こころのみちしるべ

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アーケルシア編

055.『刃と拳』1

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 クライスは仁王立ちに構えた。対するリュウガは少しだけ腰を落として半身の構えをとった。
 先に動いたのはクライスだった。彼は跳躍しリュウガとの距離を詰めた。クライスはシェイドとの戦いを思い出していた。慎重に、しかし大胆に相手の力量を測る。リュウガは一瞬目を眇めたが、彼もまたクライスとの間合いを冷静に測っていた。武器を使わないというリュウガの実力は未知数だが、少なくとも間合いでクライスを上回ることはない。クライスにとっては自分の距離で積極的に攻撃を仕掛け、相手にペースを握らせないのが上策だった。彼は自身の剣が届き、同時に相手の打撃が届かない距離を維持しつつ果敢に仕掛けた。リュウガはそれを下がりながら躱した。躱すリュウガの表情は焦りの色を浮かべることもなく、平坦なままだった。クライスは敵の体捌きの見事さに敬服の念を覚えたが、しかし攻めているのはこちらであり、相手の攻撃が届かない間合いを維持できていることは確かであり、相手には微塵の勝機もないように思えた。
 だがそれはともかくこのままではクライス自身も攻め疲れを起こしかねない。相手のスタミナが未知数である以上早めに決着に持ち込みたい。クライスはリュウガの心理を乱すことにした。彼は唐突に攻撃をやめた。リュウガは先ほどと同じように少しだけ目を眇めた。クライスは挑発的な笑みを浮かべて言った。
「いいのか? お前はさっきから何もできていない。防戦一方だ。さっきのヒョロいのといいお前といい、六大騎士ってのは名ばかりだな」
 しかしリュウガは平然とこれに応じた。
「いや、お前の攻撃はすべて見切った。もうじき決着がつく」
 クライスはこの言葉を半分驚異に感じた。本来なら虚言として切り捨てるところだが、そう簡単に片づけてはいけないと思わせる響きがリュウガの言葉にはたしかにあった。クライスはリュウガの言葉の真意を探った。しかしどれだけ考えても彼に勝機があるとは思えなかった。
 クライスは先ほどと同じ作戦を続行することにした。彼は間合いを詰め、剣を振り上げた。距離感は完璧。スピードも太刀筋もパワーも申し分なかった。しかし先刻までと違うことが起こった。リュウガが一歩も退かなかったのだ。クライスは目を見開いた。一方のリュウガはやはり表情を微塵も変えなかった。しかしリュウガの反撃が届く間合いではない。クライスは構わず剣を振り下ろした。すると次の瞬間——
 リュウガは素早く右手を振り抜いた。乾いた音とともにクライスの右手に激しい衝撃が走った。同時に視界の端でバラバラと何かが舞い、吹き飛んでいった。クライスは自身の右手を見た。肘も手も無事だ。だが手に持つロングソードの半分から先がない。
 クライスは慌てて跳び退いた。リュウガはそれを追わなかった。クライスはリュウガが何をしたのかを理解した。先刻から逃げ回っていたのは武器と剣戟の間合いを知るため、その目的は武器を破壊することだったのだ。しかしまさか素手で剣を折ってしまうとは。彼は用を成さなくなった鉄切れを地面に放り捨てた。本当は悔しさのあまり叩きつけたいところだったが、相手に心理的弱みを見せないためにも取り乱すことはしなかった。クライスのリーチと攻撃力は半減された。クライスは汗を垂らして歯噛みし、リュウガを睨んだ。リュウガはやはり汗一つかかず平坦な表情でクライスと対峙していた。
 クライスは腰を低く落として拳を構えた。肉弾戦の構え。リュウガはそれを見て目を眇めた。
 クライスは傭兵時代も人一倍鍛錬する男だった。他の騎士が『実戦では無用』と片付けて疎かにする体術の訓練もまったく欠かさなかった。それどころか彼は非番の日に私設の武術の訓練所に通い、そこで自主訓練まで行った。剣闘士となってからも彼は武器が与えられない状況や武器を使用してはいけないという特別ルールを幾度となく経験した。彼はそれを糧とし、自らにさらなる不断の努力を課した。彼の構えには一分の隙もなかった。ほとんど表情を変えないリュウガでさえそれを見て感服の色を滲ませた。クライスはリュウガに言った。
「武器破壊は見事だった。だが肉弾戦は俺も望むところだ」
「…」
 リュウガはそれに対しても無言を貫いた。
「行くぞ!」
 そう言ってクライスはリュウガに向かい跳びかかった。クライスはリュウガが先ほど同様一度退いてこちらの攻撃の威力と間合いを見極めるものと推測した。
しかし実際にはリュウガは動かなかった。クライスは目を眇めて心中で呟いた。
(受け止めるつもりか…!)
