秘密の華

Soraneko

文字の大きさ
上 下
1 / 1

秘密の華

しおりを挟む

  或る山の奥深くに小さな泉が在った。その山は、幽玄な自然を抱えた、連なりの一劃であった。泉の流れは、山に染み渡り、永い年月の間、その懐に留めていた雨水が我慢ならず溢れ出ると云った、純白の輝きを巌の表面に映している。又その流れは地面までの小さな瀧を作り、山肌を伝い、小川となり、様々な流れと混ざり合い、やがて一本の大河となって、海に注いだ。周囲に乱れる、あるがままの岩々は、壮大で、苔むした表面の僅かに欠けた部分が黒光り、畏怖の念すら抱かせる、太古からの偉大さを以てそこに存在していた。辺りに聳える樹々も同様に、太く、幹にはその威厳を纏うかの如く、深まった色を湛える、大きく角張った、鎧のような樹皮が敷き詰められていた。
  泉は巌が成す連なりの頂き近く、臍のような、小さな窪みから溢れ出ていたのである。
  然し、ここは小魚の一匹もいない所であった。代わりに、その周囲には苔に満ちた大地と樹々が自然に乱れ、存在していた。その広がりは泉を中心として、内包されて解き放たれぬ、プリミティブな美しさを密かに含んでいた⋯⋯
  
  或る日、泉のささやかな清流が染みた、小瀧の脇の地に、小さな子葉が二葉、顔を覗かせた。それは、一日中頻りに雨(この雨は下界には降ることのない、恵みの雨であった)が降り、山がその純白のヴェールに包まれていた日のことである。子葉は、美しい曲線を描き、天上に向かって、しなやかな青々しい帆を張った。辺りに立ち込める柔らかなヴェールは、初々しいそれに何かーー未だ誰にも知られていない何かが、包まれているような気分を濃厚にしていた。然し、もちろんそれは未だ誰にも知られないので、子葉はポツンと唯そこに存在しているように、見えるだけであった。日々の雨水は地に染み、豊かな地を奥深くまで潤していた。
  又或る日、湿気に満ちた森は、白みがかった靄に包まれていた。森の上には、ぼやけた曇天の空が広がっていた。森の中では、苔の緑がぼんやりと白んで透けている。靄は、血管のように地面を浮き出た樹々の根や、不規則に散らばり、連なった巌の起伏を、滑らかに伝っていった。健気な子葉は、靄の移動に任せてゆらゆらと揺れていた。靄の往来は繰り返され、森は何度も焦れったく表面を撫でられた。
  然し、天上を覆う雲はいち早くこの場を過ぎ去り、靄は、太陽が出てくると、綿のように繊細にその光を淡く纏い、樹々に生えた苔を絡め取るように、何処かへ抜けていった。
  靄が去った後、こまごまとした葉の重なりから零れた日光は、澄み渡った辺りの空気に、鮮やかな色彩を与えた。意味もなさそうな現象が突然に始まり、突然に終わる。不思議なことが、この場所ではごく自然に受け入れられていた。
  太陽が沈んでも、星々が夜空一帯を飾り、月は昨日よりも微かに膨らんで現れた。月光の照らす地に、子葉の主根は力強く刺さり、側根はその周囲に広がった。柔らかな土に蓄えられた養分は、どんどんと吸い上げられ、飛び出た葉の付け根からは、茎が伸びていった。暫くもすると、四方にしなやかな葉をつけ始めた。次第に葉脈も浮かび出て、表面を巡り、縁の部分も細かく、鋭利に尖り始めた。その造形は何処か不規則なようで、思慮深く計算されたような、奇妙なもので、広すぎる程の空間が目の前にあるにも関わらず、その成長には何処か優美な謙虚さがあったのである。
  その脇を下る泉の流れは、せせらぎの音色を葉に聴かせた。流れの内から飛び出す水の音、外から現れる水の音、心地よく弾ける水の音、空気をさする水の音ーー流れゆくような、満たされるような、不思議な音が葉の脈に打たれていた。しぶきが飛び散るように、それらは面白く地面を弾んだ。そして、何処か見えない場所へ行き、溶け合った。然し、それらの背後の(水中をひたすらに駆け巡る)聴こえない音が、僅かに重々しくもがいていた。その音すらも、確かに脈を伝っていたのである。
  そして、葉は一つの小さな蕾を付けた。それは根元から萼に覆われていた。樹葉の間から注ぐ、太陽の光やそれによる泉の流れの反射、それが擦れる際に現れる泡ーーそんな光景を思わせるような色をつけ始めたそれは、深い緑に包まれた世界では次第に、それだけが輪郭の縁を描かれたような、異彩を放つようになった。だがその異彩は、周囲とのごく自然な調和を、いとも簡単に果たしていた。
  泉の水は、先日の雨のせいか、荘厳な瀧のように、しぶきを上げながら、快活に下へと流れていた。流れの上に現れる、白波も威勢よく弧を描き、そのまま下流に飛び込む音や、泡の弾ける音が、静まった森の中を華やかにした。その水は、山に濾過された、やはり澱みの一つ無い、清らかなものであった。又澄み渡る空の元、樹々は伸びでもするかのように、微風に葉を震わせた。蕾は、木漏れ日と影との明暗の絨毯に包まれ、又自らも明暗の点滅を纏った。そして日に〻〻、その点滅も広がりを見せていった。
  然し、華々しい日々の中、その広がりはある日を境にして、ピタりと止んでしまった。太陽や月が蕾を照らしても、微動だにしない。それは、そこに小さくとも、周りの樹々のように大きな、一本の柱が立っているように思われる程、立派な様子であった。

