こころのみちしるべ

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アーケルシア編

041.『二人の王』1

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 リヒトは違和感を覚えていた。リサの見事な四連撃に自身は翻弄された。あれはリサにとって千載一遇のチャンスだったはずだ。リヒトはリサの背の矢のストックに目をやった。まだ残っている。なぜ四連撃で攻撃をやめた? あのままリヒトをさらに追い込むこともできたはずだ。違和感の原因はもう一つあった。彼女の二撃目は頭部、三撃目は腹部、つまり急所を狙うものだった。しかし四撃目は利き腕ではない左腕だった。たしかに動きはこれで多少鈍る。しかし戦いに大きく影響はしない。四連撃目ともなるとさすがに攻撃の精度が落ちたのか? いや、リサに限ってそれはないだろう。ではなぜ? 頭や胴だと警戒されて防がれる確率が上がる。だから警戒の薄い部位を狙った? 頭や胴を狙って当たらないよりは、腕でも当てた方がダメージにはなる。リヒトはそこである仮説に行き当たった。当たればどこでも良かった? つまり——
 リヒトはそのとき体からふわりと力が抜けるのを感じた。それは明らかに疲労によるものではなかった。より明確な虚脱感。体から強制的に力を奪われる感覚。
「くっそ…」
 彼は呻いた。
「毒か…」
 リサは口の端を歪めた。
「ちょっと卑怯だとは思ったけどこうでもしないとあなたに勝つことはできないと思ったの。狩人は手段を選ばないわ」
 リヒトも冷や汗を浮かべながらニヤリと笑った。
「お褒めに預かり光栄だぜ狩人様」
 リサは少し神妙な顔をして逡巡してから次の言葉を発した。
「負けを認めて。あなたは殺すには惜しい。もう虎狼会に手は出さないで。できれば国外に逃げて。早晩この国とビュルクは虎狼会の手に落ちるわ」
 リヒトは冷や汗だらけの顔で笑った。
「それがお前が虎狼会に与する理由か。やっと本心が聞けたぜ」
 リサはそれには取り合わなかった。リヒトは震える声で言い放った。
「悪いが絶対にそうはさせない」
 リサは吐き捨てるように言った。
「往生際の悪い」
 リヒトは鼻で笑ってつかの間黙考したあと、口を開いた。
「あんまりこの技は使いたくなかったんだけどな。俺もどうしても勝ちたいんで卑怯にならせてもらうぜ」
 リサはリヒトに反撃の意思があることを知って神経を尖らせた。しかし彼女はどのような手を用いても彼に勝ち目があるとは思えなかった。だが毒で追い込まれた以上次は必死の策を打ってくるはず。彼女は最大限の警戒をすることを自身に言い聞かせた。リヒトはリサを睨んで刀を構え、叫んだ。
「妖魔刀術・潜牙」
 するとリヒトの足元に黒い穴が空いた。リサは目を眇めた。リヒトは片膝をついてそこに自身の刀を突き立てた。次の瞬間、リサは首筋に冷たく鋭い殺気を覚え目を見開いていた。リサの首筋の頸動脈の数ミリ横に鋭利な刀身が据えられていた。気配を察知する能力に誰よりも長けた彼女であればこそ彼女は自身の置かれた状況を正確に理解していた。動けば殺す。そういう殺気がその刀身からは伝わってきた。リサは完全に動きを封じられた。リサの視野からは見えないが、リサの首筋に当てられた刀身は別の空中に浮かぶ黒い穴から伸びていた。リヒトは毒のために荒くなった息の混ざる声を出した。
「これは刀身を異空間から出現させる技。貴様は大した狩人だ。こちらの攻撃のクセを完璧に見抜き、こちらの気配を完璧に察知する」
 リヒトは冷や汗の滲む顔でニヤリと笑った。
「だったら察知すらできない技を使うまで」
 リサもまた冷や汗を垂らしていた。
「あなた。最初からこの技を使っていれば…」
 リヒトは眉を吊り上げた。
「さあな、どうだか知らねえよ」
