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末は博士か花嫁か ~四幕~
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翌日は、夜間の雨が嘘のように晴れ渡った晴天。
だが冷たい雨に打たれた黎華は風邪を引いてしまったらしく乾いた咳を繰り返しており、体温も高い。
濡れた着物もまだ乾いていないし、とにかく家人に連絡するべく早蕨教授は桐生家に使いを走らせた。
折り返し、人力車に乗った勢津子が早蕨邸に駆けつける。
「お嬢様!」
彼女は客間に通されるや、ベッドで休んでいる黎華の元に駆け寄った。
「軽い風邪ですよ。何も心配ありません」
傍らから早蕨が安心させるように優しい声で告げる。
帝都医大学の教授で医師でもある彼の言葉に、勢津子はホッと息をついた。
「……ごめんなさい。たいした事は無いのよ」
「謝るなら私ではなく旦那様にですよ。昨夜は心配なさって一睡もしてらっしゃらないのですからね」
叔父は無口な方だが、たった一人の姪を大切に思っている事は黎華自身よく知っている。
一晩経って少し落ち着いた今は、まるで子供のように感情だけで行動してしまった事を反省していた。
ずっと付き添ってくれていた誠にも、もはや視線を向ける事すら恥ずかしくてできない。
「ところで、これからどうしますか?何かの縁ですし、このまま当家で養生なさってもかまいませんが?」
「――― いえ、とんでもありません」
早蕨の申し出を黎華は断った。
これ以上、誠の近くにいたら、余計に辛くなってしまう。
「ご迷惑をかけるわけにはゆきませんから…。ばあや、着替えを持って来てくれましたか?」
「ええ、ここに」
勢津子は抱えていた布包みを差し出す。特に言い付けたわけではなかったが、この乳母はとてもよく気が回る。こんな事もあろうかと、着物を用意して来てくれていた。
誠は廊下に一人佇みながら、己の無力さを呪う。
親友が病に斃れた時も、何ひとつできず悔し涙を流したのに。
今また、好きになった女に何の助力もしてやれない。
本当に駆け落ちをしてしまえたら、どんなに良いか。
自分一人なら、人足でも靴磨きでも何でもして生きてゆける。
しかし黎華を幸せにするには、それだけでは足りない。
元華族の令嬢に労働などさせるわけにはゆかないし、ましてやその日暮らしの貧乏生活に貶めるなどもっての他だ。
結局、すべては金が物を言うのか。
無意識に握り締めた拳が震える。
客間と廊下を隔てる壁が、二人を遮っているかのようだ。
時にドアが開いても、繋がる事はありえない。
誠の思考を具現するようにドアが開き、勢津子に手を引かれて黎華が現れる。
微熱のせいで、わずかに潤んだ瞳が誠を見た。
一瞬、二人の目と目が合う。
まるで視線が結びついたように、互いに逸らせなかった。
その様子を見て、勢津子は確信する。黎華が最近、毎日のように出かけていたのは、彼に会っていたのだと。
――― 彼と恋をしているのだと。
だからこそあんなに縁談を嫌がり、夜間に屋敷を飛び出すという若い娘らしからぬ行動に至った事も納得できる。
長い間、家族同然に過ごした勢津子には、黎華が無理に感情を殺している事が手に取るようにわかったが、彼女にもどうしようも無かった。
玄関先には、乗って来た人力車が待たせてある。
勢津子は主に成り代わり、早蕨教授に深々と頭を下げた。
「いろいろ、お世話になりました。お礼は後日、改めて」
「お気になさらず。症状が長引くようなら、いつでも伺いますよ。お大事になさって下さい」
「……ありがとうございます」
細やかに配慮してくれる早蕨に、黎華も礼を述べる。
しかし傍らに立つ誠とは、ついに言葉をかわさなかった。
黎華たちの乗った人力車が館の敷地を出ると、早蕨教授は誠に問いかける。
「良いのですか?誠君」
「……何がですか」
「あのお嬢さんの事ですよ。可哀相に、泣きはらした目をしていたじゃありませんか」
この聡明な紳士は、何もかもお見通しらしかった。
「何があったか知りませんが、助けてあげないのですか?」
「オレに……何ができるって言うんです」
攫って逃げる事も、守って戦う事もできないのに。
「彼女は良い家のお嬢さんで、オレは無力な苦学生ですよ。何もできやしません…」
誠は目に見えて沈み込んでいる。常に上昇志向で努力家の彼とは思えぬ有様だった。
早蕨は上品な口髭を撫ぜながら誠を見る。
そして、一言だけ呟いた。
「誠君。『何もできない』と、『何もしない』とは違いますよ」
そのまま、早蕨は館に入ってゆく。
師の言葉は、誠の胸に深く突き刺さっていた。
人力車が桐生家の門前に到着すると、気配を聞きつけた健之助が出迎える。
「…ただいま帰りました、叔父上」
「大丈夫か」
「少し風邪を引いただけです。……昨夜はすみませんでした」
「いいから、早く休め」
健之助は黎華が無断で家を飛び出し、外泊した事を咎めない。
それよりも体調を案じているのは、やはり姪が可愛いからだろう。
――― 彼とて、望まぬ縁談を押し付けるのは本意ではないはずだ。
叔父の心境も考えずに飛び出した自分はやはり子供じみていたと黎華は反省する。
姪を寝床につかせ、健之助はようやく一息ついた。
歳の割には大人びて、冷静な姪に限ってとは思っていたが、万が一妙な考えを起こしでもしたらと、気が気では無かったのだ。
