こころのみちしるべ

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ルクレティウス編

070.『重さ』1

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 二人は耳を疑い呆然とした。真琴はスレッダの脇を素早くすり抜けて翔吾に駆け寄った。彼の顔には何か鋭利な刃物を刺されたように鼻のあたりから顔の奥に向かって深い刺し傷が開いていた。胴からも夥しい量の血がこぼれていた。それはちょうど傷が奥深くまで達していれば心臓に損傷を与えたであろう位置だった。
 真琴は翔吾の脈をとった。彼の手首には生きているような温かみはないが、それが死によるものか、夜の冷たい地面に横たわっていたことによるものか判然としなかった。どう探しても脈は見当たらなかった。真琴は翔吾の胸に耳をつけた。血で顔の横が濡れる感触があった。心音は真琴の耳には届かなかった。真琴は十秒ほどそれを続けたのちに呆然とした顔を上げた。彼は息をしていれば上下に動いているはずの翔吾の胸を見たがそれはどれだけ見ても止まったままだった。真琴のその様子を見て悠樹も翔吾が死んだことを悟った。
「てめえこの野郎!」
 悠樹がゲレーロに掴みかかった。ゲレーロは思わぬ不意打ちに体勢を大きく崩したが、力で勝る彼は悠樹を何とか払い除けた。バランスを失い地面に尻餅をついた悠樹はそれでも怒りが収まらなかった。それをスレッダが止めた。
「やめろ悠樹!」
 悠樹の怒りはスレッダにも向いた。
「何でさっきから止めんだよ!」
 もはや相手が恩人であることも忘れて悠樹は怒鳴っていた。スレッダは諭した。
「こいつが犯人かどうかまだわからない」
 これには真琴も驚いた。
「は!?」
 悠樹は立ち上がりゲレーロを指差した。
「どう考えてもこいつでしょ!? 血が付いてるじゃないですか!」
「俺もそう思った!」
 勢いスレッダも怒鳴ってしまっていた。だがそのあとは声のトーンを落とした。
「だがこいつの剣には血が付いていなかった」
 悠樹は意外な言葉に唖然とした。だが彼はそれでもゲレーロが犯人であることを疑わなかった。
「部下の剣じゃないですか!?」
「それも調べた」
「立ち去った部下がいるんでしょ!? 凶器隠す方法なんていくらでもありますよ!」
「おそらくルクレティウス兵の剣じゃない」
 スレッダの重みのあるその言葉を聞いて悠樹は言葉を失った。
「戦場で死体なんていくらでも見てきた。これはルクレティウスの兵の剣の刺し傷じゃない。おそらくアーケルシア兵でもない。もっと薄い刃によるものだ」
 悠樹は何も言い返せずにいた。
「それにゲレーロを見ろ。アイツも怪我を負ってる。多分翔吾にやられた怪我だ」
 たしかに暗くてよくわからなかったが、ゲレーロの頬や額、腕には多くの傷があり、彼の体に付着する血液はそこから出たもののようだった。おそらく返り血は浴びていないのだろう。
「お前らがこいつを疑う理由ももっともだ。こいつを嫌う理由も知ってる。俺もこいつが正直嫌いだ。でも多分、この事件の犯人じゃない」
 スレッダは強く言い聞かせるようにそう諭した。悠樹が冷静さを失っているのを客観的に見ていた真琴は悠樹に比べるといくらか冷静でいることができた。
「でも、だとしたらこいつは重要な参考人であり容疑者ですよね?」
 スレッダは真琴を見た。真琴も怒りに手と声を震わせていた。スレッダは目を落としながら答えた。
「ああそうだ。こいつには話を聞く」
「俺に聞かせてください!」
 真琴が強く嘆願した。しかしスレッダは冷淡にそれを拒否した。
「悪いがお前らは兵士でもなければ市民ですらない」
 真琴は食い下がった。
