サボテンの残響

みのりすい

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 初めのお父さんが家を出て行ったのはわたしが七歳の時のことだった。その頃母が毎晩のようにヒステリックに叫びまわっていたことを覚えている。父は心底面倒くさそうに二言三言口を開き、母はその間にも泣いたり喚いたり激しく父を罵った。父が浮気をしていたと分かったのは、わたしがもう少し大きくなってからのことだった。
 専業主婦だった母は、生活のために働きに出るようになった。結婚までに社会人経験がなく、娘のわたしから見てもぼんやりした人だったから、母はいつも仕事から帰ると疲れ切ってぽろぽろと涙を流した。
「お父さんはわたしたちを捨てたのよ。お父さん、お母さんや慧瑚よりも大事な人ができたんですって。こんなに変わっちゃったのはお父さんのせいなのよ。慧瑚、ごめんね。お父さんを信じ切って、なんだかんだ助けてくれる人なんだと思っていたから、お母さん、未だに信じられないの。夢の中みたいに思うのよ。目が覚めたら、全部悪い夢だったって分かるの。前みたいに朝は慌ただしいけど、あの人とあなたを見送って、掃除をしたり夕食の下ごしらえをしたりして一日を過ごすの。夕食を作っている間はね、二人がおいしいって言ってくれる顔を思い描くのよ。そうしたらわたし、幸福で、幸せ過ぎて、もしかしたら全部夢なんじゃないかって怖くなるの。あなたが帰って来て、わたしの腰にぎゅって飛び込んできてくれて始めて、ああ、夢なんかじゃないんだって、安心できるのよ」
 母が次のお父さんを連れてきたのはその翌年のことだった。
「ごめんね、慧瑚。今までお父さんがいなくて寂しかったでしょう。でもこれからは大丈夫。今度のお父さんはわたしや慧瑚のこと、ちゃんと考えてくれる優しいひとだからね」
 母はそう言ってうっとりと笑った。
 わたしは新しいお父さんなんて欲しくなかった。けれど子どもには父親がいなくちゃと言っているのを聞いたことがあったから、母がわたしのために連れて来てくれた人なんだと何となく分かった。
「良かったね、お母さん」
 わたしは母の安らいだ笑顔が嬉しくて微笑んだ。
 二番目のお父さんと母は入籍していなかった。相手は母のパート先のスーパーの従業員で、母よりも少し年上だった。
「ねえ。今日、お役所から結婚届貰って来たんだけど」
 母が言うと、お父さんはスマホの画面から目を逸らしもせず、いいだろ、別に、と言った。そんな会話を何度か繰り返すうち、母もその話題を出さなくなった。
 お父さんはわたしと母が住むアパートに住み始めた。初めの頃、お父さんはわたしに対して優しい顔を崩さなかったし、少し距離を置いて、わたしが近づくのを待ってくれていた。しばらく時間が経つとわたしも慣れて、一緒に公園に行ったり、ドライブに連れて行ってもらったりしていた。
 母が茉鈴を妊娠して、しばらく入院のために家に居ない時のことだった。お父さんはわたしに一緒に風呂に入ろうと言った。わたしはすっかりお父さんに心を許してしまっていたから何の疑問も持たなかった。
 お父さんはわたしに、性に関するあれこれを教えてくれた。わたしに触らせて、こうやって大きくするんだと言った。お父さんは熱に浮かされたような目をして、わたしを見ているはずなのに、わたしのことをまるで見てはいなかった。
 幼いわたしにもそれがいけないことだとなんとなく分かった。でも怖かったから、無邪気さを装って気が付かないふりをしていた。お父さんは真っ黒に塗りつぶされて、まるで得体のしれない靄のようなものに見えていた。
 無事に茉鈴が生まれると、お父さんは育児休暇を取って毎日のように家に居るようになった。黒い靄は出産の疲れと睡眠不足でやつれたお母さんに理解のある父親のふりをして、その裏でわたしに男のものの知識を教え込んだ。
