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~最終の挨拶~
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――― 少女が目を開けた時、そこに、かつて名推理を誇った探偵の面影は無かった。
生来の貴族らしく、気品と優美さを兼ね備えた彼女は、警戒心の無い澄んだ瞳で正面にいる男を見つめ、ゆっくりと口を開く。
「───初めまして」
ロンドンを遠く離れた南部の丘陵地帯。
この緑豊かな片田舎には、都会の喧騒も遠く、届かない。
村の一角に建つ一軒家のドアを、ポストマンが叩く。
「こんにちは、先生。手紙を届けに来ましたよ」
呼び声を聞きつけ、医師はペンを置いた。
手紙を渡しながら、ポストマンはちらりと家の奥へ視線を走らせる。
この村で唯一の医師は、家の一部屋を診療所として使っていた。
「今日は、患者さんはいないんですか」
「ああ、結構な事だ。いつもこうなら良いんだが」
「じゃあ、執筆の方が進んで良いですね」
「いやぁ、エディターが厳しくてな」
苦笑と共に医師は言う。つられるように、ポストマンも笑った。
「お茶でもどうだ?そろそろ休憩しようと思ってたし」
「いいえ。お邪魔しちゃ悪いですから」
ポストマンは惜しみながらも辞退し、一礼して去ってゆく。
受け取った手紙の差出名を眺めながら、医師はリビングへ向かう。
「お茶が入りましたよ」
手にした懐中時計の蓋をパチンと閉じ、奥の部屋から一人の婦人が声をかけた。
丸いティーテーブルの傍で、長いドレスの裾がフワリと揺れる。
「ああ、今行く」
医師───ジョンソンは、明るい微笑みで応じた。
午後のティータイムが始まる。
ジョンソンは手紙の封も切らず、差出人の名前を眺めた。
「またハンソン警部からラブレターが来たぜ。なんでこう毎回、部外者に頼るかな、あいつは」
「Dr・ワトスンには、名推理の実績がありますからね」
問うともなく言われた言葉に答えながら、対面の相手はカップを口に運ぶ。
「何言ってんだよ」
ジョンソンはカップを置き、からかうような視線を向ける。
「今も昔も、助言してるのは名探偵シャーロット・ホームズじゃないか」
「そんな事、警部たちは知らないからな」
ふいに、シャーロットの口から以前の言葉使いが飛び出した。
話題のせいか、それとも好きな茶葉の香りに気が緩んだのだろうか。
気付いて笑うシャーロットの背で、長く伸びた金の髪がさらさらと揺れる。
白いブラウスの胸元には、真紅の宝石を戴くネックレスが輝いていた。
この優雅で美しい女性の性別を見間違う者など、もはや皆無。
「それに、シャーロット・ホームズはもうどこにもいませんから」
「違いない。ミセス・ワトスンの内助の功は内緒だな」
二人は穏やかに笑い合う。室内に優しい空気が満ち溢れていた。
「そういえばジョンソン。あの回想録、指輪事件の結末は改変して下さいね」
シャーロットは、ふと真摯な口調に戻り、ジョンソンを現実に引き戻す。
「せっかく罪科を知る唯一の存在が消えたのに、自ら暴露してどうします。牢に入りたいの?」
「滅相もない。承知しましたよ、直しておきます」
厳しくも愛しい専属エディターの忠告に苦笑しつつ、ジョンソンは答える。
現在、彼は医療のかたわら 回想録を執筆していた。
書斎の机に山積みされた原稿、それは長い夢の跡。二人が辿った数奇な愛の物語。
――― 『初めまして、ドクター・ジョンソン。私はストラスフォード公爵令嬢、レディ・シャーロットと申します』───
あの夜、橋の上から仕込杖を捨てたシャーロットは、次の瞬間 別人のように淑やかな口調で名乗り、正式なレディの作法でお辞儀した。
突然の変貌に最初は戸惑ったジョンソンも、すぐに理解する。
彼女は『探偵シャーロット・ホームズ』の存在を、この世から永遠に抹消したのだ。
――― 『ストラスフォード公爵令嬢』なら、ジョンソンの罪科など知りえない。
この秘密は、二人が永遠に背負って行くと決めた。
そうしてレディ・シャーロットは、ドクター・ジョンソンの妻となったのである。
「お前にも、厄介なラブレターが来てるぜ」