「でも翔吾の親友です!」
 噛んで含めるようにスレッダは言った。
「いいからプロに任せろ」
 スレッダへの嘆願を諦めた真琴は直接本人に言葉をぶつけた。
「おいてめえ何とか言えよ!」
 ゲレーロはまだ呆然とする顔を、しかし真琴の怒気に触れていくらか敵愾心を取り戻しながらそちらに向けた。真琴はその顔にさらに言葉を浴びせた。
「てめえが犯人じゃねえなら犯人の顔ぐらい見てんだろ!」
 しかしゲレーロは真琴をじっと見たまま何も答えなかった。この期に及んで質問に答えもしないゲレーロに真琴はさらに怒りを募らせた。今度は悠樹が叫んだ。
「何とか言えよてめえ!」
 ゲレーロはようやく重い口を開いた。それはフラマリオンで初めて会ったときの傲岸不遜な彼の声とは対照的な低く重く悄然とした声だった。
「何も言えねえ」
 真琴は怒りを通り越して呆れた。
「は? てめえふざけてんのか」
 しかしゲレーロの調子は変わらなかった。
「この件には関わるな」
 真琴はゲレーロの言葉の意味と意図が理解できなかった。あるいは聞き間違いかとさえ思った。ゲレーロは再びぽつりと言った。
「お前らのためだ」
 ゲレーロの話があまりにも突飛であり、あまりにもこちらの話と噛み合わないため、真琴も悠樹も怒りのやり場とぶつける言葉を失ってしまった。
「スレッダさん、遅くなりました」
 そう言ってスレッダの部下であろう兵士が数名現れた。それを潮にスレッダはゲレーロを連れて歩き出した。部下たちは翔吾を布で覆った。
「こいつは騎士団庁舎で聴取する。遺体は中央病院に安置される。お前らは家に帰れ」
 スレッダが振り向きながら真琴と悠樹にそう言った。ゲレーロにまだ言い足りない二人は、しかしそれ以上の問答が無駄なことも頭のどこかで理解していた。スレッダに問うべき言葉も見当たらなかった。
「あとで様子を見に行く」
 スレッダは二人を不憫に思ったのかそう付け加えた。二人は去って行くゲレーロの背中を見て、次に布で覆われて台車に乗せられる翔吾に視線を移した。遺体と重要参考人が去ると途端に人だかりは三々五々と散って行った。事件のためか周囲の店にももうほとんど客の姿はなく、灯りを消して店じまいをするところも多かった。人いきれは嘘のように消え二人は冬の夜の本来の寒さと静けさにさらされた。動悸と呼吸が落ち着いてからも二人はただ何もできずに翔吾の残した血だまりの脇に立ち尽くしていた。



 悄然とした二人が家に帰るとすでに杏奈と琢磨は眠っていた。二人は少し迷ったが杏奈と琢磨を起こし、その日見たこと、聞いたことを順序立てて話した。琢磨は最初信じなかったが二人の憔悴し切った表情が崩れないのを見ると少しずつ困惑と悲しみを体中に滲ませた。杏奈は対照的にあっさりと二人の言葉を信じた。彼女は終始冷静だった。真琴は人間らしい反応を見せる琢磨よりも冷静な杏奈の方がむしろ心配になった。杏奈は翔吾に会いたいと言った。だがこんな事件があったあとでは危険だから明るくなるまで待ってから四人全員で出かけようということになった。四人は床に就いたが琢磨以外は一睡もできなかった。他の三人は互いが眠れずに起きていることを知っていたが、一言も発しなかった。翌朝四人は簡単に朝食を済ませると工具を護身の武器の代わりにそれぞれの鞄に忍ばせて家を出た。
 スレッダの言った通り遺体は中央病院に安置されていた。それは悠樹が入院した病院だったため、四人は迷わず辿り着くことができた。彼らはほとんど口を利くことができなかった。受付の女性はこれ以上ないくらいに面倒臭そうに四人を扱った。たしかに彼女は忙しそうだったが、それにしても友人を亡くした人に対する気遣いが欠落しすぎているように思えた。おそらくこの手の「面会」は日常茶飯事で慣れてしまっているのだろうと四人は思った。結局四人が霊安室に案内してもらえたのは受付の女性に声を掛けてから一時間半後のことだった。
