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1巻
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序章
「陛下! まだ寝てるんですか? もうすぐ朝餉が運ばれてきます。そろそろ起きてくださーい!」
「……ん……明凛。寒い、無理だ。まだ風邪が治っていない気がする」
何度声をかけても腕を引っ張っても無駄のようだ。
小さな子どものように我儘を言って起きてこない皇帝陛下・青永翔様に向かって、私――曹明凛は大きなため息をつく。
随分と待たされて、もう空腹に耐えられそうにない。しびれを切らした私はついに奥の手を使うことに決めた。
「分かりましたよ! ちょっと顔を出してください」
「……治してくれるのか?」
「治しますよ。そういう約束で、私は後宮にいるんですから」
ごそごそと気怠そうに起き出した陛下の頬に両手をそっと添え、私は自分の額をコツンと陛下の額に合わせる。すると、私の額にある花鈿がほんのりと熱を持って光った。
「どうですか? 楽になりましたか?」
「ああ、先ほどよりも気分が良くなった」
「それは良かっ……! ちょっと陛下!」
触れ合わせた額に気を取られた隙に、陛下の両腕はしっかりと私の腰に回されている。向かい合って膝に座るような体勢になり、私は恥ずかしさのあまり両手で陛下の胸を力いっぱい押し返した。
「なんですかこれ、放してください! 私はお腹がすいたんですよー。早く朝餉を食べたい!」
「こうした方が額を合わせやすいじゃないか。ほら、ちゃんと其方の役目を果たしてくれ」
「駄目だって……言ってるでしょーっ!」
腰に回された腕をひねって牀榻に突き飛ばすと、陛下は為されるがままにゴロンと倒れた。
(ふう、危ない危ない)
「ただのモブ後宮妃である私に、こうしてベタベタするのはやめていただきたいんです!」
「ん? モブ? なんだそれ?」
陛下は牀榻に転がったまま、初めて聞く『モブ』という単語に首を傾げた。
(だって、目の前にいる青龍国皇帝・青永翔は、未来の皇后となる鄭玉蘭と結ばれる運命。『玲玉記』のストーリーでは、そうなってるの! 私にかまっている暇なんてないでしょ!)
陛下の問いには答えず、私は朝餉の並ぶ卓子の前にトスンと座る。
モブ後宮妃の私の役割は、玉蘭が登場するまでの間、皇帝陛下の身の安全を守ること。
陛下と玉蘭が結ばれるというハッピーエンドを、何がなんでも見届けたい!
「さあ、陛下! 早く食べましょう! 今朝は冷えるから、お粥からいっちゃいますか?」
「……明凛。毒見はしなくても良いと言っているだろう」
「もう! いつになったら慣れてくださるんです? もしも食事に毒が盛られていたとしても、私はここで毒を浄化できるから大丈夫なんです。安心してお毒見係を任せてください!」
額に描かれた真紅の花鈿を指さしながら、私はふふんと得意気に微笑む。
それを見た陛下は「うう」と唸ると、やっとのことで牀榻から這い出してきた。
「分かった、毒見は明凛に任せよう。だが慎重に。一度にたくさん口に入れるな。其方はいつもすぐにペロリと食べてしまうからな」
「……え?」
注意された時には既に温かい粥を口いっぱいに頬張っていた私は、慌てて至福の表情を引っ込め、椀を卓子に置いた。
第一章 転生
「――明凛、明凛!」
「お嬢様、目を開けてください!」
ぼんやりとした意識の向こうで、誰かが私の名前を呼んでいる。
声に導かれるようにゆっくりと瞼を開けると、やけにごちゃごちゃとした飾りが施された天蓋が視界に飛び込んできた。
(あれ? 私、明凛なんて名前だったっけ? なんだろう、この違和感……)
起き上がろうとしても、すぐには体が動かない。致し方なく、寝転んだまま視線だけを横に動かしてみた。
私が横たわる牀榻の傍らには涙目の若い女性、そしてその後ろには心配そうな顔をした中年の男性が立っている。
女性の方は長い黒髪を輪っかの形に結い上げ、それを簪のようなもので留めている。そして後ろの男性は、長髪を頭のてっぺんでお団子のように丸く束ねていた。
(誰なの? このオジサン……って、違う違う! オジサンじゃなくて、私のお父様だわ!)