  ーー朝日が下から光を押し上げる。その光は萼の覆いを切り裂く勢いで、蕾を鋭く差す。そして、深い山脈の表面を一斉に照らす様子は、いつまで経っても壮観なものであった。この世で最も烈しく燃え盛る円の周囲は、図らずも白色に染まっていたが、時間が経つと共にそれは消えてしまった。そして今度は酷く赤らんだオーラを纏い、燃えたぎる姿を静かに沈ませていった。上下左右に揺れる幾千万の光子の粒が、沈み際、やるせなく解き放たれてはそのまま宇宙の果てまで進んで行くのだった。
  雨が降る。大粒の滴を垂直に叩きつける激しい雨から朝霧のようなささやかな雨まで様々に。雨が大地に降り、雲や靄はすぐに消えたが、地面に染みた消えることのない恵みは、樹々を育て、川に注ぎ、海の奥まで行くと、また山々に降り注いだ。子葉は、そんな雨粒が落ちて来ようとも、しなやかに弾いてしまった。
  又、風が吹けば、鮮やかに撓るだけで、直ぐに元の姿勢を取り戻した。子葉は、自分を押し潰そうとする力に屈することなく、周りの樹々や巌のように、勇ましく平静を保った。
  月が昇る。夜空には遠い昔から来る、細やかな光が、覆いを被せたように、幾つも〻〻〻犇めいていた。それらの光は、地上を照らすでもなく、ささやかな輝きを放った。地上に届かない光は、不確かな薄い幕のように思われた。それは翻るかと思えば、姿を消したり、煌めいたりした。静けさはそんな様子に息を潜めていた。そして、森が月夜に眠ろうと、子葉はその不動を貫いた。
  然し、その間に流れた雨水は皆、蕾の下で勢いを失い、消えていたのだ。弛みなく流れる小瀧の水だけが、その内に秘めた、後に解き放たれる力を、反射する光と共に映しているように思われた。又、その様子には、白鳥が湖から飛び立たんとする刹那の、翼の膨らみに似たものがあった。ーー真っ白な白鳥ーーその様子は、いつか、その身に付着した水滴をも篩い落す勢いで、大空へ飛び立ち、日の目を直に浴びると云った、大変に潔く、輝かしい瞬間を予感させていたのだ。周囲の空気を重々しく押しのける、そんな羽音が、何処からか聞こえてくるようであったーー