 リヒトは立ち上がり神妙な声音で言った。
「さて、解毒薬をよこせ」
 リサはしかしリヒトの予想に反する言葉を平然と言い放った。
「断るわ」
 リヒトは唖然とした。
「お前何言ってるか——
「殺しなさい」
 リサはあっさりと言った。リヒトは目を眇めた。
「元より覚悟の上よ。虎狼会につくと決めたときから、いえ、ビュルクを守ると決めたときから覚悟していたわ。殺しなさい」
「オルフェやレオナはどうすんだよ」
 一瞬目を見開いたリサは顔をうつむけた。
「レオナは…私がいなくても生きていけるわ…」
「生きていけるかどうかじゃねえ。哀しいかどうかだろ」
 リサは激昂した。
「うるさい! あなたがレオナを語らないで!」
 しかしリヒトは冷厳と言い返した。
「いや、レオナを語る資格はお前にこそねえよ」
 リサは眉を顰めた。
「何ですって!?」
「今お前がやってることを見てレオナはどう思う」
 リサはその言葉にはっとさせられ、言い返せずに歯噛みした。
「ビュルクを守るために犯罪組織に加担しましたってレオナに胸張って言えんのか!」
「これは私が決めたことよ。あの子には関係ない」
 リヒトは肩をすくめた。
「そうか。よくわかった。お前の覚悟のほどは理解したぜ、リサ。そんじゃ話を変えよう」
 リサは訝しそうにリヒトを睨んだ。
「俺はどうしてもゼロアを倒さなきゃならないし、お前はどう考えてもゼロアのような悪人だとは思えない。だからこれからする俺の話を聞いて、そんでこのままゼロアに付くか俺に乗り換えるか決めろ」
「そんな勝手な言い分が——
「まあ聞け。どうせほっときゃ俺は毒で死ぬんだろ。だったら最後の俺の言い分くらい聞いても構わねえだろ」
 リサは言い返さなかった。
「ゼロアは悪人だ。だがそれはお前も重々承知の上であいつの下についてんだろうからその辺は省略するぜ。俺の話をしよう。俺は四年前フラマリオンにいた」
 「四年前」「フラマリオン」そのキーワードはリサにある一つの事件を想起させた。リサはそれをビュルクでリヒトから聞いて何となく察してはいた。
「やっぱり…」
「ああ、オーガによって街が襲撃されたとき、俺はあそこにいた。オーガとも戦った。そして何もできずに負けた」
 リサは目を細めた。
「俺はあの街を治める神楽様の第一の近衛兵だった。しかし俺の目の前であの方はオーガに殺された。それどころか街の人々も大勢犠牲になった。俺は命を懸けてでもあの方をお守りする役目を担ってたのに、俺だけが生き延びた。俺は難民になった。そんな俺を受け入れてくれたアーケルシアのために今は戦ってる。でも正直何のために戦えばいいかよくわからずに戦ってた。何となくフラマリオンを取り返せればいいくらいに思ってた。そんなときにアイシャに出会った。流星団のリーダーだ。つまりあいつもゼロアと一緒で犯罪組織のリーダーだ。でもあいつは子どもと病人と年寄り、体の不自由な人、失業者、そんな連中を守ってた。流星団ってのはそういう社会的弱者からなる組織だった」
 リヒトの言葉を聞くリサはレオナの心の病気のことを連想していた。
「なあリサ」
 急に名前を呼ばれてリサははっとした。
「俺はアイシャを見て、ビュルクを守ろうとして戦ってるお前に似てるなって思ったよ」
 リサは「お前に何がわかる」と言ってやりたい気持ちにかられた。しかしその言葉は喉につかえてうまく出てこなかった。
「フラマリオンではルクレティウスの圧政で多くの人が苦しんでるらしい。俺はフラマリオンを救う。復興事業で大勢の浮浪者に仕事を与える。交易も盛んになる。アーケルシアが潤えばそれはビュルクをも潤す」
 リサはリヒトの瞳の奥を見たが彼が嘘をついているようには思えなかった。
「ゼロアが何をしてるかお前も薄々気付いてるだろ。俺はアイツとは違うやり方でアーケルシアもフラマリオンもビュルクも救う」
 彼女はようやく一つ言い返すことができた。