無事に戻って来てくれただけで、心底から安堵する。
黒木中佐との縁談に関しては、黎華が回復するまで触れずにおく事にした。
だが冷たい雨に打たれた黎華は風邪を引いてしまったらしく乾いた咳を繰り返しており、体温も高い。
濡れた着物もまだ乾いていないし、とにかく家人に連絡するべく早蕨教授は桐生家に使いを走らせた。
折り返し、人力車に乗った勢津子が早蕨邸に駆けつける。
「お嬢様!」
彼女は客間に通されるや、ベッドで休んでいる黎華の元に駆け寄った。
「軽い風邪ですよ。何も心配ありません」
傍らから早蕨が安心させるように優しい声で告げる。
帝都医大学の教授で医師でもある彼の言葉に、勢津子はホッと息をついた。
「……ごめんなさい。たいした事は無いのよ」
「謝るなら私ではなく旦那様にですよ。昨夜は心配なさって一睡もしてらっしゃらないのですからね」
叔父は無口な方だが、たった一人の姪を大切に思っている事は黎華自身よく知っている。
一晩経って少し落ち着いた今は、まるで子供のように感情だけで行動してしまった事を反省していた。
ずっと付き添ってくれていた誠にも、もはや視線を向ける事すら恥ずかしくてできない。
「ところで、これからどうしますか?何かの縁ですし、このまま当家で養生なさってもかまいませんが?」
「――― いえ、とんでもありません」
早蕨の申し出を黎華は断った。
これ以上、誠の近くにいたら、余計に辛くなってしまう。
「ご迷惑をかけるわけにはゆきませんから…。ばあや、着替えを持って来てくれましたか?」
「ええ、ここに」
勢津子は抱えていた布包みを差し出す。特に言い付けたわけではなかったが、この乳母はとてもよく気が回る。こんな事もあろうかと、着物を用意して来てくれていた。
誠は廊下に一人佇みながら、己の無力さを呪う。
親友が病に斃れた時も、何ひとつできず悔し涙を流したのに。
今また、好きになった女に何の助力もしてやれない。
本当に駆け落ちをしてしまえたら、どんなに良いか。
自分一人なら、人足でも靴磨きでも何でもして生きてゆける。
しかし黎華を幸せにするには、それだけでは足りない。
元華族の令嬢に労働などさせるわけにはゆかないし、ましてやその日暮らしの貧乏生活に貶めるなどもっての他だ。
結局、すべては金が物を言うのか。
無意識に握り締めた拳が震える。
客間と廊下を隔てる壁が、二人を遮っているかのようだ。
時にドアが開いても、繋がる事はありえない。
誠の思考を具現するようにドアが開き、勢津子に手を引かれて黎華が現れる。
微熱のせいで、わずかに潤んだ瞳が誠を見た。
一瞬、二人の目と目が合う。
まるで視線が結びついたように、互いに逸らせなかった。
その様子を見て、勢津子は確信する。黎華が最近、毎日のように出かけていたのは、彼に会っていたのだと。
――― 彼と恋をしているのだと。
だからこそあんなに縁談を嫌がり、夜間に屋敷を飛び出すという若い娘らしからぬ行動に至った事も納得できる。
長い間、家族同然に過ごした勢津子には、黎華が無理に感情を殺している事が手に取るようにわかったが、彼女にもどうしようも無かった。
玄関先には、乗って来た人力車が待たせてある。
勢津子は主に成り代わり、早蕨教授に深々と頭を下げた。
「いろいろ、お世話になりました。お礼は後日、改めて」
「お気になさらず。症状が長引くようなら、いつでも伺いますよ。お大事になさって下さい」
「……ありがとうございます」
細やかに配慮してくれる早蕨に、黎華も礼を述べる。
しかし傍らに立つ誠とは、ついに言葉をかわさなかった。
黎華たちの乗った人力車が館の敷地を出ると、早蕨教授は誠に問いかける。
「良いのですか?誠君」
「……何がですか」
「あのお嬢さんの事ですよ。可哀相に、泣きはらした目をしていたじゃありませんか」
この聡明な紳士は、何もかもお見通しらしかった。
「何があったか知りませんが、助けてあげないのですか?」
「オレに……何ができるって言うんです」
攫って逃げる事も、守って戦う事もできないのに。
「彼女は良い家のお嬢さんで、オレは無力な苦学生ですよ。何もできやしません…」
誠は目に見えて沈み込んでいる。常に上昇志向で努力家の彼とは思えぬ有様だった。
早蕨は上品な口髭を撫ぜながら誠を見る。
そして、一言だけ呟いた。
「誠君。『何もできない』と、『何もしない』とは違いますよ」
そのまま、早蕨は館に入ってゆく。
師の言葉は、誠の胸に深く突き刺さっていた。
人力車が桐生家の門前に到着すると、気配を聞きつけた健之助が出迎える。
「…ただいま帰りました、叔父上」
「大丈夫か」
「少し風邪を引いただけです。……昨夜はすみませんでした」
「いいから、早く休め」
健之助は黎華が無断で家を飛び出し、外泊した事を咎めない。
それよりも体調を案じているのは、やはり姪が可愛いからだろう。
――― 彼とて、望まぬ縁談を押し付けるのは本意ではないはずだ。
叔父の心境も考えずに飛び出した自分はやはり子供じみていたと黎華は反省する。
姪を寝床につかせ、健之助はようやく一息ついた。
歳の割には大人びて、冷静な姪に限ってとは思っていたが、万が一妙な考えを起こしでもしたらと、気が気では無かったのだ。
無事に戻って来てくれただけで、心底から安堵する。
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