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~前回までのあらすじ~
 サイラスの山小屋で休息をとるボクらは、ヤギの隊商を率いるグルンさんの一行と一夜を共にした。シノ様に身体の不調を祓われたグルンさんは元気に旅立って行ったのだが、シノ様はそれと引き換えるように熱を出してしまった。

 ***

 忙しない呼吸音が小屋の中に響いていた。それから小さく呻く声と、唾を飲み込む音。
 シノ様は毛布の類に埋もれるようにして赤く腫れぼったい顔を時折苦しそうにしかめている。
 
 夜になってもシノ様の熱は下がらなかった。
 それどころかひどく辛そうに呼吸している時間も増えて、ボクの目には悪化しているように見える。

 傍の囲炉裏には大きく火が焚かれていたが、照らし出される顔はみな浮かない表情をしていた。

 つい今朝までは、グルンさんたちもいたし、小屋の外ではヤギがうるさく鳴いて小屋は賑やかだった。
 それが今ではひそひそと言葉が交わされるのみで、おかげでシノ様の荒い呼吸の音が余計に大きく聞こえている。

 シノ様に熱があると分かった時にまず疑ったのは、昨日の術の失敗や反動だった。
 しかしこれはイチセが否定した。
 昨日の儀式はつつがなく進行され、そして無事に終わった。呪い除けの結界も破壊されていないし、失敗なんてことはあり得ない。

 次には、山惑いとやらの山の呪いの影響が疑われた。
 これにはゴドーさんとセリナさんが首を傾げていた。以前ゴドーさんが経験したものとは症状が違う。
 けれど、これに関しては詳しい者がいないのでよく分からないところだ。

 いずれにしろボクは、術の失敗や、誰かに呪いをかけられているわけではないと聞いてほっとしていた。
 シノ様は無理を押して旅を続けてきた。その疲れが出たにしろ、山惑いの影響であったにしろ、遅かれ早かれ無理をした分は休む必要はあったのだ。

 しかしアズマたちの表情は険しかった。
 峠に雪が降っていることが問題だった。

 トモン峠が年中雪で覆われた場所だということはボクもイチセから聞いて知っていた。
 けれど、イチセが通り抜けて来られたのだ、十分に抜けられるとも思っていた。

 でも雪が降っているとなれば話は別だ。

 常に雪で覆われるのは峠の前後、高低差百数十メートルの、半日あれば十分に通り抜けられる範囲だ。
 しかし雪はその範囲をぐっと広めているだろうし、新雪は柔らかく、歩きにくい。容赦なく足をからめとって体力を失わせるだろう。

 今ならまだ通り抜けられるだろうとグルンさんは言ってくれた。
 まだ新雪は膝にも届かない程度しかなく、山慣れない者でも注意して進めば日が暮れる前に雪原を越えられる。

 ただ遅れれば遅れるほど通行は難しくなり、すでに季節は冬の入り口だ、断念するならば来年の夏を待つことになる。

「イチセのラバに乗せて、とりあえず道を急ぐか?」

 アズマの言葉にイチセが首を横に振った。

「山惑いの可能性もあります。山の呪いであれば、進めば進むほど拒絶は強くなり、最悪の場合死ぬことになる。わたしは、一度下山して来年を待つことをお勧めします」

「その場合、盗賊はどうしましょうね。そもそも山越えの目的は、盗賊の手の届く範囲からアズマとイヅルを逃がすためだったはず。あと一年待つことになれば、その一年の間、盗賊から逃げ続ける必要がありますね」

 セリナさんが難しい顔をしていた。
 ゴドーさんも同調して頷く。

「そうだな。今はどうやらうまく姿を眩ませられているようだが、今後どうなるか分からん。奴らのことなど仲間とは思っていないだろうが、奴らにしてみればお前は仲間殺しの逃亡犯だ。仲間内の規律を破った者を野放しにしておくことはできんだろう。他の者に示しがつかんからな」

 どうやら、ゴドーさんとセリナさんは無理をしてでも峠越えを強行すべき、という意見のようだ。

 それを聞いてイチセが眉をひそめた。

「お姉ちゃんがそれで死んでも構わないって言うんですか?」

「君の言うことはあくまでシノが山惑いであった場合の話だ。俺は自分の経験上、シノの症状は山惑いではないと思っている。
 そしてアズマとイヅルが盗賊に狙われていることは事実だ。そしてシノが、二人を逃がすために多少の無理をしてでも道を急いだこともな」

「わたしはこの道を通り抜けてきました。だから峠を抜けてもしばらくは急な下りと登りが連続する森林地帯が広がっていることを知っています。気候も急に変わり、雨が多くなって気温も場所により乱高下する。
 無理を通して余力のない状態で峠を抜けることは危険です」

「雪道を越えた先でゆっくりと休むのではいけないのか?」

「山惑いに対する特効薬は下山なんです。そのくらい、経験があるというのなら分かっているでしょう。
 わたしは、お姉ちゃんの命を天秤にかけて退路を断つことなど絶対に承服できません!」

 イチセの視線が険しくゴドーさんに向かった。ゴドーさんはその視線を事も無げに受け流す。

 険悪な雰囲気が小屋の中に流れていた。
 あ~、ヤダな。
 こういうギスギスした雰囲気……。

 ボクはシノ様のことが一番大事だ。
 だから当然、大事を取って撤退すべきというイチセの意見に賛同する。

 でもゴドーさんの言うとおり、国内に留まって盗賊に見つかる可能性も軽視できない。

 ボクとアズマがひどい目に遭うだけならばまだいい。
 けれどきっとボクに危機が迫れば、シノ様はきっと助けようとしてくれるだろう。
 その時に何も失わず奴らに勝てるなんて到底思えない。

 それにゴドーさんとセリナさんは、どうせフミルに帰るのだからと厚意で行動を共にしてくれているだけだ。ボクらに付き合って一年も帰国を遅らせる気はないだろう。
 もしも盗賊たちと戦うことになっても、その時には二人ともいないと考えておかなければいけない。

 そこまで考えた上で、大事を取って撤退するか、未来の危険を重視して強行するかを決めなきゃいけない。

 ボクは先のことなんて分からないから、目前の危険を避けて通りたいと思ってしまう。

 でもセリナさんとゴドーさんは、ここまで一緒に旅をしてきた仲間だ。
 別れることになると分かっていてあっさり下山を決めてしまうことも、なんだか不義理な気がする。

 ともあれこの険悪さをどうにかしなくてはと、何を言うべきかも分からないまま口を開きかけた時、アズマの大あくびが小屋の中に響いた。

「当人が寝てる間にあれこれ言っても仕方ねぇ。まあとりあえず、明日の朝が元々の出発予定だ。それまで待ってみようぜ。
 案外、一晩寝ればひょっこり元気になってるかもしれねぇしな」

 アズマの言葉に、イチセもゴドーさんも頷いた。

 しかし翌朝になっても、シノ様の体調が戻ることはなかった。

「わたしはここまでね……。すぐには治りそうもないし、治っても、体力を失った状態で峠に挑むほど無謀じゃないつもり。だから、……さよなら」
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