「どうしてあなたがそこまで…、アーケルシア騎士団に何のメリットがあるの…?」
「俺は四年前にフラマリオンで守れなかったものを守りたいんだ」
 それは力をもたない弱き人々であり、騎士としての誇りであった。ビュルクを守るために戦い、もどかしい思いをしてきたリサにはリヒトの気持ちがよくわかった。
「アーケルシアの騎士王としてではなく、一人の騎士として」
 リサにはもう言い返す言葉がなかった。
「そのためにお前の力が要る」
 リサは目に涙をためた。彼女も本当なら正しい考えを支持し、それに与したかった。リヒトは付け加えた。
「俺かゼロアか、選べリサ」



「わかった。諦める」
 アイシャのその言葉を聞いて四人の男たちはにんまりと笑った。構えを解き抵抗の気配を見せなくなったアイシャに四人の男たちは近づこうとした。しかし彼らの視界の中でアイシャが顔を上げて不敵な笑みを浮かべたため彼らは動きを止めた。
「全員軽症で済ますのはな」
 ダルトンの顔から笑みが消えた。
「は?」
 アイシャは眉を上げた。
「ダルトンお前は曲がりなりにもコロシアムのトップランカーだ。それなりにプライドもメンツもあるだろ。アントニオ、お前も昔のよしみだ、できれば気絶くらいで済ませてやりたい。他の二人も犯罪組織とはいえそれなりに部下への面目もあるだろ。女一人に男四人がかりで重傷負わされましたじゃ格好つかねえじゃねえか。だからできるだけ軽傷&気絶くらいで済ましてやりたかったんだけどお前らまあまあ強えからそりゃ無理みてえだ」
 ダルトンは眉を上げて頭をかいて首をひねった。アントニオは呆然とアイシャを見ていた。ホセとマニュエルは顔を見合わせて噴き出すように笑った。アイシャは口の端を歪めて双眸をぎらつかせ、拳を胸の前で合わせた。バシッ、と小気味よい音がした。
「だからお前ら全員手加減なしでぶっ飛ばす!」
 男四人に囲まれて何もできずに服を刻まれていた小柄な女が何を言う。そう呆れたダルトンが口を開いた。
「お前さっきから——
 その懐の内にアイシャが一瞬で姿を現した。彼が眼下に現れた「気配」に視線をやるのと同時に彼の体は重力から自由になった。その巨体の腹の内にアイシャの腕の肘から先がめり込み、次の瞬間にはダルトンは意識を失い、その巨体は吹き飛び王城の外壁にめり込み、項垂れた以外は微塵も動かなくなった。めり込んだ壁に放射状に広がった亀裂から瓦礫がこぼれ落ち、ぱらぱらと地に当たる音を立てた以外は周囲を全くの静寂が包んだ。
「警戒しろ!」
 呆然とするホセとマニュエルに向けて焦ったアントニオがそう声をあげた。しかしそのアントニオの背後にアイシャが瞬時に姿を現した。それを察知し目を見開いた彼は素早く必死に手甲剣を後方に振った。しかしそれと同時にアイシャは彼のさらに後方に現れ、しかもその拳はいつでもそれを突き出せるように脇に引き絞られていた。手甲剣を夢中で振ったがために体勢を大きく崩していたアントニオが後方のアイシャに気付いたときには、彼にできることは自身が一瞬のちに辿る運命を察知し、青ざめて驚嘆し、それが死でないことを祈ることだけだった。次の瞬間にはアイシャの放った右ストレートが見事に彼の背中の重心を捉え、彼を王城の庭の植木の幹に叩きつけていた。木の幹から紙切れのように滑り落ちた彼はすでに意識を失っていて指一本動かさなかった。
