回想録

高端麻羽

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~ある人の失踪~

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トン トン トン トン……

階段を昇る軽快な足音で、シャーロットは目を覚ました。
既に陽は高く、時計の針は午後を指しているのに、頭が妙に重くて意識がはっきりしない。
 どうしたのだろう?
 昨夜は確か、フォスター男爵邸で………
(!!)
ようやく記憶が蘇り、シャーロットは飛び起きた。
そこは自室のベッドの上。
思わず衣服を確認するが、襟元が少し緩んでいる以外、乱れは無い。
悪夢のような昨夜の出来事を思い出す。

気付いてしまった事実、罪を認めたジョンソン。
怒りと悲しみがシャーロットの胸をしめつける。
だがフォスター邸で失神し(させられ)た自分が、なぜ下宿で眠っていたのだろう。
 ――― ジョンソンが運んだのか?
その時、部屋の外に人が通る気配を感じた。
「ジョンソン!?」
シャーロットは思わず呼びかける。
しかしドアを開けたのは見慣れた優し気な容姿の小柄な女性。
「シャーロットさん、起きたの?」
「……ハドスン夫人」
夫人はいつもと変わらぬ穏やかな笑顔を浮かべ、室内に入る。
「いつも早起きの貴方が、なかなか起きないから心配していたのよ。疲れているようだから寝かせておくようジョンソン先生に言われたけど」
「!!」
『ジョンソン』の名前に、シャーロットは激しく反応する。
「お腹すいてるでしょう、お食事は下のダイニングルームで摂る?それともここで…」
「ジョンソンは!?」
シャーロットは夫人の声を遮り、ジョンソンの所在を訊ねた。
彼女らしからぬ剣幕に目を丸くしながらも、ハドソン夫人は答える。
「ジョンソン先生なら、今朝早くに出かけられたわ」
「どこへ!?」
「いつもの往診ではないの?行き先までは聞いてないし…」
シャーロットは愕然とした。
正体を知られた盗賊がいつまでも同じ場所に居るわけが無い。
ましてや、警察と密接な関係を有する探偵のそばに残る方がおかしい。
次の瞬間、彼女は身を翻してベッドから飛び出た。
ハドスン夫人の横を擦り抜け、ジョンソンの部屋へ駆け込む。

ジョンソンの部屋は綺麗に片付いており、何の異変も感じられない。
元から付いていた家具、ランプ、カーテンの幅、すべてが入居した当初と同じ印象を受ける。
消えたのはジョンソン自身と、彼の医療用カバン、そして愛用していたコートだけ。
シャーロットは今更ながら、ジョンソンの周到ぶりに感服する。
長い間 欺き続けただけあって、手がかりなど残してなどいないだろう。
蒼ざめた顔を手で覆い、シャーロットは壁に倒れ掛かる。
「何かあったの?シャーロットさん」
後を追って来たハドスン夫人が声をかけるが、シャーロットは答えられない。
何をどう言えば良いのかわからない。
「ジョンソン先生がどうかなさったの?」
「…………」
 ――― ジョンソンは逃げたのだ。
彼は盗賊で、ずっと自分達を欺いていた。その正体がばれたから。
だがシャーロットはどうしても口に出せない。
信じられない、いや信じたくなかった。
残酷な真実をまのあたりにしてもなお記憶にあるのは、いつも明るく笑う彼の顔。
口は悪いけど優しくて。態度は軽薄だけど誠実で。弱者に対する思いやりを常に持っていて。
正義感が強く、献身的に医療に従事していた。
 ―― それらすべてが偽りだったというのか。
彼を思い返す内、シャーロットの中で凝り固まっていた糸の結び目が緩み始めた。
もつれた糸がほどけるように、動揺が鎮まり始める。
(…そんなはずは無い)
論理的な彼女にしては珍しく、直感が主導していた。
(だって、ジョンソンは……)
導かれるように、シャーロットは自室へと引き返す。

ドアを開けた途端、視線が固定された。
先刻は気付かなかったが、机の上に流線型の細いボトルが乗っている。
それはトカイ産の赤ワイン。庶民には手が届かないであろう最高級の逸品。
ボトルを手にするシャーロットの瞳が揺れる。

