こころのみちしるべ

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ルクレティウス編

067.『生き残る』

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 悠樹は座ったまま「来るなら来い」と言わんばかりに冷笑を琢磨に向けた。琢磨が悠樹に詰め寄るのを真琴が制した。琢磨は真琴越しに「てめえも真剣に考えろよ!」と悠樹に怒鳴りつけた。悠樹は呆れ果てたように笑ってその言葉に取り合いもしなかった。真琴は仕方なく琢磨をなだめながら外に連れ出した。門を出ると琢磨は真琴の手を振りほどき「マジで馬鹿じゃねーのあいつ考えろよ頭使え馬鹿が」と辛辣にぼやいた。真琴が何も答えないでいるとそれがさらに気に食わないらしく「おかしくね? あいつ」と喧嘩腰で真琴に詰め寄った。
「いいからちょっと付き合ってくれ」と真琴が言うと琢磨は「は? どこ行くんだよ」と聞いた。
「市場」と真琴が言うと「何でだよ」と琢磨が重ねて聞いてきた。
「食材を買う」
「何で」
「長持ちして金がかからない食材がいるだろ」
「今から買いに行かなくてもいいだろ」
「今から行ったって別にいいだろ」
「めんどくさっ!」
「ついでに聞き込みとかすればここがどこなのか、どうやったら帰れるかわかるかもしれないだろ」
 琢磨は「悠樹にやらせろ」と言いたそうにしていたが、再び悠樹と喧嘩をするために家に入るのが億劫になったのか、しぶしぶ真琴の提案に付き合うことにした。



 市場に着く頃には琢磨も落ち着きを取り戻していた。彼はただ真琴の後ろをついて歩いた。
「琢磨、何が食べたい?」と真琴が聞いた。
「別に」と琢磨は答えた。
「琢磨、俺が食材選んでる間少し聞き込みをしてくれないか?」と真琴は頼んでみた。
「そんなの意味ねえよ」と琢磨は答えた。まだしばらく機嫌は直りそうにないなと真琴は思った。
 すでに日が傾き始めていた市場には売り物があまり残っていなかった。店ごとたたんでしまっているところも少なからずあった。しかし売れ残りは値段が下がって安かった。
「安くて保存が利く食べ物って何だろな」と真琴が琢磨に聞いた。
「米とか芋とかじゃねえの?」と琢磨は呟くように言った。二人は米とジャガイモとその他野菜と調味料数点と牛乳と玉子を買って帰った。



 日が落ちてすぐに二人は家に着いた。杏奈はよほど心配したらしく「どこ行ってたの?」と聞く声にはどこか苛立ちが込められていた。
「食材買ってた」と悪びれもせず真琴は答えた。
「明日みんなでご飯作るんだろ?」と彼は付け加えた。その日はいつも通りクラッカーと干しブドウと水だけの夕飯だった。ほとんど会話もなく五人は寝た。