実の父親のことを、なぜ『オジサン』などと思ってしまったのだろうか。
慌てて体を起こそうと牀榻に手を付くと、隣にいた女性が青ざめながら制止した。
「お嬢様、階段から落ちて頭を打ったばかりです。急に動かないでください」
「え? 階段から落ちたの? 私が?」
そう言われてみれば、そんな気もする。混乱している記憶を一つずつ手繰り寄せて整理するため、私はもう一度目を閉じた。
(……ああ、そうよ。私はここ青龍国に住む、黄明凛だったわ)
山寺にお参りに行った帰り道、私はぬかるんだ地面で足を滑らせ、そのまま階段から転がり落ちた。かなり高い所から落ちたので、無事に目覚めたのが不思議なくらいだ。
隣で心配そうに『お嬢様!』と連呼するのは侍女の子琴で、先ほど私が『オジサン』呼ばわりしてしまったのは、父である黄夜白。将軍を務める父を筆頭に、我が黄一族は皇都でもそこそこの名家である。
「思い出してきたわ、子琴。ありがとう、もう大丈夫よ」
「お嬢様ぁ……良かった。でも、無理はしないでくださいね」
今にも泣きそうな顔の子琴の手を握ると、私は彼女に向かって笑顔を作った。
私の記憶が混乱してしまったのには、理由がある。
どうやら山寺の階段から落ちて頭を打ったことをきっかけに、思い出してしまったようなのだ。
――現代日本で生まれ育った、自分の前世を。
前世での、とある日の夜のこと。
仕事からの帰宅途中、本を読みながら駅の階段を下りようとした私は、不注意で足を踏み外して転落してしまった。
前世の記憶はそこで途切れているから、階段から落ちた時に運悪くそのまま死んでしまったのだろう。
そしてこの世界に黄明凛として生まれ変わり、山寺の階段から落ちたことをきっかけに、前世の記憶を思い出してしまった――というのが今の状況のようだ。
よくよく見てみると、お父様も子琴もまるで古代中国のような衣装を着ている。
先ほど目に入った派手な天蓋の他にも、天井にはラーメンのナルトみたいな形をした彫刻。扉には高そうな緑色の石の玉簾がかけられ、時折吹く風に揺れてカチカチと音を立てていた。
(この世界……もしかして私、昔の中国にタイムスリップして生まれ変わっちゃったのかな)
「明凛、大丈夫か? まだ調子が悪いなら、すぐに太医を呼んでこよう」
「お父様、私は大丈夫です! それに太医様などお呼びしては、お嫡母様に大げさだと叱られます。もう少し休みたいので、一人にしていただいてもいいでしょうか」
「……そうか、分かった。少しでも変わったことがあれば、すぐに子琴を呼びなさい」
後ろ髪でも引かれるように何度も振り返りながらお父様たちが出ていくと、私はもう一度頭の中の整理を始めた。
(私の名は黄明凛。黄家の側室の娘で、お母様は私が小さい頃に亡くなったから記憶にない。お父様とお嫡母様、そして義理の兄弟姉妹と共に暮らしているんだったよね)
前世を思い出したことで少し混乱はしたものの、今世の記憶もしっかり覚えているようで一安心だ。
側室の娘――いわゆる庶子である私にとって、この黄家は決して居心地の良い場所ではない。
お父様は私にも分け隔てなく愛情を注いでくれるけれど、お嫡母様たち義家族から見れば、私は単なる邪魔者。
だから私は早くこの家を出ていきたくて、後宮の宮女選抜試験を受けるつもりでいる。
後宮の主は、ここ青龍国を治める若き第十四代皇帝・青永翔。
実はその皇帝陛下、後宮には見向きもしない女嫌いだともっぱらの噂だ。
中央の官吏たちはそんな皇帝陛下の将来を憂い、自分の娘や縁者を次々と入内させて『下手な鉄砲、数打ちゃ当たる』作戦に出ているらしい。
妃が増えれば宮女の募集も増える。よほどの失敗をしない限り、私も翌春には宮女として後宮で職を得ることになるだろう。
ちなみに今の皇宮で絶対的権力を持つのは、皇太后の夏玲玉である。名家出身の妃であっても、この皇太后に気に入られなければあっという間に潰されてしまうと聞く。
「そう言えば青龍国って、前世でも聞いたことがある気がするのよね。皇太后、夏玲玉の名前もどこかで耳にして……あっ!」
私は思わず声を上げた。
前世で駅の階段を踏み外した時に私が読んでいた本は、中華風ファンタジー小説、『青龍の女帝 玲玉記』。確か、その小説の主人公が夏玲玉という名前ではなかっただろうか。
玲玉記は、隣国の玄龍国から嫁いできた公主・玲玉が、青龍国の後宮でのし上がっていく下剋上ストーリーだ。
玲玉自身は子に恵まれず、他の妃が産んだ皇子が皇帝として即位する。しかしどうしても青龍国で権力が欲しかった玲玉は、祖国である玄龍国出身の臣下たちを集めて味方を増やし、恐ろしい呪術を使って皇帝暗殺を謀る……という、ドロドロとした展開の物語だ。
玲玉はなぜ、呪術に手を染めてまで権力に固執したのか。
その結末が気になって、何巻もある玲玉記を大人買いして少しずつ読み進めていたのが前世の私。
後宮妃たちの確執や皇帝の愛を求める女たちの戦いは手に汗握る展開で、時間を忘れて夢中になったものだ。
しかし、玲玉記の魅力はそれだけではない。
