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出会い

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 目が覚めたら、病院のベッドにいた。
 どうやら僕は死んでいなかったみたいだ。
 会社で倒れてから病院に運ばれて、3か月ほど経過したらしい。歩く歩道でいた期間は、5年近くあるからおかしな気分だった。
 病気になっている間に、仕事は首になっていた。だけど、ブラック企業で働いていて心を病んでいたため、ショックというよりホッとした気分だった。
 
 退院してから、ホワイト企業で働きだした。給料は多くないけれども、残業は少ない。帰って、大好きな漫画を描いている。別にお金になるわけじゃないけれども、描くことが楽しかった。
 たまに少年Aが口ずさんでいたメロディーを、誰もいないところで口ずさむ。すると、一人ぼっちの夜だって、慰められる気がした。
 ひっそりとした秋の夜、その日もスーパーで半額になった弁当を購入した後、家までの帰り道、彼の歌を口ずさんでいた。
 突然、背後から肩をガッとつかまれた。

「おい。そのメロディーをどこで知った?」

 振り返って驚いた。
 そこには、大人になった少年Aがいた。
 サラサラと零れる色素の薄い茶色の髪、引き込まれそうになる美しい柘榴色の瞳、高そうな黒いジャケット、モデルみたいに整った顔立ち、すらりとした身長……。少年Aは、あの頃の数十倍もかっこよくなっていた。
「聞いているのか。その曲はどこで知った?」
「……」
 あなたの家の動く歩道になっていて知りましたとは言えない。
「それは俺が作った曲だ。俺が一人でいる時しか歌っていない。あんた、俺のストーカーか?」
「……」
 いや、ストーカーじゃなくて歩く歩道だったんです。
 なんて言ったら、頭のおかしい奴に思われるだけだろう。
「ただの偶然じゃないか。これは……僕が作った曲だ」
「噓だ。こんな偶然あり得ない。歌詞まで同じだ」
「……」
 ああああああああああああああああああああああああああああ。
 どうすればいいんだ?なんていえばいいんだ?
「君は……今、何の職業についているんだ?」
「作曲家だけど、それがどうかしたんだ?」
 よかった。少年Aは、自分の道を進んだらしい。あの横暴な父親の跡を継がなかったらしい。自殺することなく、自分で人生を選び取ったのだ。
「何でもない……」
「何でもないわけないだろう。お前、絶対に俺のストーカーだろう」
「ス、ストーカーじゃない。どこかで聞いたことがあるメロディーを口ずさんだだけだ」
「まあいい。あんたの顔は、なかなか気に入った。一晩5万でどうか」
「え?」
「5万払うから俺に抱かれないかって聞いている」
「だ、だ、だ、抱かれる!?」
 驚きのあまり声が裏返ってしまう。
「君はゲイだったのか」
「どっちでもいけるだけ。興味のある奴と寝れば、インスピレーションもわくし」
「……」
「で、どうするんだ?」
 彼は、僕に判断を委ねるように左手をそっと伸ばして手のひらを向ける。まるで女性をダンスに誘う貴族の男性みたいだ。
 ごくりと唾を飲む。
 僕の性的思考は、いたってノーマルだ。普通にかわいい女の子のDVDをおかずにしている。
 だけど、誰かに告白されたことも、身体を求められたことも今まで一度もなかった。
 家族とももともと疎遠だし、友達はブラック企業時代に縁が切れてしまった。
 ただの冴えない孤独のつまらない男なのである。
 こんなかっこいい青年が僕なんかお金を払って求めてくれている。
 ゴクリと唾を飲む。
 彼は、自分が動く歩道であったとき唯一関わりがあった人間だ。そんな彼との縁を切りたくない。
 
「……わかった」

 僕は彼の手を取った。
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