 翌朝、なかなか目を覚まさない琢磨を真琴は無理矢理起こした。すでに杏奈と悠樹は調理の支度を始めていた。面倒臭そうにしていた琢磨も久しぶりの食材の数々に触れて次第に機嫌を直していった。献立は「干し肉と野菜のスープ」と「じゃがバター」と「具なしのガーリックライス」だった。杏奈の指示で悠樹と琢磨が動いてスープを作った。じゃがバターは翔吾が作った。ガーリックライスは真琴が作った。ガーリックライスは真琴の得意料理の一つだった。昨日喧嘩した悠樹と琢磨もその日は何事もなかったかのように会話をし、協力し合った。料理が完成に近づくにつれみなの心はこれまでになく弾んだ。実のところ彼らはミネラルやたんぱく質を中心に慢性的に栄養が欠乏した状態に陥っていた。不足した栄養と懐かしい味は目の前の鍋やフライパンの上にあった。この土地に来て以来栄養を満たすことを禁じられてきた彼らにとってそれを解放する瞬間がすぐそこにあった。料理を皿に盛り付けテーブルについた彼らは誰からともなく手を合わせて長い間目を閉じた。目を開けた彼らは互いを見た。
「食うか」と悠樹が言った。
「食う?」と真琴が言った。
「食べちゃう?」と杏奈が言った。
「食おうぜ!」と琢磨が言った。
「食おう!」と悠樹が言った。
「よし!」と真琴が言った。
「いただきます!」と翔吾が言った。
「いただきます!」とみなが言った。
 みなスープから口にした。ダシは効いていなかったが、普段塩分と油分に関してはクラッカーやパンに含まれるわずかなものしか摂取していない彼らはそれが体に染み渡っていくのを感じ、言葉も出ないほど恍惚とした。
「…」
「あぁー…」
「うっめぇ…」
「…」
 次に彼らはじゃがバターを口にした。こちらは先ほどよりもはっきりと油分と旨みを味わうことができてそれは彼らの心と体に贅沢な潤いを与えた。堰を切ったように感嘆の言葉が次々と溢れ出た。
「うんま!」
「あああああ懐かしい!」
「やっべえうまい!」
「んんんんん!」
 次に彼らはガーリックライスを口にした。米の甘みが彼らの糖質不足を満たし、ガーリックの味の懐かしさがそこに加わり、具材を使わないシンプルさがかえって若者の嗜好を満たした。食欲のままにそれらを貪れば五分とかからずに食べ終えてしまう量だったため、彼らはそれをより長く味わうためにおしゃべりをしながら楽しんだ。料理を褒めたり、味の感想を言ったり、次は何を作るかといった話をしたりした。これから先の生活やお金の話はあえて避けた。悠樹と琢磨の確執もすっかり消えてなくなっていた。真琴は料理をして良かったと思った。食欲が満たされなかったり、栄養が不足したりすると心が乱れがちになることを真琴は経験から知っていた。
 これで楽しい食事が終わってしまう、そんな空気が流れたときに杏奈が得意そうに言った。
「実は……」
 みなが不思議そうに杏奈を見た。
「「?」」
 杏奈は弾けるような笑顔で言った。
「これで終わりではありません!」
 歓声が上がった。
「「ぉおお!」」
「なんと! このあと買ってきた小麦粉とバターと玉子と砂糖を使って私がクッキーを焼きます!」
「「ぅあおおおおおナイスぅぅう!」」
 五人は歓喜の声を上げ、彼らの気分の昂ぶりは頂点に達した。近所迷惑も先のことも度外視して五人は喜んだ。
 杏奈がクッキーを焼くのを待つ間真琴は風呂掃除をしながらまたこんな風にみなで料理をしたいと思った。次に作るとしたら長らく口にしていない魚介類を使った料理が最適だと思った。名前は忘れたが、魚にしかない栄養素もあったはずだ。しかし魚や肉はどうしても値が張る。おそらくそれはこの世界でも同じだ。そこへ来て突如として真琴はあるアイデアに思い当たった。



「魚釣ろう!」
 暖炉の様子を確かめていた悠樹のところへ突然真琴が来てそう言った。最初は真琴の言葉の意味がうまく掴めずに呆然とした悠樹だが、それがわかると急にそのアイデアの素晴らしさに目を輝かせた。
「…そうか!」
「だろ?」