 わたしの知らないふりは自分自身に対してさえ功を奏した。わたしはその時が来ると、無邪気さを表情に張り付けて過ぎ去るのを待っていた。その間は不思議と感情も感覚も鈍麻して、過ぎ去ると思い出すことさえ難しくなった。お母さんに言いつけることなんて思いつきもしなかった。お母さんは茉鈴のことで精一杯だったし、言ったとしても、たぶん信じてくれなかったと思う。
 茉鈴が一歳になった頃、お父さんは出て行った。わたしが大きくなったからか、もっと住みやすい家庭を見つけたのか。お母さんは泣き喚いていたけれど、家の中に黒いものが徘徊することが無くなってわたしはほっとしていた。ほっとした自分に気が付いて、嘆き悲しむ母を裏切っているような気がして苦しくなった。
 お父さんがいなくなって、母は茉鈴を保育園に預けて忙しく働くようになった。朝は早くに起きて、わたしと茉鈴のための準備を整えた。仕事に出かけて、夕方、わたしが一人で待つ家に茉鈴を連れて帰ってきた。
 母は毎日休みなく働いた。柔らかく微笑んで見せる母の表情からは日に日に光が衰えて、虚ろな目が空をなぞった。
 わたしは母に楽をさせてあげたくて、頑張ったけど、何もできなかった。料理や洗濯、掃除、買い物、茉鈴の世話を手伝ったけど、わたしはまだなにもできない子どもだったから、お父さんがいた頃のような母の笑顔を、わたしは取り戻すことができなかった。
 神さまは、わたしができなかったことを瞬く間にしてみせた。神さまに出会ってから母は見違えるように明るくなった。表情が変わるとまるで十ほども若返ったようで、昔の母が帰ってきたみたいに感じられた。
 母は毎週末にはわたしと茉鈴を近所の集会所に連れて行った。そこには近所で通りすがるいろんな人が顔をそろえて、変わりばんこに神さまに関することを発表し合い、身の上話を伝え合った。壇上に立ち、それぞれの事情に涙し、喝采した。
「我々は皆、神の子です。選ばれ、愛されているのです。神は私たちに、時として理不尽とも思える試練を課します。しかし恨んではなりません。なぜならそれは償いだからです。人間は全世界に対する罪を背負っています。人間は争い、他者を殺します。生きるために動物の肉を食います。神の与えた生殖の神秘を我が物のように扱い、作り変え、濫用します。神の被造物としての己を忘れ、分相応をはみ出します。人間は傲慢の罪を犯しています。選ばれない者どもは、我らの積み重ねた功徳の上に罪を上塗り続けます。しかし許しましょう。彼らは知らないだけなのです、未だ選ばれないだけなのです。憎しみの代わりに憐れみましょう。彼らを救ってやりましょう。それが我らの功徳となり、降りかかる試練に精錬された我らが魂は、より美しく、上位の存在となって神の御許へと近づくことが許されることとなるでしょう」
 壇上の遠山教師が語り終えると、広い集会場の中に詰めかけた人々から喝采が巻き起こった。中には話の途中から涙を流す人もいる。
 この場所にいる時のわたしは独りだった。
 母に初めて連れて来られた時には、分からないなりに神さまを信じていた。わたしの知らない聖典の一節をそらんじる他の子どもの様子を見て、わたしも同じようにしなくちゃと、母に手渡された分厚い本を読み込んだ。
 難しい本を何度も読み込んで漠然と意味が分かり始めた頃に愕然とした。どうやらわたしの魂は罪に浸りきっているらしいのだ。わたしは黒い靄に握らされたものによって穢され、神に最も嫌悪されるべきものへと堕落しきっている。再び神に愛されるためには、より深い信仰と魂の精錬が必要なのだ。
 母を選んだ神さまに、わたしは選ばれていない。
 わたしは自己精錬とやらを行うことより、選ばれていないことを周囲に隠すことを選んだ。詰まるところわたしは、穢される以前から神さまに愛されるほどの高潔な魂を有していなかったということなのだろう。
 集会の後、母と妹を待つわたしを見つけて遠山教師がちょいちょいと手招きした。わたしは顔をしかめそうになるのを抑え、従順な信者の笑みを装って小走りに駆け寄った。
「お呼びですか、遠山教師」
「ああ、いいよ。会は終わったからね、今はただの礼二の父親だ」
 遠山教師は演説中の厳かさを引っ込めてからからと笑った。まるで気のいい休日のおじさんに見える。