 クライスはならばと全身全霊を拳に込めた。相手の回避や反撃に備える必要はない、こちらも一撃に賭ける。クライスの突撃の速度と軌道には微塵の狂いもなかった。両者の距離は一瞬にして縮まり、クライスはリュウガの顔面目がけて右の拳を繰り出した。それが直撃する数十センチ手前でリュウガは左手の肘を立てて防御を講じた。クライスの拳はリュウガが立てた左腕に直撃した。リュウガはあえて体の力を抜きそれをしなやかに受け止めた。彼はクライスの拳の勢いにより数メートル後ろに下がらされた。クライスの突きの威力が尽きるとリュウガの後退も止んだ。両者の間に沈黙が訪れた。
 リュウガは倒れなかった。クライスは目を見開き唖然とした。渾身の一撃を受けた敵は痛みに呻くこともなかった。リュウガはクライスの拳を受けた腕を振ったり回したりして確かめたが特に運動能力に支障は発生していないようだった。リュウガは確認が終わるとその目を再びクライスに向けた。
 クライスはそれで我に返った。そのまま立っていれば相手の反撃が来ると焦った彼は下がるかさらに攻めるか選択を迫られた。クライスは後者を選んだ。相手もまた下がらずに決着をつけるつもりでいる。短期決戦はクライスも望むところだった。
 クライスは跳び込み様に左手で第二撃を放った。クライスの身長から打ち下ろされる近い間合いからの岩のようなストレートの拳。先ほどの拳に比べれば威力では大きく劣る。だが至近距離であるだけに軌道も読みにくく、対策もしづらく、ゆえにそれが相手に直撃する可能性はむしろ高まる。
 それに対しまたしてもリュウガは意外な反応を見せた。彼も先ほど肘を立てていた左の拳を振り上げ、それを真っ直ぐクライスへ向けて放ったのである。一瞬クロスカウンターを狙ったもののように見えたが、それは違った。クライスの拳と軌道が同じなのである。リュウガはクライスの拳に自身の拳を合わせようとしていたのだ。クライスはやや意表を突かれたが躊躇しなかった。自身の体重と身長を駆使して繰り出す拳なら単純な威力で自身より小さいこの男に劣るはずがない。
——両者の拳はぶつかり合い、両者の中間距離でぴたりと止まった。静寂が訪れた。傍から見るとそれは互角の決着であるように見えた。次の瞬間、クライスの腕に電気のような刺激が走った。それはまるで腕の皮膚を筋状に裂かれるような痛みを伴った。クライスは目を見開き、呻いた。対照的にリュウガは真っ直ぐクライスに向けた目を動かさなかった。わずかな間隙ののちクライスの腕の所々から血が噴き出た。彼の腕は力と感覚を失いだらりと垂れ下がった。
「がぁっ…!」
 クライスは苦痛に呻いた。それでも彼はリュウガの連撃を警戒して目を開け顔を上げ、リュウガを視認した。
 しかしそのときにはもう遅かった。リュウガは右の拳でクライスの腹目がけて正拳突きを放っていた。拳はすでにクライスの鳩尾の十センチ手前にあった。クライスはコマ送りの動体視力の中で諦観とともにそれを眺めた。それはクライスの腹にゆっくり深く深く吸い込まれていった。リュウガの拳は体にめり込み、それはクライスの体の芯に強烈な衝撃を与えた。クライスの感覚が途切れると時間は再び平常通り動き出した。クライスの体に拳を食い込ませたリュウガの踏み込みはそこでとどまらなかった。彼はさらに体を起こし腕を伸ばした。クライスの巨体の体重がかかってなおリュウガの腕と足腰は膂力を損なわなかった。クライスの体はリュウガの拳を中心にくの字に折れ曲がった。次の瞬間にはクライスの体は森の中に吹き飛んで消えて行った。いく本もの枝が折れ、いく枚もの葉が吹き飛ぶ音がした。やがてクライスの大きな背中は大木に叩きつけられ、地に落ち、動かなくなった。リュウガは構えを解かずそれを悠然と見送った。遅れて草木が揺れ土埃が舞った。アイシャとリサとリヒトは一様に驚愕していた。一方のリュウガ、スレッダ、レオは対照的に表情を変えなかった。