 やられる前にやってやる、もうそれしかない、焦りから必死にそう考えを巡らせたホセはアントニオへの攻撃後の体勢のままこちらに背中を向けているアイシャを素早く鉤爪で引っ掻いた——かに思われた。しかし彼の爪は空を切っていた。アイシャは爪の軌道のすぐ横でいつの間にかホセを見て仁王立ちしていた。鉤爪を振った体勢のまま呆然とするホセの腹を表情も変えずにアイシャは右の拳で打ち上げた。目を見開いて喉の奥から乾いた呻き声を漏らした男はアイシャの拳の勢いのまま王城の敷地の外へ石ころのように飛んで行って見えなくなった。呆然とそれを見て立ち尽くしていたマニュエルは、しかし次の瞬間に生物としての本能の発露として踵を返して逃げ出していた。何だこの化け物は、まるで勝ち目がない。そう悟った彼は走る邪魔になると知りつつも身を守るために短槍だけは手放さなかったが、その短槍は一瞬のちに誰かに掠め取られ、彼は急に軽くなった手元に何が起きたのかを確かめるために慌てて立ち止まって脇を見た。その視線の先に彼の短槍を手にしてそれをしげしげと眺めるアイシャの姿があった。彼女がそれを突けば自分は死ぬと悟った彼がどのように命乞いをすれば助かるか思案を始めた刹那、彼女はその金属製の短槍の柄の中心をこともなげに膝で真っ二つに折り割って見せた。ガラス細工のように乾いた音を一つ立てて簡単に砕けたそれを見て、せめて命だけは助かりたい、死ぬならせめて楽に、と願った彼とアイシャは目が合った。アイシャが彼に向き直ると、彼は恐怖に足がすくんで尻もちをついた。相手にすでに戦意がないことを知ったアイシャは満足そうに笑って彼に尋ねた。
「何か言うことはあるか?」
 そう問われて必死に思考を巡らせた彼は、答えが遅くなれば彼女の機嫌を損ねかねないと思い、慌てて思いつく限りの言葉を並べてアイシャに命乞いをした。
「すみませんでした。虎狼会との協力関係も解消します。二度と流星団には逆らいません。服は弁償します。金でも何でも出せるものは何でも差し出します。組織は解体し、暴力行為はやめます」
 アイシャは眉を上げて肩をすくめた。
「よろしい。お前の組織の金は流星団が貧民を救うために有効活用してやるから、今日はいい気分でぐっすり眠れ」
「い、い、痛み入ります」
 アイシャはもはや用のない相手を面倒臭そうにあしらった。
「失せろ。気持ちわりい」
「はい。わかりました」
 間髪入れずに返事をしたマニュエルはすっかり腰が抜けた状態で這いずるように王城の敷地の入口へ進み、それをくぐると右に曲がり姿を消した。それを見送ったアイシャは両手に持った半分になった槍を事も無げに放り捨てると王城の方に視線を向けて舌打ちした。
「ちっ。男が四人揃いも揃って肩慣らしにもなりゃしねえ」



 リヒトは階段を上り切った。王城の最上階。彼の正面には大きな部屋をかたどっていると思われる壁とその中央にしつらえられた煌びやかな赤い扉があった。おそらくここが王の間。その扉はすでに開かれ、リヒトの視界にはその向こうに何人かの人影が映っていた。おそらくこの部屋の中にいるのはゼロア。虎狼会の首領。アイシャの見立てではすでにシェイドも虎狼会に合流している。ここまでに彼に出会わなかったということは彼もまたこの中にいるに違いない。リヒトは警戒しつつその中に歩を進めた。扉の先には窓も装飾もないがらんどうのような無機質な部屋が広がっていた。部屋には三人の人物がいた。
 一人はフードの付いたローブを纏った赤い双眸の男。部屋の中央には五段程の階段があり、その先に玉座があり、そこに悠然と座って片肘をついて笑みを浮かべこちらを見ている。おそらくこれがゼロアであろう。リヒトはその姿に見覚えがあった。先代王の葬送の日に見かけて挑発的な笑みを遠くから投げてきたあの男だ。
 その斜め後ろには黒い服の小柄な男がいる。およそ暗殺家とは思えない飄々とした佇まい。だが無駄のない体のシルエットとおそらく余裕から来る笑みを浮かべる姿はまさに強者のそれだ。彼はおそらくシェイドであろう。その外見的特徴はマリアの目撃証言とも一致する。「これがアストラを殺した男か…」そう心の中で復讐心を新たにする間もなくリヒトはゼロアの前の地面に伏せるもう一人の人物を視認し慄然としていた。それはクライスだった。
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