私の一番のお気に入りは、玲玉の敵役として描かれている皇帝・青永翔と、その妃である鄭玉蘭の切ない恋愛模様。
永翔が玲玉の罠に嵌められて殺されそうになった時、皇后・鄭玉蘭は永翔を庇って死んでしまう。
そして永翔も彼女を守れなかったことを悔い、「生まれ変わったらまた一緒になろう」と泣きながら命を落とすのだ。
自らの命を盾にしてもお互いを守ろうとする二人の愛に、私が何度涙したことか。
次に生まれ変わっても必ずこの二人が再会できますようにと、アフターストーリーの二次創作まで考えかけたほどだ。
そして私が今、黄明凛として生きている世界では、皇太后・夏玲玉が絶対的権力を握っている――
「つまり私は、『玲玉記』の世界に転生しちゃったってこと……?」
牀榻から立ち上がり、鏡で恐る恐る自分の顔を確認してみる。
色白の肌、華奢な腕。癖のない長い黒髪。
そして額の真ん中には、鮮やかな真紅の花鈿が描かれている。
前世の自分とはかけ離れた容姿だが、確かに私はこの姿で十八年生きてきた黄明凛だと再確認した。
翌春になれば、私も玲玉記の舞台である青龍国皇帝の後宮に飛び込んでいくことになる。
黄明凛という名の人物は玲玉記には登場しなかったから、私はきっと後宮に大勢いる名もなき宮女の中の一人だろう。
右手の小指で前髪をかき分け、もう一度鏡の中の自分の顔をまじまじと見つめてみる。
(まさか、こんなに鮮明に前世の記憶を思い出すとはね)
お嫡母様や義兄姉たちから疎まれながら生きるのが嫌だった。
どこかの家に嫁いだところで、黄家との関わりは続く。だから宮女になって、黄家に頼らずとも自分の足で立って生きていきたいと思った。
宮女なんかになったら一生誰とも結婚できなくなる! と、お父様からは止められたけれど、黄家に気を遣いながら生きるより、働いて誰かの役に立てる方がずっといい。
自分の後宮入りのことは、その程度にしか考えていなかった。
しかし、大好きだった小説の世界に転生したとなっては話が違う。
私が全力で推している青永翔と鄭玉蘭の、切ない恋愛模様が間近で見られるのだ。玲玉記には描かれていないエピソードに遭遇することだってあるかもしれない。
そう考えると、後宮入りが俄然待ち遠しくてたまらなくなってきた。
「……子琴! 子琴はいる?」
「はい、お嬢様!」
私の声を聞き、侍女の子琴が慌てて房屋に飛び込んでくる。子琴は侍女でもあり幼馴染でもある、私がこの黄家で唯一心を許せる大切な存在だ。
「ねえ、子琴。今日は何月何日だったかしら」
「お嬢様、やはり頭を打ってどこかおかしくなられたのですか……⁉ 今日は天青節。皇都で灯華祭が行われる日ですよ!」
「とっ……灯華祭ですって!?」
なんということだろう。
玲玉記の中で、青永翔と鄭玉蘭が初めて出会うのが、その灯華祭だ。
身分を隠し、お忍びで灯華祭にやってきた永翔が、空に天燈を飛ばしている美しい玉蘭に一目惚れする大切な場面。
「子琴! 今から灯華祭に行くわよ」
「えっ! でも、お嬢様は頭を打ったばかりですし、安静に……」
「大丈夫。ただちょっと遠くから静かに見守るだけよ。さあ子琴、早く準備して!」
空に飛ぶ無数の天燈の灯りの下で、永翔と玉蘭が恋に落ちる。そんなロマンティックな場面、絶対に見逃せない。
モタモタする子琴を後目に、私は一人でさっさと着替えをし始めた。
◇
青龍国第十四代皇帝、青永翔。
彼がまだ皇太子だった幼い頃、生みの母である楊淑妃が病で亡くなった。
後ろ盾がなくなった永翔は、皇帝の妃だった夏玲玉からここぞとばかりに命を狙われるようになる。
永翔の食事には密かに毒が盛られ、毒見役となった者は次々に命を落とした。それを知った永翔は心を痛め、次第に自分の食事の毒見を拒否するようになる。
食事に毒を盛った犯人はもちろん玲玉である。しかし、呪術を使って食事に仕込まれた毒はいくら調べても出所不明のままで、彼女が疑われることは一度もなかった。
毒見役を置くことを拒んだ永翔はたびたび毒を服してしまい、何度も生死の境を彷徨ったものの、なんとか生き永らえて成人を迎える。
そんな不遇な永翔を側で支えたのが、のちに皇后となる鄭玉蘭だ。
大切な人が自分のせいで命を失うことを恐れた永翔は、妃となった玉蘭ともなかなか打ち解けられなかった。しかし玉蘭の一途な愛は徐々に永翔の頑なな心を溶かし、次第に二人は心を通じ合わせるようになる。
愛する人と共にありたいと願った永翔は、玉蘭のおかげで生きようという意欲を取り戻すのだ。
そんな愛し合う二人の仲を引き裂くのが、皇太后となった夏玲玉。彼女は自らが帝位に就くために、あろうことか二人を殺してしまう。
(……うう、このまま推しの命が奪われるなんて耐えられない! いくら小説の主人公だからと言って、さすがに皇帝を殺しちゃ駄目だわ)
架空のストーリーなら楽しく読める展開も、こうして現実のものとなっては話が違う。
今の私は、玲玉記の世界の中で実際に生きている。