 先ほどの食事から一時間もするとクッキーは焼き上がった。早く食べたいであろうみなのために生地を寝かせたり焼き上がったクッキーを冷やしたりする時間は大胆に省いた。慣れない材料や環境にやや苦労したものの、出来栄えは上々だった。もとの世界で作るものに比べれば形や見栄えは明らかに劣るが、お菓子自体を一週間口にしていない彼らにとってはご馳走そのものだった。皿には杏奈が取り分けた。型がない中で作ったため大きさが不揃いで、量はどうしても平等にはならなかった。彼女は「私はお腹いっぱいだから」と言って自分の分をみなより少なくしようとしたが、悠樹は作った人が多く食べるべきだと言って杏奈が一番多くなるよう取り分けさせた。すでにテーブルについていた琢磨は待ちきれない様子だった。その甘く香ばしい匂いを嗅いだだけでみな心を躍らせていた。
 食卓につくと先ほどと同じように手を合わせて同時にそれを口に入れた。その途端ほぼ同時に五人とも大げさに背もたれに体を預けて、恍惚とした表情を浮かべながら咀嚼をした。口に広がる風味は間違いなく長らく五人が求めていた親しみ深いものだった。
「死ぬ」
「うまい」
「やばい」
「…」
 焼き加減にはムラがあった。固いものもあれば中が柔らかいものもあった。固い物は「食べ応えがある」、柔らかいものは「ソフトクッキーみたいで食べやすい」と言ってみな杏奈の努力と気遣いと久しぶりの贅沢を賛美した。クッキーを食べながら真琴は先ほどのアイデアを口にした。
「俺思ったんだけどさ、釣りしない?」
 琢磨と杏奈はその唐突な提案について眉を顰めた。だがその素晴らしさに気付くと先ほどの悠樹と同じ反応をした。翔吾ははじめから真琴の言葉の意味を理解しているようで、その表情で賛同の意を示していた。真琴は補足した。
「森の枝の採取を禁止する法律はあっても釣りを禁止する法律はないと思うんだ。仮にあったとしても海の密漁とかを禁止するものであって川での釣りを禁止するものではないと思う」
 琢磨もそれに補足した。
「釣り竿や網があればあとはエサと練習だけ。エサもルアーみたいの自作すればそれで半永久的に釣れる」
 悠樹も付け加えた。
「いっそ釣るんじゃなくて罠でもいいかもな。サバイバルの動画とか好きでよく見るんだけど虫とか入れて置いとくだけでたくさん獲れるぜ。作るのも簡単だし」
 さらに琢磨は「でかい網で追い込む方法とかもあるよな。短時間で大量に獲れるぜ」と言った。杏奈は少し怪訝そうな顔をした。
「でも食べれない魚とかもいるよね」
 それには悠樹が答えた。
「そこも経験だよ。他に近くで釣りしてる人がいれば聞けばいいし、川で獲れる魚なんてそんなに種類いないんだから、やってくうちに食べれるかもどう食べればいいかもわかる」
 それを聞いて杏奈も納得したようだった。真琴はさらに提案した。
「釣りもいいけど家庭菜園って手もある」
 杏奈は目を輝かせた。
「そうか、なければ作ればいいんだ!」
 真琴は付け加えた。
「家庭菜園が法律に抵触する可能性もゼロだろ。こんだけ広い庭があるんだし、簡単な野菜ならけっこう育つぜ。二階のテラスも使える」
「楽しそう!」
 杏奈は節約よりも作業の楽しさに心を奪われているようだった。さらに悠樹は斜め上の案を提示した。
「牛を飼うってのはどう?」
 それにはさすがに琢磨が反対した。
「飼い方わかんねえだろ」
 だが悠樹はまだ諦めなかった。
「なんとかなるんじゃね? 毎日牛乳飲み放題だぜ?」
 杏奈はまったく別の角度でそれに反対した。
「ちゃんと飼えないとかわいそうだよ」
「そもそも高そうだしな」と真琴は言った。「でも鶏ならいけんじゃね?」
 悠樹はその案に飛びついた。
「それだわ」
 これには琢磨も喜んで賛同した。
「玉子食べ放題!」
 さらに真琴は付け加えた。
「全部食べないである程度は育てて食べてもいいしな」
 しかし生きた鶏を捌くところを想像して杏奈は苦い顔をした。
「あたし無理」
 これには悠樹がフォローした。
「大丈夫、そこは男が捌くから」
 それでも杏奈にはまだ懸念材料があった。
「でも近所迷惑じゃない?」
 しかし真琴は平気だった。
「いや、こんだけ広いんだからだいじょぶだろ。それに鶏飼ってる家この辺けっこうあるし」
 これには杏奈は驚いた。
「え、全然気付かなかった」
 そこで翔吾が話をまとめてみた。
「よし、じゃ当面は二つの班に分かれて行動しよう。釣りを中心とする班と家庭菜園と鶏の飼育を中心とする班」
 翔吾は杏奈に言った。
「杏奈は家庭菜園だな」
 杏奈も異論はないようだった。
「釣りの経験者は?」と翔吾が聞いた。
「はい」と琢磨が手を挙げた。他の三人は未経験だった。
「じゃ釣りは琢磨な」
 翔吾は「真琴は鶏頼む」と真琴に言った。真琴は頷いた。
「悠樹は病み上がりだから家庭菜園と鶏のフォロー。俺も実は釣り少しやったことあるから琢磨のサポートに入る」と翔吾は言った。そこへ来て悠樹が根本的な疑問に思い当たった。
「ってかそもそも釣り竿って買えんのか?」
 真琴はそれについて考えてみた。
「たしかに。素人が作れるもんでもないだろうし」
 琢磨は言った。
「じゃあ罠だな。罠なら簡単に作れる。網も高そうだし。罠しかない」
 翔吾はあらためてまとめた。
「よし、釣り班は罠の製作、家庭菜園班は畑と鳥小屋の製作からかな」
 やることが決まると迷いが晴れて心がすっきりした。ご馳走のおかげでやる気も漲った。五人はランプを消してからもたくさんのことを話し合った。



