百怪夜行

とりつ

文字の大きさ
上 下
7 / 10

6、右腕

しおりを挟む
 じわじわと鳴り止まない蝉の声。陽炎がアスファルトから次々と排出される。女は一人、長い長い道をスイカを抱えて歩いていた。帽子が影を作っていない部分はじりじりと焼け始める。電車から降りて不快に感じていた滝のような汗も、今となっては懐かしい。のどの渇きに自動販売機を探そうにも田舎の畑に囲まれた一本道に、そんな気の利いたものはないようだった。彼女は右脇に抱えたスイカの重みにくらくらしながら、まっすぐ歩いていく。
 この村に帰ってくるのも何年振りかしら。彼女は前の帰省を思い出す。その時の彼女は目も当てられないような状態だった。長いきれいな髪を振り乱し、目からは大粒の涙を流し、嗚咽とも奇声ともわからないほど喚いていた。父母もその状態に困り果て、顔を見合わせては何も言えず、ただ彼女が落ち着くのを待つことしかできなかった。落ち着くまでに日が暮れてしまった。田舎の夜というのは漆黒である。ただ、ひたすらに暗い夜が来た。泣き止んだ彼女のとった行動は父母に対する謝罪であった。迷惑であることはわかっていても、彼女には吐き出す場所がここにしかなかった。それに対する謝罪である。
 夜も更けて就寝。父母は気疲れからすぐに寝静まった。しかし、彼女は眠れなかった。かえって目がさえてしまっていた。部屋の天井や壁を眺めていると、また涙が込み上げてきた。弱い自分に嫌気がさしながら、彼女は外に散歩に出かける。
 左手に懐中電灯。ぼんやりとした灯りがたった三、四メートル先を照らしている。それは悲しみを紛らわすには程よい恐怖であった。さすがに山は危ない。民家の畑の間をゆっくりと歩いていく。何も考えず、ひたすらまっすぐ。
およそ十分歩いたくらいにふと右腕が引かれた。木に引っかかったか、何か物にぶつかったか、そんなことならば痛みを感じて終わるだろう。しかし、彼女は腹の底から恐怖した。右手は誰かに握られた感覚があったからだ。何が握っているのか見たい。だが、反射的にそちらを見ることができない。冷汗だけが時間を許されて流れていた。
「お姉ちゃんだあれ?」
 右手から声が聞こえる。彼女は左手の懐中電灯を右手に当てる。そこには小さな女の子が自分と手をつないでいた。
「どうしたの?」
 彼女は、言葉を返すことができなかった。ぷつんと電源が切れるように頭が働かなかったのだ。それでもなお、女の子は大きな瞳を自分に向けている。止めていた息を思いきり吸い込む。幾分か落ちついた気がした。今日はなんだか落ちついてばかりな気がする。
「あなたは?何をしているの?」
 ようやく開くことができた口。質問で質問を返してしまった。女の子はぶしつけな質問に笑顔で答える。
「私はまや。毎日この道をお散歩してるの。でもね、お姉ちゃんはこのあたりで見ない人だから、迷子になったら危ないからね、今おててつないだの」
 まやと名乗る少女は、たどたどしくも説明をしてくれた。彼女は自分が情けなくなり、一緒に笑って話をした。昔はこのあたりに住んでいたこと、小学校の話、友達の話、そして彼女が帰ってきていた理由。彼女はまやの純粋な疑問に答える度に、大人になってため込んできていたストレスがふと消えていく気がした。
「ここはどうして危ないの?車もめったに通らないよ」
 今度は彼女が質問をした。まやはここぞとばかりに教えてくれる。
「それはねぇ、わんわんがいるからだよ」
 彼女がふふふと笑うと、まやは少しむっとした。真剣に話してくれたのに申し訳ないと彼女は反省して謝った。今日はなんだか謝ってばかりな気がする。
「わんわんは確かに怖いね。噛まれたら大変だ」
「わんわんは噛まないよ。ただね、怖いの」
「何が怖いの?」
「わからないのが怖いの」
 まやの言葉が終わる時、彼女は家の門の前にいることに気が付いた。送ってくれたのか、はたまた自分が勝手に帰っていたのか不思議な感覚だった。それに、まやの方が幼く夜道は危険なのだから、本来であれば彼女がまやを家まで送ってあげるべきだろう。
「まやちゃんの家は」
 彼女は右手に話しかける。そこにはもう、まやの姿はなかった。ただ右手にあたたかさだけが残っていた。懐中電灯で辺りを照らす。そこは出る時と何も変わらない自分の家の庭だった。
 消えたまやのことを思い出しても不思議と恐怖は感じなかった。あの子はきっと、悲しみを和らげるために出てきてくれたのだ。お化けにしても優しいお化けだ。彼女は一人、うだる暑さの中を歩く。家について、スイカを冷やして、父母と食べて、夜になったら。夜になったらタッパーに入れたスイカと懐中電灯を持って散歩に出かけよう。そしてあの子とスイカを食べながら、もう一度お話をしよう。
しおりを挟む

処理中です...