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迎撃

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~前回までのあらすじ~
 盗賊たちの許から脱出したボクとアズマは、馬も失い荒野をさ迷う。
 っていうか眠い。おなか減った~!

 ***

 すぐそこにあるように見えた山は中々近づいてこなかった。
 
 いや、近づいてはいるのだろう。
 やがて川から離れると道は緩やかな上り坂になった。地面にごつごつとした岩が見える頻度がだんだん多くなって、少しずつ景色も変わっている。

 もうどのくらい歩いたのだろう、もう太陽は高く上がり、ぽかぽかと過ごしやすい気温になっている。
 草原に影は色濃く落ちて、ボクはさっきからその影が揺れる様子ばかりを眺めている。

 頭がくらくらする。
 手も足も重くてだるい。

 気を抜けば力が萎えて、そのまま地面に崩れ落ちてしまいそうだった。
 おなかの切なさはもうとっくにどっかにいってしまって、拗ねたようにボクのことを睨みつけるだけだ。

 アズマはそんなボクのことを置いてさっさと歩いて行ってしまった。
 今はボクのずっと前に背中が小さく見えているだけだ。

 薄情なアズマに内心で罵声を浴びせたのはまだもうちょっと余裕のある頃で、今のボクは疲れ切って、そんなことに思考を裂くことなどできなかった。

 それでも進む。一歩、一歩。
 何も考えずに機械的に足を動かしてさえいれば、いずれたどり着くだろう。

 え、どこへ?

 ボクはあんな山になんてちっとも行きたくない。
 それよりここでばったり倒れて眠ってしまいたい。

 ふとシノ様の顔を思い出す。

 シノ様は出会った頃よりも大人になって、近頃はずっと美しく凛々しくなった。でもたま子どもっぽいこともあって、やっぱり可愛いなって思う。

 シノ様はボクのことを、心配してくれているだろうか。

 ううん、違うな。
 シノ様がボクのことを心配してくれているかどうかなんて、この際関係ないんだ。

 ボクがシノ様に会いたい。

 ただそれだけなんだ。

 ボクは意識が朦朧としている。思考は散漫としてまとまりがない。足を踏み出すまにまに、そぞろに物思うだけだ。
 シノ様のことや、おやじさんのこと、おなかが減ったなぁということ、宿の毛皮の敷かれた寝台でシノ様の抱き枕代わりになって眠る時の心地よさ。

 おかしいな、どうしてボクはこんなに疲れているんだろう。
 情けないな、シノ様にあれだけ鍛えてもらったのに。

 ボクは結局何もできなかった。ボクは怯えて震えるだけだった。
 アズマがいなければ、きっと今ごろまた馬車に乗せられて、どこかに連れていかれているところだろう。

 強くなりたいな。
 自分のことも守れないようじゃだめなんだ。
 ボクはシノ様を守れるくらい、強くならなきゃ……。

 ボクの意識は、そこで途切れた。
 


 次に気が付いた時、ボクは誰かの背中の上にいた。
 温かい、というか、少し熱いくらいかもしれない。

――お父さん……?

 ボクはぼんやりと思った。
 そしてすぐに違うと打ち消した。

 だってボクのお父さんは死んだんだから。
 それに昔おんぶして家に連れて帰ってもらった時には、こんなに汗臭くもなかったし、血のにおいもしなかった。

 そこまで考えて、血?とボクは首を捻った。
 その時背中がガクンと揺れて、ボクは舌を噛みそうになった。

 それで一気に夢うつつから覚めた。

「って、うわ。アズマ。どうしたの?」
「ああん。こんな時にすやすや寝てやがって」

 アズマは相変わらず乱暴な口調で言って手を放した。おしりを支えていた力がなくなって、ボクはそのままずりおちて地面に尻もちをつく。

 ひどい!

 知らない内に周りの景色は変わっていた。
 随分登って来たらしい、斜面はずっと下って平原を見下ろし、今朝目覚めた河の姿も向こうに見える。
 ボクらは山の間の緩やかな谷筋へ入りかけていた。

