶をしながら読書をしておりますゆえ、これは執務をこなすための勉学の時間。すなわち執務にございます」
「あらまあずいぶんな言い訳だこと」
飛茶と神楽と、その横に浮かぶ樹李はいつもの冗談を言い合っているらしかった。冗談が一通り済むと神楽は少年に飛茶を紹介した。
「こちらは飛茶。この街の政務をお任せしております」
これほどの年嵩の老人に政務を任せる立場にある神楽はやはり「街の管理」という言葉に収まらない立場の方なのだろうと少年は推測した。
「飛茶と申します。よろしく。お客人」
すでに腰が曲がっているためか会釈をしなかった飛茶だが、その言葉には客を歓待する温かみがあって少年は安心した。
「あの、僕は——
少年は三度自己紹介を試みた。しかし自分のことで思い出せることはなかった。仕方なく失礼のないよう挨拶だけでもしようと思った矢先、目の前の老人は唐突に不思議なことを少年に尋ねてきた。
「何をしにいらした」
飛茶は長く白い眉毛に隠れて見えない目でこちらを見上げていた。
「え…?」
唖然とする少年に飛茶は再び尋ねた。
「何をしにいらした」
語調は挨拶の延長線上にあった。だがその問いはまだ混乱のさ中にある少年にとって、いやおそらくそうでない誰にとってもあまりにも唐突なものだった。
「えっと…」
少年が混乱の目を神楽と樹李に向けると二人もこちらを見ていた。その顔は客人に対する笑顔を保ってはいたものの、先ほどの談笑の折とは一転してやや神妙だった。答えを三名から求められた少年は意を決してそれを記憶の内から探すことにした。それは少年自身も望んでいることであった。僕は誰だ。どうしてここにいる。黙考して目を足元に落とすと日の光を集めて石畳は白かった。彼はその白く反射する地面の一点を見た。光…。少年はそこに何かを思い出せそうな感覚を掴んだ。
しかしそれからしばらく時間をかけても何も思い出せなかった。彼は三名をあまり待たせてはいけないと思い、ひとまず悪びれるように苦笑いして状況を素直に伝えることにした。
「すみません、何もわからないんです」
「そうですか。では思い出せると良いですね」
その神楽の言葉でやや落ち着きを取り戻した少年は「はい…」と悄然と答えた。少年を慮るように神楽が言った。
「少し歩きましょう。何か私たちにお手伝いできることがあるかもしれません。また何か思い出したら遠慮なくおっしゃってください」
その言葉に安心した少年は礼を述べた。
「ありがとうございます」
同時に彼は先刻と同じ違和感に見舞われた。記憶を失った素性の知れない人間である自分が今一番すべきことは街の案内を受けることなのだろうか? なぜこの人たちは自分にここまで親切にしてくれるのだろうか? 街を案内し、寝食まで提供しようなどと…。
「諦めるなよ」
唐突に飛茶が口を開いた。少年は驚いて飛茶を見たがその表情は相変わらず窺い知れなかった。重い響きをもつ言葉ではあったが、その声音は先ほど神楽たちと談笑していたときのように飄然として柔らかかった。少年は呆然としつつも返事をした。
「はい…」
「諦めなければいい」
そう飛茶は言い直した。先ほどより一層温かい声色だった。
「はい」
「それでは、儂はしばらく執務を続けますゆえ」
飛茶はそう言って返事も待たずに踵を返し、小さな背中を店の中へと運んでいった。
「ほどほどにね」
神楽はまた冗談めかしく言った。少年は飛茶の背中を呆然と見送った。
飛茶と別れてから三人はさらに通りを進んだ。
「この街の名前はフラマリオン。それはさっき言ったよね」
樹李が街の紹介を続けてくれた。
「うん」
少年はすっかり彼女に気を許していた。
「小さな国だよ。少なくともアーケルシアやルクレティウスに比べれば」
唐突に知らない国の名が出てきたが、少年は黙って先を聞くことにした。
「一応アーケルシア領ってことになってる。でもアーケルシア騎士王と神楽様との契約でフラマリオンに実質的自治が認められてるんだ」
少年はあらためて神楽を見た。大きな国の王と半ば対等ともいえる契約を結ぶ人物。やはり神楽は大物だったのだ。
「神楽様はフラマリオンの自治の象徴でありトップ。にもかかわらずご自身も旅人の案内や街のみんなの声を聴く仕事をしてるんだ。すごいでしょ?」
「うん」
少年は素直に感嘆し頷いた。きっとすごく忙しくて、なのにこんなに親切でみんなから慕われていて、すごい人だな、と思った。神楽は照れくさそうに口元を綻ばせて謙遜を言った。
「私はみなさんのご意見を伺っているだけです。それに政務の多くは飛茶の担当よ」
神楽の謙遜をよそに街の紹介を続ける樹李の語調は相変わらず明るかったが、話の内容は急に暗転した。
「この国はね、よく戦争に巻き込まれるんだ。アーケルシアもルクレティウスも大きい国なんだけどその間に挟まれてるからね」
少年は驚きとともに城壁を見渡した。さらにその上に佇む物見櫓を見た。櫓の中は遠くて見えなかったが、その中に街の周囲を監視する兵がいることを想像してみた。よく見ると城壁の上にも巡回する兵らしき人の影を見ることができた。一人、二人…。数は知れない。逆光の影に塗りこめられた城壁と櫓の姿は少年の目に先刻よりもさらに物騒に映った。
「今はアーケルシア領だけど、中立だった時期もある。もともとはアーケルシアとルクレティウスとの交易で栄えた国なんだけど、両国の戦争が激化してからは交易もなくなるし、悲しいこともたくさん起こったんだ」
漠然としか『戦争』という言葉の意味を知らない少年の心に、それは大きな底知れぬ恐怖の影を落とした。ここは安全なのだろうか。神楽さんや樹李は…?
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