「しばらく顔を見ていなかったから心配していたんだ。どうだい、学校は。忙しいかい?」
「はい。学校もですが、今年は受験の年ですから。つい勉強に熱が入りすぎてしまって」
「そうか。慧瑚ちゃんは勉強を頑張っているんだね。それはとても大事なことだ。神は自らを救うものをこそ救う。自己鍛錬はとても大切なことだ、神はいつも見ておられるのだからね。ただ、がむしゃらに自分を打ち直そうとしても、一人ではいずれ形が歪んでしまう。手許だけを見て引く線が、すぐに歪んでいってしまうようにね」
 遠山教師はわたしを見る目を少しだけ細めた。わたしはぞわりと背筋に走る震えを隠して首を垂れた。
「はい。ありがたい教え、ありがとうございます」
 遠山教師は再び休日のおじさんに戻り、微笑んだ。
「今の僕はただの同級生の父親に過ぎないんだから、そんなにかしこまる必要はないんだ。じゃあ、また来週も会えることを神に祈っているよ」
 外に出て誰も様子を窺っていないことを確かめてから、わたしはそっと息を吐いた。
 遠山教師はきっと本気でわたしのためを想って言ってくれているのだと思う。家族を人質に取ったようなことを礼二に伝えさせたのも、きっと神さまの道を踏み外さないようにという気遣いだったのだろう。
 信者たちの中に悪い人なんて誰もいない。むしろ誰もが世の中を憂い、本気で自分たちの信仰で世界が平和になることを望んでいる。世界は信仰により罪から救われ、清浄に生まれ変わると信じている。
 その無邪気さが空恐ろしかった。
 神に選ばれた自分たちには、罪深き者たちを導き、救ってやる役目があるなどと、そのように信じられることこそが傲慢と呼ぶべき罪ではないのか。わたしにだって思いつく疑問を抱くこともなく、みんなしてありがたそうに手を合わせて首を垂れる。信仰の名の許に思慮深さが否定され、誰かの考えをさも自分の考えのように振りかざすことをこそ喜ぶ。繰り返される結論ありきの議論、同じ考えの者同士で慰め合っているだけなのに、その中にあってさえ上下関係をつけたがる。
 いつからかわたしは祈りを捧げる人たちを、そんな風にしか考えられなくなっていた。
 善意の人たちをそんな風に悪しざまに思うのは良くないことだった。
 いつだって悪いのはわたしばかり。
 母も妹も、神さまの忠実な信徒だ。
 母と妹とわたしと、三人で並んで歩いて帰る。母は妹と顔を合わせて、今日も素晴らしいお話だったわねと話しかける。妹はいつも仕事で朝も夜も留守にする母と一緒に居られるこの日が嬉しくて、何も分からず上機嫌に頷く。
 母はわたしに話しかけない。わたしが信仰に熱心でない、罪深い子であることを知っていて、そのことを深く恥じているからだ。
 母が神さまに出会うのがもう少し早くて、わたしがまだ何も分からない子どものままであったなら、わたしも茉鈴みたいに、母と母の信じる神さまのことを深く信じていられたのだろうか。それとも顔の分からないあの人に穢されて、選ばれない子になる前のわたしであったなら、盲目に涙を流す人の群れの中に混じることができていたのだろうか。
 例えばテストでいい点を取った時、運動会で頑張ったり、何か人に親切をしたりした時、母はいつも神さまを引き合いに出して褒めてくれた。神さまもお喜びになる、神さまのおかげ、神さまが見ていてくださる。それはたぶん母の思う一番の褒め言葉に違いなかった。けれどわたしは余計な冠をつけず、すごいね、えらいね、と短くて簡単な言葉で褒めてくれた昔を懐かしく思った。今はまるでわたしと母の間に神さまという名前のフィルターがあって、神さまの言葉を母が代弁しているようだった。
 わたしを見てほしかった。神さまなんて関係なく、母とわたしだけの繋がりの中で、わたしに微笑みかけてほしかった。神さまに、母を返してほしかった。
 そして母はわたしを捨てた。わたしなんかより神さまの方がよっぽど大事なのだそうだ。そりゃそうだよね。わたしはなにを期待していたんだろう。
 あは。

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