ジョンソンはもう一通の手紙を取り出す。差出人は現ストラスフォード公爵───シャーロットの叔父だった。
「叔父上ったら…いい加減あきらめてもらえないかしら。私はもう家を継がないと何度も言っているのに」
受け取りながら、溜息をつく。
シャーロットは立ち居振る舞いや言葉使いに気を配り、出身を隠して生活していた。
理由は、貴族が庶民に降嫁したとあっては、家名に関わるから。
まだそこまで許される時代ではなく、彼女の叔父も再三、戻って爵位を継ぐよう説得を繰り返している。
「やっぱ血筋ってのが大事なんだろ、貴族サマってのはよ」
まるで他人事のように言うジョンソンに、シャーロットは呆れた様子で手紙に目を走らせた。
「…どうしても私がダメなら、私の子を養子にして継がせると書いてあるわ」
「何っ!?」
ジョンソンは仰天し、思わず身を乗り出す。
「貴族の家では、よくある手段ですから」
「冗談じゃない!そんなこと許せるわけが…」
「静かに、ジョンソン」
ピシャリと言われ、ジョンソンは言葉を飲み込んだ。そして互いに、そっと窓際へ目を向ける。
柔らかな陽射しを浴びる白いゆりかごが、微かに揺れた。
「……もう、起きてしまったじゃない。あなたのせいよ」
「…ごめん」
シャーロットはテーブルを立ち、ゆりかごに歩み寄る。
幸い、赤ん坊はうとうとと身をよじっただけで、再び眠りに落ちようとしている。
母となったシャーロットは赤児の顔を覗き込み、優しく告げた。
「心配しないで、何処へもやらないから」
愛し子をあやす姿は、さながら聖母の如き光景。
眩しそうに眺めながら、ジョンソンは充足感に満たされる。
怪盗と探偵の許されざる恋は、誰知る事もなく闇の彼方に消えた。
成就させたのは、医師と公爵令嬢。
二人は過去を捨て、真実を受け入れ、罪も、秘密も、すべてを分かち合って、共に生きると決めたのだ。
何より大切で必要なのは、互いへの愛だから。
そうして新たな人生を築き、幸福を手に入れた。
もう二度と、道を誤る事は無い。
「……さて、書き上げてしまうかな」
ジョンソンは再びペンを取る。
回想録・最終章の結びを、HAPPY-ENDと記す為に。
──我が最愛のパートナー、名探偵シャーロット・ホームズに捧ぐ──
THE END
生来の貴族らしく、気品と優美さを兼ね備えた彼女は、警戒心の無い澄んだ瞳で正面にいる男を見つめ、ゆっくりと口を開く。
「───初めまして」
ロンドンを遠く離れた南部の丘陵地帯。
この緑豊かな片田舎には、都会の喧騒も遠く、届かない。
村の一角に建つ一軒家のドアを、ポストマンが叩く。
「こんにちは、先生。手紙を届けに来ましたよ」
呼び声を聞きつけ、医師はペンを置いた。
手紙を渡しながら、ポストマンはちらりと家の奥へ視線を走らせる。
この村で唯一の医師は、家の一部屋を診療所として使っていた。
「今日は、患者さんはいないんですか」
「ああ、結構な事だ。いつもこうなら良いんだが」
「じゃあ、執筆の方が進んで良いですね」
「いやぁ、エディターが厳しくてな」
苦笑と共に医師は言う。つられるように、ポストマンも笑った。
「お茶でもどうだ?そろそろ休憩しようと思ってたし」
「いいえ。お邪魔しちゃ悪いですから」
ポストマンは惜しみながらも辞退し、一礼して去ってゆく。
受け取った手紙の差出名を眺めながら、医師はリビングへ向かう。
「お茶が入りましたよ」
手にした懐中時計の蓋をパチンと閉じ、奥の部屋から一人の婦人が声をかけた。
丸いティーテーブルの傍で、長いドレスの裾がフワリと揺れる。
「ああ、今行く」
医師───ジョンソンは、明るい微笑みで応じた。
午後のティータイムが始まる。
ジョンソンは手紙の封も切らず、差出人の名前を眺めた。
「またハンソン警部からラブレターが来たぜ。なんでこう毎回、部外者に頼るかな、あいつは」
「Dr・ワトスンには、名推理の実績がありますからね」
問うともなく言われた言葉に答えながら、対面の相手はカップを口に運ぶ。
「何言ってんだよ」
ジョンソンはカップを置き、からかうような視線を向ける。
「今も昔も、助言してるのは名探偵シャーロット・ホームズじゃないか」
「そんな事、警部たちは知らないからな」
ふいに、シャーロットの口から以前の言葉使いが飛び出した。
