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3 夜想曲(ノクターン)
しおりを挟む隣の席に置いたカバンからスマートフォンを取り出そうとすると、そのイスの背もたれに細くて長い指をした手が乗せられた。見上げると、さっきの黒髪くせ毛ピアニストだった。
「何か聴きたい曲ありますか? 今日はお客さん一人だから、リクエストに応じて何でも弾きますよ」
ジャズの音色が止まった薄暗い店内は、私の嫌いな無音空間に代わっていた。
――何でもいいから早く弾いて欲しい。
そう言おうとしたけれど、さすがに失礼だと思って言葉を飲み込んだ。
「……ジャズにはあまり詳しくないんです」
「ジャズじゃなくても何でもいいですよ。例えば、何かテーマとかでも全然いいし」
「テーマ? 例えば?」
「そうだなあ……例えば今日なら、雨とか」
(雨、か……)
しとしとと降る日も土砂降りの日も、私のワンルームマンション監獄には雨音一つ響かない。満員電車に傘を持って乗るのも、こうして体が濡れるのも好きじゃないのに、あの無音空間のことを思い浮かべると、雨音さえも愛しく思えてくる。
「雨……聴きたいです。雨の曲、弾いてください」
「かしこまりました」
ピアニストさんは首だけでペコリとお辞儀をして、グランドピアノの前に座った。
両手をふんわりと鍵盤の上に乗せ、一度天井を見上げて大きく息を吸う。そして、まるで鍵盤に雨粒がポタリと落ちるように、そっと、メロディが響き始めた。
美しい旋律の向こう側に、雨粒のように音が連なって鍵盤に降り続けている。
「雨が歌っているみたい……」
「ショパンの『雨だれのプレリュード』よ。良い曲じゃねえ」
ピアノに聴き惚れていた私の横で、いつの間にかマスターが肘をついてニコニコと微笑んでいる。
「今日みたいな台風の雨には合わんけどね。どちらかというと今日の雨は、ベートーベンの『嵐』っていうところかねえ」
「テンペスト?」
「そうそう。テンペストもぶち格好ええんよ。今度大樹に弾いてもらおう。さあ、こちらスプモーニです。飲みながら演奏楽しんで」
黒髪くせ毛のピアニストさんは、大樹さんと言うらしい。
バーの中に降る穏やかで静かな雨音に、私はグラスを持っていることも忘れて夢中になっていた。
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