 翌日彼らはほとんど中を覗いたことのない納屋を見に行った。釣具や鳥小屋の製作に必要な道具が手に入るかもしれないと思ったためだ。かつて一度だけ覗いたことはあるが、その際にはクモの巣が多くホコリっぽくカビ臭いため中には踏み入ることは断念した。しかしそのとき材木や工具の類が置いてあったように見えた。その日意を決して奥に踏み入ってみると、薪と材木と庭作業用の道具や工具が置いてあった。しかし薪と材木は長い間放置されていたとみられ燃料や材料としてどの程度の使用に堪えうるかは怪しかった。庭道具や工具は柄の状態は良かったが、刃がすっかり錆びついていた。五人は話し合った結果、薪と材木はとりあえず試しに薪としてくべてみる、庭道具と工具は砥石を買って研いでみる、ただし安く買える工具があれば買い替えるという結論に達した。
 翔吾と真琴の二人は早速市場へ出かけた。その間悠樹は薪の火起こしの実験と鳥小屋建設予定地の草むしりをした。薪そのものには火が点かなかったが、枯草で炎を起こしてから薪をくべるとしっかりと燃料として機能した。心配していた暖炉もしっかり機能し、この街に来てから風呂にも入らず暖房にも当たっていない悠樹と杏奈と琢磨はその暖かさに心から感激し、市場に行った二人に報告することを楽しみにした。
 杏奈は先日作った洗剤でさらに風呂を掃除した。先日市場で買ってきた新しいブラシも試した。前は落ちなかった汚れまで綺麗に落ち、実はお金がない中で洗剤の材料やブラシを新調したことに罪悪感を覚えていた杏奈はそこから解放されてほっとした。同時に暖炉に続いて帰って来た二人を驚かせる話題ができたと杏奈は喜んだ。また、風呂が綺麗になれば風呂に入れるだけでなく、そこで毛布を洗うことができるため、風呂に入り衛生的な寝具と暖炉のついた暖かい部屋で眠るという人間的な生活が現実のものになりつつある実感を杏奈は得た。悠樹の草むしりも順調に終わった。途中で納屋にあった鎌を試したが、錆がひどくやはり力を入れないとどの草もまともに刈れなかった。
 市場に行った二人は渋い顔をして帰って来た。手にしていたのは食材の買い足しだけだった。
「どうだった?」と悠樹が聞くと「砥石は高くて買えなかった。釣り竿も」と真琴が答えた。
「でも金物屋の店主が砥石代わりに川や海に落ちてる石で刃を研ぐ方法を教えてくれた」と翔吾が言った。
「そんなんしてたら飢え死にしちまうだろ…」と琢磨がボヤいた。やや険悪になりつつある雰囲気を察した杏奈が「見て見て! 暖炉! 火がついたよ!」と明るく言った。見るとたしかに暖炉でほとんど炭になった薪がまだ赤く光っていた。煙も家には充満しておらず、暖炉と煙突が機能していることがわかった。
「お風呂も綺麗になったんだよ!」と杏奈は言った。
「おおおこれで風呂に入れる」と琢磨は痛み入るように喜んだ。一週間ぶりの風呂だった。薪も減るしシャンプーもボディーソープもないが、風呂に入ることにみな異論はなかった。「布団も洗える」と悠樹が言った。
「鳥小屋はまだ時間がかかるけど、確実に前に進んでる」と真琴は力強く言った。
 ただ問題は進んでいる途上で資金が尽きてどこにも辿り着けないという状況に陥りかねない危うさがあることだった。五人は前進している実感と先の見えない不安がせめぎ合う心理状態を抱えたまま、それを口に出さないことを暗黙の了解としていた。