玲玉記を最後まで読んでいないから、皇太后がなぜそこまでして権力を手にしたいのかは分からない。しかしどんな理由があったとしても、永翔と玉蘭の幸せな未来を奪うことは絶対に許されない。
せっかく玲玉記の世界に転生したのだ。二人が添い遂げられるよう、私にも何かできないだろうか。もしかしたら私は、永翔と玉蘭の恋を成就させるために生まれ変わったのではないかとさえ思えてきた。
灯華祭にやってきた私は、二人の悲劇を思い出して涙ぐむ。そんな私を見て、子琴はぎょっとしてその場でよろけた。
「あのぉ……お嬢様。頭大丈夫ですか? 号泣してますけど」
「子琴、聞き方が良くない。せめて、頭の怪我の具合は大丈夫ですか? って聞いてくれる? それはさておき、お祭りと言えばとりあえず屋台よね。なにかツマミを買っていこう!」
「ツマミ……? それはなんですか?」
「あ、変な言葉使ってごめん。お饅頭でも買いましょうか」
「お饅頭なら私が買ってきますから、お嬢様はあの橋の袂辺りでお待ちいただけますか?」
子琴が指さす方向を見ると、青龍川の支流にかかる小さな橋が見えた。
ちょうどいい。確かあの小さな橋の下の川辺で、玉蘭が天燈を飛ばすのを永翔が見初めるはずだ。
第三者としてその場面を見学するには少々距離が近すぎる気もするが、これだけ人出が多ければ目立つこともないだろう。
「ありがとう、子琴。あの橋の上で待ってるわ」
「はい、お嬢様。では後ほど」
子琴に軽く手を振ると、私はいそいそと橋の方に向かった。
気付くと、いつの間にか日が落ちている。夕焼けは夜空に押されて山の端に消え、川沿いに点々と並んだ屋台の提灯の灯りだけが川面を照らし始めていた。
そろそろ天燈が夜空を舞い始める頃合いかもしれない。
橋の上まで来ると、私は行き交う人の波から外れて下を覗き込んだ。橋から川の水面までは、人の背丈の半分程度。川底にある石がいくつも水面から顔をのぞかせているから、大した深さではなさそうだ。
(万が一ここから落ちても大丈夫そうね)
玉蘭と永翔はまだかと、私は更に身を乗り出して人の姿を探してみる。その時、橋についていた手がずるっと滑り、突然体勢を崩してしまった。
「……きゃあっ!!」
川に落ちかけた私の口から悲鳴が漏れる。反射的に宙に向かって伸ばした手は、虚しく空を切った。
すると、偶然近くを通りかかった知らない男が、咄嗟に私の腕を思い切り掴む。
(え……!?)
男はそのままぐっと手に力を入れ、私の体を思い切り橋の方に引き戻した。
しかし、橋の上に尻もちをついた私のすぐ目の前で、助けてくれた男が代わりに川に落ちていく。
まるで前世でいうスローモーションのように、ゆっくりと視界から消えていく男。
大きな水しぶきと、男の体が川底にぶつかる鈍い音。
音に驚いた周囲の人たちが一瞬足を止めるが、すぐに雑踏に呑み込まれて流れていった。
(……やってしまった)
見ず知らずの人に助けてもらった上に、自分の身代わりにその人を川に落としてしまうなんて。
私は橋の縁に手をかけ、きょろきょろと男の姿を探した。
すると、橋の陰になった暗闇の中から、ずぶ濡れの男がゆっくりと立ち上がったのが見えた。
「ごめんなさい! 私のせいで……。大丈夫ですか?」
「……そちらこそ、怪我は?」
「おかげさまで私は何も。あ、手を貸しますので上がってこられますか?」
川の中にいる男に向かって手を差し出すと、ぬっと伸びてきた男の手が私の手を掴んだ。初春の水の冷たさとは逆に、男の手は大きくて温かい。
もう一方の手を橋にかけて登ってきた男の顔を、遠くの屋台の提灯の灯りがほんのりと照らした。
男が身に付けている袍は、飾り気のない単純な意匠だ。
しかし、深い藍色の生地は見るからに上等なもの。
身分の高そうな相手だと一目で悟り、私は男に掴まれた手を思わず引いた。しかし男は焦ったような表情で、私の手を逃すまいと力を込める。
「……っ、其方は……!」
「はい、なんでしょうか……? あ、寒いですよね。あまり役に立たないかもしれないですが、この手巾で良ければ使ってください」
巾着から取り出した手巾を渡してみるものの、男はそんなものには目もくれない。
「其方、名は? 名はなんと言う……?」
「なっ、名前ですか?」
「年はいくつだ、年は! どこの家の者だ?」
切羽詰まった形相で畳みかけるように尋ねてくるが、私にとってこの男は見覚えのない知らない相手。馴れ馴れしく話しかけられる覚えは全くない。
あっけに取られた私が口をパクパクさせていると、男の手には更に力が入った。
(痛いっ! この人もしかして、出会い頭に私を口説こうとしてる? まさか玲玉記の世界にもそんな軽薄な男がいるなんて思わなかった!)
私はガッチリと掴まれた男の手を不意をついて捻り、相手がひるんだところで再度体を押して川に突き落とした。
一瞬の出来事に、男は為す術もなく橋の下へと落ちていく。
無情にも、大きな水音が再びその場に響き渡った。
「ごめんなさい! 私、そういうのは結構ですので! さようなら!」
男に向かってそう叫ぶと、私は急いでその場を離れる。
(もう……! もうもう! なんなのよ!)