 翔吾の遺体は他の遺体と一緒に台の上に並べられていた。洗浄も死に化粧も施されていなかったため昨晩真琴と悠樹が見たときとほとんどそのままだった。昨晩は暗くて気付かなかったが、傷が顔の真ん中にあるために、翔吾の片方の眼球は陥没してしまっていた。四人は翔吾の遺体を目の前にしてもほとんど言葉を発しなかった。琢磨は慄いていた。
「翔吾、ごめんな」と真琴が絞り出すように言った。その言葉のネガティブな響きを打ち消すように悠樹が「ありがとう翔吾」と言った。
「必ず元の世界に戻るからね、見守っててね翔吾くん」と杏奈が言った。琢磨は最後まで別れを告げられずにいた。



 病院を出ると四人はその足でスレッダに会うため騎士団庁舎へ向かった。真琴は途中でゲレーロに出くわすことがあったら悠樹をどう抑えようかと思考を巡らせたが、よく考えれば捕縛され取り調べを受けているはずのゲレーロと出くわす確率は低かった。四人はスレッダに会いに来た旨を受付の男に伝えると、彼は先ほどの病院の受付の女性とは対照的に非常に親切に接してくれた。スレッダからも五人のことは受付に伝わっているようだった。
「よく来たな」
 そう言ってスレッダは執務室に来た四人を迎えた。
「色々とご面倒をおかけしました」と悠樹が挨拶した。彼の顔にはすでにゲレーロへの怒りが滲んでいて、真琴を不安にさせた。
「こちらこそ不手際ですまない」
 スレッダは武人らしく謝意を示した。悠樹が早速尋ねた。
「ゲレーロの取り調べの具合はどうですか?」
 真琴は悠樹を止めるタイミングを見計らった。スレッダは特に気にする様子もなく答えた。
「部下が聴取を行っている。結果はまだ出てない。ヤツは犯行自体は否認してるが、それ以外のことは黙秘してる。ただ昨日も言ったが状況を見るとヤツは多分犯人じゃない」
「俺に取り調べさせてもらえませんか?」
 悠樹がそう言った。他の三人は驚いて悠樹を見た。そのうちさすがにスレッダも怒るのではないかと真琴は心配したが、スレッダは淡々と答えた。
「無理だ。まず素人に務まる仕事じゃない。それにお前が望んでいるのはゲレーロへの復讐だろ? フラマリオンであったことについては別途責任を取らせる。しかしさっきも言ったが今回の件ではアイツは多分犯人じゃない。犯人じゃないアイツに対してお前が復讐を果たすのを是認するわけにはいかない」
 悠樹の顔は憎しみに歪んだ。スレッダはなだめるように言った。
「アイツからは必ず真相を聞く。それは約束する。プロに任せろ」
 それでも悠樹の怒りは収まらなかった。
「ならどうしてスレッダさんが直接取り調べをしないんですか?」
「おい悠樹!」
 さすがに口が過ぎると思って真琴が彼を諫めた。スレッダは特に気にした様子もなく淡々と答えた。
「まず取り調べは俺の職分じゃない。部下の仕事だ。俺には他に仕事があるし、部下の仕事を奪うのは最低の上司だ。だが同時に部下の仕事に責任を負うのが俺の役目であることもまた事実だ。部下の仕事に不手際がないようしっかりと目を配ることは約束するし、万が一そうなれば俺が直にゲレーロの取り調べを行うことも検討しよう」
 悠樹はそれ以上何も言わなかった。彼はただ真っ直ぐスレッダを見ていた。真琴は命の恩人であるスレッダに対し悠樹が失礼を言ったためスレッダへの感謝をあらためて示すことにした。
「スレッダさん、この世界に来てからここまでのすべての施しに感謝しています」
 スレッダは真琴の意図を理解して少し笑った。
「気にするな」
「翔吾くんはこれからどうなるんですか?」
 杏奈がそう聞いた。