 どうやらボクは、アズマに担いでもらってここまで来たらしい。
 なんだかんだ言って助けてくれたようだった。

 もごもごとお礼を言うと、
「礼はとっとけ」
とアズマは唸るように言った。

 そして背後の景色をあごでしゃくる。
 その時ボクは遠くから、ラッパのような音が響くのが聞こえるのに気が付いた。

「あれ、なに?」
 不安になって尋ねると、奴らだ、とアズマが簡潔に答えた。

「もう自分で歩けるか」
「う、うん」
「なら行くぞ」

 アズマは大股で早足で歩く。
 ボクはその後ろを走ってついて行く。寝起きのマラソンはちょっとつらいが、そんなことは言っていられない。

 アズマの背中で休ませてもらったおかげで、身体はともかく、心は随分と回復していた。

 まだ頑張れる、まだ死にたくないと思える。

「いいか、日暮れまでの勝負だ。夜になっちまえば、松明程度じゃそうそう見つかることはねえし、奇襲だってできる。
 それまで逃げ切れば俺らの勝ち、追いつかれれば負けだ」

「うん、分かったよ」

「疲れてんだろうが、気張れや」



 必死で追いかけるアズマの背中は傷だらけだった。古傷もあれば、昨日つけられた傷も血の跡も生々しく残っている。
 それから彼の肩口には手のひら大の呪印の痕があった。

「アズマも奴隷だったの?」
「ん?ああ」
「おそろいだね」
「嬉しかねぇよ」

 アズマはぽつりぽつりと話してくれた。

 ボクくらいの頃に人さらいにあったこと。
 奴隷として売られ、戦争奴隷として剣を習わされたこと。
 部隊長に虐待されたこと。その隊長を殺し、出奔したこと。

「知ってるか、お前。その呪印、意外と脆いんだぜ。焼くか削ぎ取るかしたら効果が切れるんだ」

 確かにアズマの呪印は半ばほどまで火傷のひきつれで歪んでいる。
 ボクはそれを聞いて顔をしかめてしまった。だって想像するだに痛そうなんだもの。
 けれどアズマはなんだか得意げだった。

「呪印を受けた者は権利者が一言呪文を唱えれば苦しみ、もう一言付け加えれば死ぬ。でも俺が生きてるんだ、俺の呪印は今やなんの意味もないラクガキなのさ」

 息切れの合間にそんな会話をしながら、ボクらは谷筋を登り続ける。

 太陽は中々沈まない。今は西の空の少し高いところをさ迷っていて、真っ青だった空が少しくすみ始めた程度か。

 ボクはどこかに隠れられる場所がないかと探している。
 けれど膝の下程度の大きさのごつごつとした岩はよく転がっているのだが、この明るさの中、隠れていて見つからないような場所は見当たらなかった。

 ラッパの音は聞こえる度に近づいている。
 陽が沈むまで逃げ切ることは不可能なように思えた。

「……お前、あの岩の陰に隠れてろ」
 立ち止まり、アズマが唐突に言った。

 アズマがあごで示した岩は確かに他の岩より大きくて、ボクならぎりぎりで身を隠せるかもしれない。
 けど……。

「アズマはどうするのさ」
「迎え撃つ」

 アズマは唸るように言った。

 急にその身体が熱を帯びたようだった。元から大きな身体が、もう一回り大きく感じる気さえする。

 アズマは戦う気だ。丸腰で、相手は武装した何人いるか分からない騎馬。

 それでも勝つ気でいる。

 でもボクは、アズマが戻って来ないのではないかと恐れた。自分を捨て駒にしてボクだけを生かそうとしてくれているんじゃないかと思った。

 彼はそんな殊勝な心構えの人間じゃないと思う。
 けど、少なくとも足手まといのボクのことを置いて行かなかった。

「……ボクも戦うよ」

 戦う。あの恐ろしい連中と。

 ボクの頭を蹴とばしたカウイって男の顔と、アズマが腹を殴られた時の音を思い出す。
 たったそれだけで、ボクの足は震え出しそうになる。

 でもボクだってシノ様の弟子の呪術師だし、剣術だって習ってるんだ。
 アズマひとりを戦わせるわけにはいかない。

 気負うボクの頭を、アズマが乱暴に撫でた。

「邪魔だ。お前を守りながらじゃ戦えない」

 はっきり言われて、ボクは目の奥に熱いものが溜まるのを感じた。
 そう言ってくれたことへの安堵が半分と、安堵した自分への情けなさが半分。悔しさもあった。

「……ごめん、ボクが馬を逃がしちゃったから」

 ボクは思わずアズマの腕に縋り付いていた。
 アズマはボクを責めなかった。

「いい。俺が日ごろからもうちっと真面目に馬番してれば、あいつも逃げずに付いて来てくれてただろうしな」

 そしてアズマはボクを引きはがして乱暴に突き飛ばした。

「さっさと行け。日が暮れるまでの時間稼ぎくらいはしてやる」
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