 ――― どうしてもトカイの高級ワインが飲みたくてさ―――

昨夜、フォスター邸で聞いたジョンソンの声が脳裏を流れた。
ボトルの中身は減ってないが、コルク栓が中途半端に傷んでおり、一度は開栓されたものを再び閉じたと推察する。
コルクには針状の細長い金属が突き刺さっていた。
それはおそらく元は眼鏡の弦だった物で、栓を強引に閉じる為に刺したのだろう。
シャーロットはボトルを手に持ち、洗面台へと移動する。
そして再び開栓し、フィンガーボウルの中へワインを流し始めた。
真紅の液体がボウルにあふれる。トカイ・ワインの芳醇な香りと共に。
 カチリ。
まもなくボウルの底から小さな音が聞こえた。
シャーロットは流すのを止め、ボウルの中を手で探る。
そして一つの手応えに触れた。
(やっぱり……)
真っ赤に濡れた手で摘み上げたのは、同じく真っ赤な石を戴いた一つの指輪。
まぎれもなく、本物の『鳳凰の血』だった。
ボトルに入った赤い指輪は、ワインの色が保護色になって、外から見ても存在がわからない。
ジョンソンはパーティーの時、混乱にまぎれて抜き取った指輪をこのボトルの中に隠していたのだ。
これなら男爵にも警官にも見つけられまい。
シャーロットさえ彼のワイン発言が無ければ考えつかなかった。
だが、この『戦利品』をシャーロットの部屋に置いて行ったということは。
(ジョンソン………)
推測が確信に変わる。
ジョンソンはシャーロットの為に、赤い指輪を盗んだのだ。
数々のリスクを承知で。
正体が露見する事も覚悟して。
シャーロットの指輪を取り戻す為に。
ただ、シャーロットの為だけに。
(………………)
初めて、シャーロットの瞳に涙があふれた。
疑いようの無い彼の想いを感じる。
言葉で聞いてはいないが、確かにわかった。
抱きしめて口接けられた時に。
(ジョンソンは……私を……)
 ――― 愛していると。
あんなふうに脅かしておきながら薬で眠らせたのは最初から、陵辱する気も脅迫する気も無かったからだ。
ジョンソンはシャーロットを傷つけたりなど決してしない。
その理由は───
(……根拠の無い、推測ばかりだな…)
自嘲するように微笑し、シャーロットは閉じていた瞳を開ける。
そして決意した。推測だけでは、何も解決しないから。
「ハドスン夫人」
ドアのそばで心配そうに様子を見ていたハドスン夫人は、名を呼ばれて歩み寄る。
シャーロットは洗った手を拭きながら、いつもと変わらぬ声音で告げた。
「私は、探偵を廃業しようと思う」
「え!?」
夫人は驚いてシャーロットを見る。
彼女は晴れやかな表情をしており、それは決意の固さの現れに他ならない。
そう悟り、ハドスン夫人はあえて止めず、静かに微笑んだ。
「そう……でも、ハンソン警部さん達は惜しむでしょうね」
「仕方ありません。もう他の事件に関わっている暇は無いから」
「お家に戻るの?」
ハドスン夫人は寂しげに問う。
シャーロットが公爵令嬢に戻ったら、もう気軽には会えなくなるから。
「いいえ、まだです」
本当なら、両親の仇・モーリァティ教授と対決した後に戻るはずだった。
それでもジョンソンと共に探偵業を継続したのは『鳳凰の血』の探索の為だとシャーロット自身思っていたが、実は違っていたのかも知れない。
その事も含めて、真相を知りたいと痛切に願う。
「……まだ最後の事件が解決していないのです。決着を付けるまで家には戻りません」
そう宣言したシャーロットは、今まで見た事の無いほど美しく、そして謎めいた笑顔だったと、ハドスン夫人は後々まで記憶する。

まもなく、名探偵シャーロット・ホームズはベィカー街から姿を消した。
  
続く
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