話題のせいか、それとも好きな茶葉の香りに気が緩んだのだろうか。
気付いて笑うシャーロットの背で、長く伸びた金の髪がさらさらと揺れる。
白いブラウスの胸元には、真紅の宝石を戴くネックレスが輝いていた。
この優雅で美しい女性の性別を見間違う者など、もはや皆無。
「それに、シャーロット・ホームズはもうどこにもいませんから」
「違いない。ミセス・ワトスンの内助の功は内緒だな」
二人は穏やかに笑い合う。室内に優しい空気が満ち溢れていた。
「そういえばジョンソン。あの回想録、指輪事件の結末は改変して下さいね」
シャーロットは、ふと真摯な口調に戻り、ジョンソンを現実に引き戻す。
「せっかく罪科を知る唯一の存在が消えたのに、自ら暴露してどうします。牢に入りたいの?」
「滅相もない。承知しましたよ、直しておきます」
厳しくも愛しい専属エディターの忠告に苦笑しつつ、ジョンソンは答える。
現在、彼は医療のかたわら 回想録を執筆していた。
書斎の机に山積みされた原稿、それは長い夢の跡。二人が辿った数奇な愛の物語。
――― 『初めまして、ドクター・ジョンソン。私はストラスフォード公爵令嬢、レディ・シャーロットと申します』───
あの夜、橋の上から仕込杖を捨てたシャーロットは、次の瞬間 別人のように淑やかな口調で名乗り、正式なレディの作法でお辞儀した。
突然の変貌に最初は戸惑ったジョンソンも、すぐに理解する。
彼女は『探偵シャーロット・ホームズ』の存在を、この世から永遠に抹消したのだ。
――― 『ストラスフォード公爵令嬢』なら、ジョンソンの罪科など知りえない。
この秘密は、二人が永遠に背負って行くと決めた。
そうしてレディ・シャーロットは、ドクター・ジョンソンの妻となったのである。
「お前にも、厄介なラブレターが来てるぜ」
ジョンソンはもう一通の手紙を取り出す。差出人は現ストラスフォード公爵───シャーロットの叔父だった。
「叔父上ったら…いい加減あきらめてもらえないかしら。私はもう家を継がないと何度も言っているのに」
受け取りながら、溜息をつく。
シャーロットは立ち居振る舞いや言葉使いに気を配り、出身を隠して生活していた。
理由は、貴族が庶民に降嫁したとあっては、家名に関わるから。
まだそこまで許される時代ではなく、彼女の叔父も再三、戻って爵位を継ぐよう説得を繰り返している。
「やっぱ血筋ってのが大事なんだろ、貴族サマってのはよ」
まるで他人事のように言うジョンソンに、シャーロットは呆れた様子で手紙に目を走らせた。
「…どうしても私がダメなら、私の子を養子にして継がせると書いてあるわ」
「何っ!?」
ジョンソンは仰天し、思わず身を乗り出す。
「貴族の家では、よくある手段ですから」
「冗談じゃない!そんなこと許せるわけが…」
「静かに、ジョンソン」
ピシャリと言われ、ジョンソンは言葉を飲み込んだ。そして互いに、そっと窓際へ目を向ける。
柔らかな陽射しを浴びる白いゆりかごが、微かに揺れた。
「……もう、起きてしまったじゃない。あなたのせいよ」
「…ごめん」
シャーロットはテーブルを立ち、ゆりかごに歩み寄る。
幸い、赤ん坊はうとうとと身をよじっただけで、再び眠りに落ちようとしている。
母となったシャーロットは赤児の顔を覗き込み、優しく告げた。
「心配しないで、何処へもやらないから」
愛し子をあやす姿は、さながら聖母の如き光景。
眩しそうに眺めながら、ジョンソンは充足感に満たされる。
怪盗と探偵の許されざる恋は、誰知る事もなく闇の彼方に消えた。
成就させたのは、医師と公爵令嬢。
二人は過去を捨て、真実を受け入れ、罪も、秘密も、すべてを分かち合って、共に生きると決めたのだ。
何より大切で必要なのは、互いへの愛だから。
そうして新たな人生を築き、幸福を手に入れた。
もう二度と、道を誤る事は無い。
「……さて、書き上げてしまうかな」
ジョンソンは再びペンを取る。
回想録・最終章の結びを、HAPPY-ENDと記す為に。
──我が最愛のパートナー、名探偵シャーロット・ホームズに捧ぐ──
THE END
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