「埋める。費用は本来国がもつが残念ながらお前らは国民じゃないから費用は俺がもつ」
 真琴は申し訳なさそうに頭を下げた。
「何から何まですみません」
 スレッダは言った。
「帰って少し休め。あとのことは心配するな。何かあったらまたこちらから伝えに行く」
 それを聞く頃には悠樹の怒りもだいぶ収まっていた。四人はよく礼を言ってその場を辞した。帰ると四人は食事を摂る者、寝る者、家事をする者、ぼうっと考え事をする者と四者四様の行動をとった。昨晩あまり寝ていなかったため夜には杏奈と琢磨はよく眠った。悠樹と真琴はその晩もあまり眠れなかったが、さすがに疲れたためか朝方に二人とも三時間ほど睡眠をとることができた。
 翌朝、その日のうちに埋葬が行われることをスレッダが伝えに来た。何の気力も起きずに掃除も作業もしていなかった四人はスレッダが来ると支度もそこそこに家を出た。葬儀場はルクレティウスの北部の壁外にあったため、スレッダを合わせた五人は馬車に乗って二時間以上かけて移動した。馬車には翔吾の遺体も袋に詰められて乗せられていた。葬儀には五人の他に参列者はなく、葬儀を執り行う僧侶のような身なりの人物が一名立ち会うばかりであった。葬儀の内容も非常に簡素で、装飾もない墓所で淡々と執り行われた。翔吾の眠る棺にも装飾の類は一切なく、それは棺というよりも塗装もニス塗りもない大きな薄い木箱だった。一日ぶりに対面した翔吾の遺体は最低限の洗浄がしてあったが、衣服は翔吾が着ていたそのままだったため派手に赤黒く汚れていた。棺を埋める前に僧侶はこんなことを唱えた。
「この者の悲しみの輪廻に終わりがありますように」
 なぜか真琴はその言葉に聞き覚えがあるような気がした。あまりにも短かったため、それが死者への弔いの言葉だということに遅れて四人は気付いた。棺が締められ、それが土中に降ろされると翔吾に本当に二度と会えないのだと四人はあらためて実感した。土をかけられる棺に向かって四人はそれぞれ次のように思った。真琴は「俺のせいで済まない」と。悠樹は「仇は必ず討つ」と。杏奈は「ありがとう、安らかに」と。琢磨は「見守っていてくれ」と。
 棺が土中に収まると四人は無言でそれに土をかけた。もう日がだいぶ傾いて彼らと十字架の影を地面に長く伸ばした。大きな穴が埋まり地面が平らに均されると、翔吾の墓に立つ十字架も個性を失い北壁沿いに連綿と続く墓地に立ち並ぶ無数の十字架と一つも変わるところがなくなった。寂寥とした墓地の果てを見る目を西日に細めた真琴の胸の穴を風が吹き抜け、背後の木々をざわざわと揺らした。
「暗くなる前に帰ろう」
 スレッダのその一言で葬儀は終わり、五人は馬車に乗り込んだ。



 その晩は少し豪華な食事を摂ろうと琢磨が提案した。悠樹と真琴は気乗りしなかったが、杏奈は琢磨に賛成した。
「こんなときこそ栄養つけなきゃだめだよ。昨日からあんまり食べてないし。日本でもお葬式のあとはお寿司とか食べるでしょ?」
 杏奈の言葉には説得力と四人が失っていた前向きさがあるように感じられ、悠樹と真琴もそれに従うことにした。食事中に杏奈が言った。
「ちゃんと食べないと翔吾くんも心配するよ」
 その晩杏奈は食べたものを入浴後にすべて嘔吐した。杏奈は自身の吐瀉物を自身で片づけようとしたが、気持ち悪さのせいか体に力が入らないらしく、体を支えるのが精一杯だった。真琴は彼女の吐瀉物を片づけ、悠樹は杏奈に布をかけて彼女の体が冷えるのを防いだ。彼女は二人に何か言おうとした。おそらく「ごめん」か「ありがとう」を言おうとしたのだろうが、その言葉を発することさえ彼女にはできなかった。
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