せっかく空に浮かぶ美しい天燈の灯りの下で、永翔と玉蘭が出会う印象的な場面を堪能しようと思っていたのに。
楽しそうに行き交う雑踏の合間をすり抜けながら、私は悔しさのあまり顔をしかめた。
先ほどまでいた橋の上には、なんの騒ぎかと人々が大勢集まり始めている。
皆が見下ろす川の中には、ほんの短い間に二度も冷たい川に落とされた男。
彼は頭から足の先までずぶ濡れのまま、呆然と川の中に座り込んでいた。
「陛下! まだ寝てるんですか? もうすぐ朝餉が運ばれてきます。そろそろ起きてくださーい!」
「……ん……明凛。寒い、無理だ。まだ風邪が治っていない気がする」
何度声をかけても腕を引っ張っても無駄のようだ。
小さな子どものように我儘を言って起きてこない皇帝陛下・青永翔様に向かって、私――曹明凛は大きなため息をつく。
随分と待たされて、もう空腹に耐えられそうにない。しびれを切らした私はついに奥の手を使うことに決めた。
「分かりましたよ! ちょっと顔を出してください」
「……治してくれるのか?」
「治しますよ。そういう約束で、私は後宮にいるんですから」
ごそごそと気怠そうに起き出した陛下の頬に両手をそっと添え、私は自分の額をコツンと陛下の額に合わせる。すると、私の額にある花鈿がほんのりと熱を持って光った。
「どうですか? 楽になりましたか?」
「ああ、先ほどよりも気分が良くなった」
「それは良かっ……! ちょっと陛下!」
触れ合わせた額に気を取られた隙に、陛下の両腕はしっかりと私の腰に回されている。向かい合って膝に座るような体勢になり、私は恥ずかしさのあまり両手で陛下の胸を力いっぱい押し返した。
「なんですかこれ、放してください! 私はお腹がすいたんですよー。早く朝餉を食べたい!」
「こうした方が額を合わせやすいじゃないか。ほら、ちゃんと其方の役目を果たしてくれ」
「駄目だって……言ってるでしょーっ!」
腰に回された腕をひねって牀榻に突き飛ばすと、陛下は為されるがままにゴロンと倒れた。
(ふう、危ない危ない)
「ただのモブ後宮妃である私に、こうしてベタベタするのはやめていただきたいんです!」
「ん? モブ? なんだそれ?」
陛下は牀榻に転がったまま、初めて聞く『モブ』という単語に首を傾げた。
(だって、目の前にいる青龍国皇帝・青永翔は、未来の皇后となる鄭玉蘭と結ばれる運命。『玲玉記』のストーリーでは、そうなってるの! 私にかまっている暇なんてないでしょ!)
陛下の問いには答えず、私は朝餉の並ぶ卓子の前にトスンと座る。
モブ後宮妃の私の役割は、玉蘭が登場するまでの間、皇帝陛下の身の安全を守ること。
陛下と玉蘭が結ばれるというハッピーエンドを、何がなんでも見届けたい!
「さあ、陛下! 早く食べましょう! 今朝は冷えるから、お粥からいっちゃいますか?」
「……明凛。毒見はしなくても良いと言っているだろう」
「もう! いつになったら慣れてくださるんです? もしも食事に毒が盛られていたとしても、私はここで毒を浄化できるから大丈夫なんです。安心してお毒見係を任せてください!」
額に描かれた真紅の花鈿を指さしながら、私はふふんと得意気に微笑む。
それを見た陛下は「うう」と唸ると、やっとのことで牀榻から這い出してきた。
「分かった、毒見は明凛に任せよう。だが慎重に。一度にたくさん口に入れるな。其方はいつもすぐにペロリと食べてしまうからな」
「……え?」
注意された時には既に温かい粥を口いっぱいに頬張っていた私は、慌てて至福の表情を引っ込め、椀を卓子に置いた。
第一章 転生
「――明凛、明凛!」
「お嬢様、目を開けてください!」
ぼんやりとした意識の向こうで、誰かが私の名前を呼んでいる。
声に導かれるようにゆっくりと瞼を開けると、やけにごちゃごちゃとした飾りが施された天蓋が視界に飛び込んできた。
(あれ? 私、明凛なんて名前だったっけ? なんだろう、この違和感……)
起き上がろうとしても、すぐには体が動かない。致し方なく、寝転んだまま視線だけを横に動かしてみた。
私が横たわる牀榻の傍らには涙目の若い女性、そしてその後ろには心配そうな顔をした中年の男性が立っている。
女性の方は長い黒髪を輪っかの形に結い上げ、それを簪のようなもので留めている。そして後ろの男性は、長髪を頭のてっぺんでお団子のように丸く束ねていた。
(誰なの? このオジサン……って、違う違う! オジサンじゃなくて、私のお父様だわ!)