 
 風呂のかまどが使えるかどうかまだ試していないので、それは翌日の課題として残された。寝具の丸洗いも昼を過ぎてからでは乾かないという理由で翌日へと持ち越しになった。その後、琢磨と翔吾は川を下見しに出かけた。真琴はトイレ掃除、杏奈は台所の掃除をした。日が落ちる前に帰って来た琢磨と翔吾は有力な情報を仕入れていた。それによると、市街地を流れる川では食べられるまともな魚は釣れないが、街外れの川はどれも水が綺麗で食べられる魚もよく釣れるとのことだった。実際に釣りをしている人も多く、市民権があろうとなかろうと釣りを制限する法律は特にないらしい。場所も外出の申請は特段必要がないとのことだ。その日は時間がないため川は実際に見ないで帰って来たが、明日早速下見をすると琢磨は言った。
 その日は暖炉に火をつけ薪をくべて寝てみた。薪がもったいないので火は強くしなかったが、それでも充分な暖かさと安らぎを五人に与えた。暖炉に当たって寝ることに慣れていないため五人はいつもより寝付くのが少し遅かったが、それを補って余りあるほど深く眠ることができた。



 翌日、琢磨と翔吾は川の下見に出かけた。どれほどの行程になるかわからないため早くから家を出た。怠け者の琢磨も釣りのことになるとやる気を起こすらしく文句も言わずに早起きした。真琴は風呂のかまどの点検をした。試しに火を点けてみると暖炉同様に正常に機能し風呂の湯を沸かすことができた。そのとき何気なく納屋を覗いた真琴は棚の奥に偶然砥石を見つけた。そのあと真琴は二階のトイレの掃除をする予定だったが、急遽変更して鋸を研いだ。しかし錆でぼろぼろの鋸を研ぐのには非常に難儀した。錆による凹凸が激しく、はじめは砥石の上をすべらせることさえ難しかった。しかし昼を過ぎた頃にだんだんと滑らかに砥石の上をすべるようになった。金属の輝きも蘇り、刃の切れ味も戻ったように見えた。試しに薪を切ってみると、力は要るが充分使用に堪えうる切れ味を見せた。刃先に砥石をかけるとさらに切れ味は増した。深い錆は取れなかったが、使用には問題ないと判断して鋸はそこで切り上げた。鎌も砥ぎたかったが、その前に夕闇が迫ってきた。
 杏奈と悠樹は家中の寝具とカーペットとカーテンの半分を風呂場で手洗いし、バルコニーの手すりや二階のベランダに干した。こちらも約一日がかりの大変な作業だった。一日かけても布団は乾かなかったため、夜は階段の手すりに干した。
 夕方になると川の下見と買い物を終えた琢磨と翔吾が帰って来た。二人によると川は思ったよりも広く綺麗で、釣りをする人も泳ぐ魚もいたとのことだ。その日の五人の成果は上々で、みな確実に状況が良くなっているという手応えの中で眠りに就いた。



 翌日琢磨と翔吾は市場に材木と金具と食材を買いに出かけた。真琴は鎌を砥いだ。杏奈と悠樹は残りのカーペットとカーテンと寝具の丸洗いをした。
 市場から帰って来ると琢磨は昨日真琴が砥いだ鋸で罠を作り始めた。翔吾は二階のトイレの掃除をした。鎌も一日かけて砥いだ結果、ほとんど力を入れなくても草を刈り取れるようになった。罠はその日のうちには完成しなかったが、だいたいの形にはなった。