リヒトはリュウガの強烈な一撃の余韻の中で唖然とした心を何とか立て直すとリサに向けて言った。
「リサ! クライスを頼む!」
 するとその声で我に返ったリサはリヒトの意図を理解し、慌てて身を翻しクライスが吹き飛んで行った森の中へと素早く駆け込んで消えて行った。



 森深くへと入ったリサは正確にクライスの気配を察知していた。彼は生きている。しかしその気配は弱々しい。枝から枝へ素早く身を躍らせ森の奥へと進むとやがてその姿を見つけることができた。クライスは木の幹に体を打ち付けそのまま幹を背もたれに座り込むように頽れていた。
「クライス!」
 彼女は彼に呼びかけたが反応はなかった。駆け寄って見ると彼の体表には無数の枝や葉を擦過したことによる擦り傷があった。彼は意識を失っていたが命に別状はなさそうだった。また打撲はあったものの骨折はなさそうだった。それを確かめた彼女は彼をそのままそこに寝かせておくことにした。彼女は体を起こしクライスに静かに誓った。
「待っててクライス。必ず勝ってみせるから」
 彼女は振り返り、戦地となっているルクレティウスの北壁を睨んだ。



 リサが森の中へ消えてクライスの介抱に向かったのを見届けてからアイシャはリュウガの元へと歩を進めた。リュウガもまた彼女を真っ直ぐに見ていた。彼女は彼の予想の斜め上を行く強さに焦りを感じつつも、相手が武器を使わず拳で戦うと知り「自身に向いた相手」だとも感じ取っていた。アイシャは言い放った。
「次はあたしが相手だ」
 リュウガは短く答えた。
「ああ」
 アイシャは口の端を吊り上げた。
「へっ、武器を使わない騎士か。とんでもねえヤツもいたもんだな」
 リュウガは表情も変えずに応じた。
「お前こそ、さっきのグレンへの突き、見事だったぞ」
 アイシャはそれを素直に賛辞として受け取ることができなかった。
「そりゃどーも」
 二人の会話はそれで終わった。アイシャは深く腰を落として拳を構えた。対照的にリュウガは悠然と仁王立ちのままアイシャを見ていた。そういえば先ほどのクライスとの戦闘でもリュウガはほとんど構えを見せなかった。
「不思議な型だな。何かの流派か?」とアイシャが尋ねた。
「自己流だ」とリュウガはぽつりと答えた。アイシャは驚くと同時に相手の底知れぬ強さに内心慄いた。また、自身が修練の先に手にした強さを否定されたようで意地でも倒してやろうと決意を固くした。
 アイシャは先ほどのクライスとリュウガの戦いを思い起こした。クライスの剣戟も突きも完璧だった。しかしリュウガはそのスピードとクセを何度かの攻撃を見ただけで見極めてしまった。つまりリュウガの強さはそのスピードとパワーとテクニック、それと相手の攻撃を分析しそれに適応する能力にあるということになる。
 ではこちらの勝機はどこにあるか。まずパワーはおそらくリュウガの方が上だ。テクニックは互角。スピードはこちらの方が上。ならばスピードで攪乱する。さらに相手の分析能力の裏をかく。まずは相手にこちらの九割のスピードを見せ、それで攻撃を仕掛ける。おそらく相手は何とかそれを防ぎ切り、そのスピードへ順応するだろう。こちらの攻撃の癖も徐々に掴むだろう。そこで一気に加速する。相手の予想の斜め上を行くスピードを見せる。決着は一瞬。勝機は一度。アイシャは一つ息をついてあらためて構えた。リュウガは表情も構えも変えなかった。