実の父親のことを、なぜ『オジサン』などと思ってしまったのだろうか。
慌てて体を起こそうと牀榻に手を付くと、隣にいた女性が青ざめながら制止した。
「お嬢様、階段から落ちて頭を打ったばかりです。急に動かないでください」
「え? 階段から落ちたの? 私が?」
そう言われてみれば、そんな気もする。混乱している記憶を一つずつ手繰り寄せて整理するため、私はもう一度目を閉じた。
(……ああ、そうよ。私はここ青龍国に住む、黄明凛だったわ)
山寺にお参りに行った帰り道、私はぬかるんだ地面で足を滑らせ、そのまま階段から転がり落ちた。かなり高い所から落ちたので、無事に目覚めたのが不思議なくらいだ。
隣で心配そうに『お嬢様!』と連呼するのは侍女の子琴で、先ほど私が『オジサン』呼ばわりしてしまったのは、父である黄夜白。将軍を務める父を筆頭に、我が黄一族は皇都でもそこそこの名家である。
「思い出してきたわ、子琴。ありがとう、もう大丈夫よ」
「お嬢様ぁ……良かった。でも、無理はしないでくださいね」
今にも泣きそうな顔の子琴の手を握ると、私は彼女に向かって笑顔を作った。
私の記憶が混乱してしまったのには、理由がある。
どうやら山寺の階段から落ちて頭を打ったことをきっかけに、思い出してしまったようなのだ。
――現代日本で生まれ育った、自分の前世を。
前世での、とある日の夜のこと。
仕事からの帰宅途中、本を読みながら駅の階段を下りようとした私は、不注意で足を踏み外して転落してしまった。
前世の記憶はそこで途切れているから、階段から落ちた時に運悪くそのまま死んでしまったのだろう。
そしてこの世界に黄明凛として生まれ変わり、山寺の階段から落ちたことをきっかけに、前世の記憶を思い出してしまった――というのが今の状況のようだ。
よくよく見てみると、お父様も子琴もまるで古代中国のような衣装を着ている。
先ほど目に入った派手な天蓋の他にも、天井にはラーメンのナルトみたいな形をした彫刻。扉には高そうな緑色の石の玉簾がかけられ、時折吹く風に揺れてカチカチと音を立てていた。
(この世界……もしかして私、昔の中国にタイムスリップして生まれ変わっちゃったのかな)
「明凛、大丈夫か? まだ調子が悪いなら、すぐに太医を呼んでこよう」
「お父様、私は大丈夫です! それに太医様などお呼びしては、お嫡母様に大げさだと叱られます。もう少し休みたいので、一人にしていただいてもいいでしょうか」
「……そうか、分かった。少しでも変わったことがあれば、すぐに子琴を呼びなさい」
後ろ髪でも引かれるように何度も振り返りながらお父様たちが出ていくと、私はもう一度頭の中の整理を始めた。
(私の名は黄明凛。黄家の側室の娘で、お母様は私が小さい頃に亡くなったから記憶にない。お父様とお嫡母様、そして義理の兄弟姉妹と共に暮らしているんだったよね)
前世を思い出したことで少し混乱はしたものの、今世の記憶もしっかり覚えているようで一安心だ。
側室の娘――いわゆる庶子である私にとって、この黄家は決して居心地の良い場所ではない。
お父様は私にも分け隔てなく愛情を注いでくれるけれど、お嫡母様たち義家族から見れば、私は単なる邪魔者。
だから私は早くこの家を出ていきたくて、後宮の宮女選抜試験を受けるつもりでいる。
後宮の主は、ここ青龍国を治める若き第十四代皇帝・青永翔。
実はその皇帝陛下、後宮には見向きもしない女嫌いだともっぱらの噂だ。
中央の官吏たちはそんな皇帝陛下の将来を憂い、自分の娘や縁者を次々と入内させて『下手な鉄砲、数打ちゃ当たる』作戦に出ているらしい。
妃が増えれば宮女の募集も増える。よほどの失敗をしない限り、私も翌春には宮女として後宮で職を得ることになるだろう。
ちなみに今の皇宮で絶対的権力を持つのは、皇太后の夏玲玉である。名家出身の妃であっても、この皇太后に気に入られなければあっという間に潰されてしまうと聞く。
「そう言えば青龍国って、前世でも聞いたことがある気がするのよね。皇太后、夏玲玉の名前もどこかで耳にして……あっ!」
私は思わず声を上げた。
前世で駅の階段を踏み外した時に私が読んでいた本は、中華風ファンタジー小説、『青龍の女帝 玲玉記』。確か、その小説の主人公が夏玲玉という名前ではなかっただろうか。
玲玉記は、隣国の玄龍国から嫁いできた公主・玲玉が、青龍国の後宮でのし上がっていく下剋上ストーリーだ。
玲玉自身は子に恵まれず、他の妃が産んだ皇子が皇帝として即位する。しかしどうしても青龍国で権力が欲しかった玲玉は、祖国である玄龍国出身の臣下たちを集めて味方を増やし、恐ろしい呪術を使って皇帝暗殺を謀る……という、ドロドロとした展開の物語だ。
玲玉はなぜ、呪術に手を染めてまで権力に固執したのか。
その結末が気になって、何巻もある玲玉記を大人買いして少しずつ読み進めていたのが前世の私。
後宮妃たちの確執や皇帝の愛を求める女たちの戦いは手に汗握る展開で、時間を忘れて夢中になったものだ。
しかし、玲玉記の魅力はそれだけではない。
私の一番のお気に入りは、玲玉の敵役として描かれている皇帝・青永翔と、その妃である鄭玉蘭の切ない恋愛模様。
永翔が玲玉の罠に嵌められて殺されそうになった時、皇后・鄭玉蘭は永翔を庇って死んでしまう。