 その翌朝、琢磨は罠の仕上げに入った。真琴は鎌で庭の草を刈った。悠樹は暖炉の掃除をした。杏奈と翔吾は部屋の隅々の掃除をした。
 午後になると罠はいよいよ完成した。琢磨と翔吾はそれを持って川へ出かけた。真琴と悠樹は入れ替わるように鳥小屋の製作を始めた。杏奈はみなのために風呂を沸かし、簡単な料理を作った。
 夕方になると川へ行った二人が帰って来た。釣果はゼロだったが、二人は川で木の枝を大量に拾って来ていた。私有地で木の枝を拾うのは犯罪に当たると以前聞いたが、川は私有地ではないだろうとの判断からだった。
 その日は食事を摂ったあと一人ずつ風呂へ入った。杏奈は「誰か先に入って」と言ったが、みなは一番風呂を杏奈に譲った。湯の加減は真琴が管理した。約十日ぶりの風呂をみな喜んだ。シャンプーもボディーソープもなかったが、湯を浴びるだけで生き返る心地がした。
 風呂から出ると洗いたての清潔な毛布と枕が五人を待っていた。枕を使って寝るのは「ムーングロウ」に来て以来初めてだった。話したいことはみなたくさんあったが、布団に潜りこむと気持ちよくてすぐに眠ってしまった。



 翌日、真琴は鳥小屋造りの続きをした。琢磨と翔吾は川に罠を設置しに行った。杏奈は庭の草を刈った。魚はその日も獲れなかった。鳥小屋はほとんど完成した。その日は市場には行かず、残り物を食べた。初日に市場で買った食べ物はもうほとんどなくなった。



 翌日、昼に鳥小屋は完成した。昼に川から帰って来た琢磨と翔吾は誇らしげだった。琢磨の抱えていた罠にはナマズが入っていたのだ。釣りをしている他の人に聞いたところ、野菜と一緒に煮込んで香辛料を加えれば臭みが消えておいしく食べられるとのことだ。
 真琴と杏奈は早速市場に買い出しに行った。悠樹はそのあと草刈り、琢磨は余った材木を使って二つ目の罠作りを始めた。翔吾は二階の一部で雨漏りが起きていることをかねてから問題視しており、その日から屋根の補修を始めた。
 市場に着いた二人はまず野菜を調達した。香味の強いネギや青菜を選んだ。財布を開けた真琴は中身がついに一万ルクを切ったことを知った。そのあと鶏を買う予定だった二人は鶏が一万ルクで買えるかどうか急に不安になった。二人は市場で近くの畜産農家の場所を教えてもらった。
 農家へ行くと果たして鶏一羽はオスは六千ルク、メスは一万二千ルクだった。真琴と杏奈は閉口した。二人を気の毒に思った主人はメスのひよこなら一羽タダ同然の値段で譲っても良いと言ってくれた。育てるのに時間はかかるが、育てば卵を産んでくれるとのことだった。しかし無論途中で死んでしまえば意味がない。二人だけで結論を出せないと判断し、二人は一旦失意の中で農場をあとにした。
 家に帰って来た二人は鶏が意外に高くて買えなかったことを三人に報告した。五人はひよこを育てることも検討したが、エサ代がかかること、途中で死んでしまえば意味がないこと、そもそもひよこが大きくなるまで資金がもちそうにないことが大きなネックとなることを挙げ、鶏の飼育は諦めることになった。せっかくの鶏小屋は無駄になってしまった。そうでなくても資金はついに一万ルクを割り、食料も穀物や調味料を除けば底をついていた。
 スレッダにもう一度資金の提供を頼もうという意見が出た。頼んでも今回は無理だという反論が出た。家具を売ろうという意見が出た。人の物を売れないという反論が出た。また、売れるとしてどうやって街まで運ぶかという疑問が出た。みなこれからの自分たちの生活に不安を感じていた。
 とりあえずナマズを調理して食べようと杏奈が言った。数日ぶりに魚が食べられることに喜びを覚えた五人だが、それが最後のまともな食事になるかもしれないと思うと素直に心から喜ぶことはできなかった。たった一匹のナマズは五人の腹を満たさなかった。身はほとんど食べられず、アラをスープの出汁として活用して旨味を味わった。
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