 アイシャは消えた。次の瞬間にはアイシャはリュウガの間合いの内にいた。リュウガは驚きもせず素早く退いた。アイシャはさらに間合いを詰めて右の拳を引いた。リュウガはわずかにアイシャから見て左に跳んだ。アイシャの右の拳の攻撃の威力を削ぐための動きだ。アイシャは心中で呟いた。
(いい反応してやがるぜ)
 しかしそれはアイシャの想定内だった。アイシャは左に大きく跳び、左の拳を引いた。リュウガは素早く右の腕で受けの形をとった。アイシャは少し迷ったが左の拳を撃った。アイシャの突きとリュウガの受けは交わった。リュウガは顔を少し顰めたがアイシャの重い一撃を受け止めきった。アイシャはまたも心中で感心した。
(いいガードだな)
 彼女はいつしかリュウガとの戦いを愉しんでいた。ここまで自分の動きについてこられる者と戦うのは初めてだったからだ。彼女のたゆまぬ鍛錬の結果、地下格闘技で彼女とまともに戦える対戦相手はいなくなってしまっていた。
 アイシャは笑顔を湛えてリュウガの間合いに再び跳び込み右のストレートを放った。すると意外なことが起きた。リュウガもまた笑ったのだ。彼は下がりながら両の腕でアイシャの拳を防いだ。彼もまたアイシャに呼応するように戦いを愉しんでいた。
 アイシャは嬉しくなった。彼女は迷ったが連撃を放つことにした。一発一発は軽くなるが隙は小さくなり、相手に反撃の機会を与えない。リュウガもまた嬉しそうにそれに付き合った。彼はアイシャの連撃のすべてを受け、躱した。
 そろそろリュウガはアイシャの攻撃に目が慣れてきた頃のようだった。攻撃の癖も読み始めた頃だろう。アイシャにとってそろそろ仕掛けどきだった。しかし彼女はまだ戦いを愉しみたかった。
「もったいねえ…」
 アイシャは呟いた。しかし彼女は心を決め、体の力を抜いた。息を軽く吸い、一瞬の静寂ののちに足に力を込めた。研ぎ澄まされた精神と無駄のない動作、脚に込められた力は彼女の小さな体を先ほどまでより見違えるほど速くリュウガの懐の内へ運んだ。だがそこまではただの前段だった。アイシャは跳び込みながら右の腕に力を込めていた。それもまた先ほどまでを8.5とすると10に値する力だった。彼女の渾身の力を込めた拳に対し、リュウガは辛うじてガードの構えを講じることができた。ガードが間に合わないとは思っていなかったアイシャにとってそれは想定内の出来事だった。
 しかし想定外だったのはそこからだった。そのとき渾身の力を込めて彼が講じた防御はそれまでの防御よりも堅固で力強いものだったのだ。アイシャは目を見開いた。彼は呻きつつアイシャの攻撃をこらえる腕とそれを支える下半身に力を込めた。アイシャの渾身の突きをまともに受けた彼は彼女の拳から体が離れたあとも勢いで何メートルも下がらされた。彼の脚は地面とこすれて砂埃をあげ、地面を深く抉り、十メートル先まで運ばれ、そこでようやく止まった。アイシャの想定では今頃リュウガは地面を転がっているはずだった。突きを終えたアイシャは唖然とした。リュウガは痛みに呻きながらもガードの腕をゆっくりと下ろした。彼は腕の稼働を確かめた。リュウガの腕の骨を折るつもりで突きを放ったアイシャだったが、驚くべきことに彼の腕は両方ともダメージを負ってはいるものの機能に損傷を起こしてはいないようだった。アイシャは呟いた。
「マジかよ…」
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