そして永翔も彼女を守れなかったことを悔い、「生まれ変わったらまた一緒になろう」と泣きながら命を落とすのだ。
自らの命を盾にしてもお互いを守ろうとする二人の愛に、私が何度涙したことか。
次に生まれ変わっても必ずこの二人が再会できますようにと、アフターストーリーの二次創作まで考えかけたほどだ。
そして私が今、黄明凛として生きている世界では、皇太后・夏玲玉が絶対的権力を握っている――
「つまり私は、『玲玉記』の世界に転生しちゃったってこと……?」
牀榻から立ち上がり、鏡で恐る恐る自分の顔を確認してみる。
色白の肌、華奢な腕。癖のない長い黒髪。
そして額の真ん中には、鮮やかな真紅の花鈿が描かれている。
前世の自分とはかけ離れた容姿だが、確かに私はこの姿で十八年生きてきた黄明凛だと再確認した。
翌春になれば、私も玲玉記の舞台である青龍国皇帝の後宮に飛び込んでいくことになる。
黄明凛という名の人物は玲玉記には登場しなかったから、私はきっと後宮に大勢いる名もなき宮女の中の一人だろう。
右手の小指で前髪をかき分け、もう一度鏡の中の自分の顔をまじまじと見つめてみる。
(まさか、こんなに鮮明に前世の記憶を思い出すとはね)
お嫡母様や義兄姉たちから疎まれながら生きるのが嫌だった。
どこかの家に嫁いだところで、黄家との関わりは続く。だから宮女になって、黄家に頼らずとも自分の足で立って生きていきたいと思った。
宮女なんかになったら一生誰とも結婚できなくなる! と、お父様からは止められたけれど、黄家に気を遣いながら生きるより、働いて誰かの役に立てる方がずっといい。
自分の後宮入りのことは、その程度にしか考えていなかった。
しかし、大好きだった小説の世界に転生したとなっては話が違う。
私が全力で推している青永翔と鄭玉蘭の、切ない恋愛模様が間近で見られるのだ。玲玉記には描かれていないエピソードに遭遇することだってあるかもしれない。
そう考えると、後宮入りが俄然待ち遠しくてたまらなくなってきた。
「……子琴! 子琴はいる?」
「はい、お嬢様!」
私の声を聞き、侍女の子琴が慌てて房屋に飛び込んでくる。子琴は侍女でもあり幼馴染でもある、私がこの黄家で唯一心を許せる大切な存在だ。
「ねえ、子琴。今日は何月何日だったかしら」
「お嬢様、やはり頭を打ってどこかおかしくなられたのですか……⁉ 今日は天青節。皇都で灯華祭が行われる日ですよ!」
「とっ……灯華祭ですって!?」
なんということだろう。
玲玉記の中で、青永翔と鄭玉蘭が初めて出会うのが、その灯華祭だ。
身分を隠し、お忍びで灯華祭にやってきた永翔が、空に天燈を飛ばしている美しい玉蘭に一目惚れする大切な場面。
「子琴! 今から灯華祭に行くわよ」
「えっ! でも、お嬢様は頭を打ったばかりですし、安静に……」
「大丈夫。ただちょっと遠くから静かに見守るだけよ。さあ子琴、早く準備して!」
空に飛ぶ無数の天燈の灯りの下で、永翔と玉蘭が恋に落ちる。そんなロマンティックな場面、絶対に見逃せない。
モタモタする子琴を後目に、私は一人でさっさと着替えをし始めた。
◇
青龍国第十四代皇帝、青永翔。
彼がまだ皇太子だった幼い頃、生みの母である楊淑妃が病で亡くなった。
後ろ盾がなくなった永翔は、皇帝の妃だった夏玲玉からここぞとばかりに命を狙われるようになる。
永翔の食事には密かに毒が盛られ、毒見役となった者は次々に命を落とした。それを知った永翔は心を痛め、次第に自分の食事の毒見を拒否するようになる。
食事に毒を盛った犯人はもちろん玲玉である。しかし、呪術を使って食事に仕込まれた毒はいくら調べても出所不明のままで、彼女が疑われることは一度もなかった。
毒見役を置くことを拒んだ永翔はたびたび毒を服してしまい、何度も生死の境を彷徨ったものの、なんとか生き永らえて成人を迎える。
そんな不遇な永翔を側で支えたのが、のちに皇后となる鄭玉蘭だ。
大切な人が自分のせいで命を失うことを恐れた永翔は、妃となった玉蘭ともなかなか打ち解けられなかった。しかし玉蘭の一途な愛は徐々に永翔の頑なな心を溶かし、次第に二人は心を通じ合わせるようになる。
愛する人と共にありたいと願った永翔は、玉蘭のおかげで生きようという意欲を取り戻すのだ。
そんな愛し合う二人の仲を引き裂くのが、皇太后となった夏玲玉。彼女は自らが帝位に就くために、あろうことか二人を殺してしまう。
(……うう、このまま推しの命が奪われるなんて耐えられない! いくら小説の主人公だからと言って、さすがに皇帝を殺しちゃ駄目だわ)
架空のストーリーなら楽しく読める展開も、こうして現実のものとなっては話が違う。
今の私は、玲玉記の世界の中で実際に生きている。
玲玉記を最後まで読んでいないから、皇太后がなぜそこまでして権力を手にしたいのかは分からない。しかしどんな理由があったとしても、永翔と玉蘭の幸せな未来を奪うことは絶対に許されない。
せっかく玲玉記の世界に転生したのだ。二人が添い遂げられるよう、私にも何かできないだろうか。もしかしたら私は、永翔と玉蘭の恋を成就させるために生まれ変わったのではないかとさえ思えてきた。
灯華祭にやってきた私は、二人の悲劇を思い出して涙ぐむ。そんな私を見て、子琴はぎょっとしてその場でよろけた。
「あのぉ……お嬢様。頭大丈夫ですか? 号泣してますけど」
「子琴、聞き方が良くない。せめて、頭の怪我の具合は大丈夫ですか? って聞いてくれる? それはさておき、お祭りと言えばとりあえず屋台よね。なにかツマミを買っていこう!」
「ツマミ……? それはなんですか?」
「あ、変な言葉使ってごめん。お饅頭でも買いましょうか」
「お饅頭なら私が買ってきますから、お嬢様はあの橋の袂辺りでお待ちいただけますか?」
子琴が指さす方向を見ると、青龍川の支流にかかる小さな橋が見えた。
ちょうどいい。確かあの小さな橋の下の川辺で、玉蘭が天燈を飛ばすのを永翔が見初めるはずだ。
第三者としてその場面を見学するには少々距離が近すぎる気もするが、これだけ人出が多ければ目立つこともないだろう。
「ありがとう、子琴。あの橋の上で待ってるわ」
「はい、お嬢様。では後ほど」
子琴に軽く手を振ると、私はいそいそと橋の方に向かった。
気付くと、いつの間にか日が落ちている。夕焼けは夜空に押されて山の端に消え、川沿いに点々と並んだ屋台の提灯の灯りだけが川面を照らし始めていた。
そろそろ天燈が夜空を舞い始める頃合いかもしれない。
橋の上まで来ると、私は行き交う人の波から外れて下を覗き込んだ。橋から川の水面までは、人の背丈の半分程度。川底にある石がいくつも水面から顔をのぞかせているから、大した深さではなさそうだ。
(万が一ここから落ちても大丈夫そうね)
玉蘭と永翔はまだかと、私は更に身を乗り出して人の姿を探してみる。その時、橋についていた手がずるっと滑り、突然体勢を崩してしまった。
「……きゃあっ!!」
川に落ちかけた私の口から悲鳴が漏れる。反射的に宙に向かって伸ばした手は、虚しく空を切った。
すると、偶然近くを通りかかった知らない男が、咄嗟に私の腕を思い切り掴む。
(え……!?)
男はそのままぐっと手に力を入れ、私の体を思い切り橋の方に引き戻した。
しかし、橋の上に尻もちをついた私のすぐ目の前で、助けてくれた男が代わりに川に落ちていく。
まるで前世でいうスローモーションのように、ゆっくりと視界から消えていく男。
大きな水しぶきと、男の体が川底にぶつかる鈍い音。
音に驚いた周囲の人たちが一瞬足を止めるが、すぐに雑踏に呑み込まれて流れていった。
(……やってしまった)
見ず知らずの人に助けてもらった上に、自分の身代わりにその人を川に落としてしまうなんて。
私は橋の縁に手をかけ、きょろきょろと男の姿を探した。
すると、橋の陰になった暗闇の中から、ずぶ濡れの男がゆっくりと立ち上がったのが見えた。
「ごめんなさい! 私のせいで……。大丈夫ですか?」
「……そちらこそ、怪我は?」
「おかげさまで私は何も。あ、手を貸しますので上がってこられますか?」
川の中にいる男に向かって手を差し出すと、ぬっと伸びてきた男の手が私の手を掴んだ。初春の水の冷たさとは逆に、男の手は大きくて温かい。
もう一方の手を橋にかけて登ってきた男の顔を、遠くの屋台の提灯の灯りがほんのりと照らした。
男が身に付けている袍は、飾り気のない単純な意匠だ。
しかし、深い藍色の生地は見るからに上等なもの。
身分の高そうな相手だと一目で悟り、私は男に掴まれた手を思わず引いた。しかし男は焦ったような表情で、私の手を逃すまいと力を込める。
「……っ、其方は……!」
「はい、なんでしょうか……? あ、寒いですよね。あまり役に立たないかもしれないですが、この手巾で良ければ使ってください」
巾着から取り出した手巾を渡してみるものの、男はそんなものには目もくれない。
「其方、名は? 名はなんと言う……?」
「なっ、名前ですか?」
「年はいくつだ、年は! どこの家の者だ?」
切羽詰まった形相で畳みかけるように尋ねてくるが、私にとってこの男は見覚えのない知らない相手。馴れ馴れしく話しかけられる覚えは全くない。
あっけに取られた私が口をパクパクさせていると、男の手には更に力が入った。
(痛いっ! この人もしかして、出会い頭に私を口説こうとしてる? まさか玲玉記の世界にもそんな軽薄な男がいるなんて思わなかった!)
私はガッチリと掴まれた男の手を不意をついて捻り、相手がひるんだところで再度体を押して川に突き落とした。
一瞬の出来事に、男は為す術もなく橋の下へと落ちていく。
無情にも、大きな水音が再びその場に響き渡った。
「ごめんなさい! 私、そういうのは結構ですので! さようなら!」
男に向かってそう叫ぶと、私は急いでその場を離れる。
(もう……! もうもう! なんなのよ!)
せっかく空に浮かぶ美しい天燈の灯りの下で、永翔と玉蘭が出会う印象的な場面を堪能しようと思っていたのに。
楽しそうに行き交う雑踏の合間をすり抜けながら、私は悔しさのあまり顔をしかめた。
先ほどまでいた橋の上には、なんの騒ぎかと人々が大勢集まり始めている。
皆が見下ろす川の中には、ほんの短い間に二度も冷たい川に落とされた男。
彼は頭から足の先までずぶ濡れのまま、呆然と川の中に座り込んでいた。
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