  ーー羽音ーーーーバサバサ!バサバサ!と云うような音がして静かなこの地に突然何かがやってきた!鳥が一羽、不器用な羽音を立てながら空から落ちてきたのだ。翼はもうボロボロにやつれていた。鳥はその翼を懸命に動かしているが、その甲斐もなく急速に落下し、途中太い枝にぶつかりながら、蕾と一メートル程離れた地面に叩きつけられた。ほんの一瞬の出来事である。跗蹠の小刻みな震えも少しずつ消え、趾は張りが消えると同時に、力無く内側へ丸まった。目は光を失い、腹から押し出された、様々なものを含んでいるであろう、不思議な和音が鳴り響くーーまた静けさが戻ってきた。周りには飛び散った羽が散乱していた。そして、鳥は遂に動くことはなかった。
  その場所には草々が、その瞬間を指をくわえて待っていたかと云うように、恐ろしい早さで生い茂っていった。彼らの根は深く、強く、地中に刺さっている。遠慮のない自然の内力が顔を見せた瞬間であった。樹々の影を器用に縫いながら、彼らも又光を求め、懸命に首を伸ばしていた。草々は、鳥の亡骸の端々からも顔を覗かせ、次第に腐敗する屍の、日に〻〻増えていく欠落を埋め、そんな勢いに鳥の姿は沈んでいった。
  その間にも、時は刻まれた。そして、誰にも知られぬままに、白い蕾は少しずつ動き始めていたのだった。
  
  触れるだけで壊れてしまいそうな程に薄く、然しその節々は逞しく張り詰め、大胆な広がりを見せた花弁は、日中には木漏れ日を透かし、逆さに幾葉も、黄金に透けた、幻の花弁を複製し、夜中にはその内に月光を映し、僅かにその光を漏らしながらも輝きを蓄えていた。子分のような辺りの草々もその様子を囃し立てるようにさらに生い茂る。静かな気分は何処かへ行き、それらはどんどんと勢いを増していった。そして、押し合い、踏みつけ合い、根をも複雑に絡ませ合うと云った、草々の無限の争いは終わりを見ないように思われた。畏怖の念など忘れさせるような光景であった。然し、そんな世界の中心で花開いた小さな美しさは、辺りの様子のために、より顕著に特別な存在となった。草々も辛うじてその禁域には立ち入らず、内に秘められた力が、日に〻〻少しずつ、花弁を広げ、光はその分だけ輝きを零していった。草々の広がる大地には、姿こそないが、円を描く囲いがあるように思われ、辛うじて蕾は守られていた。
  
  又雨が降った。地面に次々と水滴が吸い込まれていく。空は薄暗く、樹々の葉蔭は一層の濃さを増した。辺りの草々は情けなく潮垂れ、雨粒が当たる度にその薄い体をしならせていた。然し、あの花は力強く根を地面に刺し、芯の通った茎は頭を垂れることもなく、唯一その場に聳え、互いにのしかかり、無秩序な束となった、その滑稽な姿を見向きもしないような凛々しさを、辺りに醸していた。
  いつの間にか訪れた夜が明け、太陽が昇ってからも暫くの間、雨は降り続いた。然し、雨が簡単に上がろうとして、最後に一滴の雨粒をそこへ落とした刹那、唐突にその時はやってきた。陽の光が、優しい色をした雲の狭間から垣間見え、降り注ごうという瞬間に、その広がりに高潮を見せた花弁は、幾つか雫をその上に乗せながらも、共に照らされ、雫に屈折した光を内に映し、その純白の上に、移りゆく様々な色彩を見せた。雫が地に落ちる度にその光も跳ね、共に消えていく。辺りは平らな緑の地があるだけで、彗星のようなその輝きだけが唯一の存在であった。
  樹々の葉から零れ落ちた雫が、ゆっくり時間をかけて、ぽたぽたと落ちてくる。草々の上に落ち、そのまま地面へ滑り落ちていくもの、泉の流れに同化していくもの、樹々の幹を愚図々々と伝うもの。太陽も時間をかけて落ちていく。斜陽が山を照らし、斜めに分断された光と闇の世界が、それらの小さな球体の中にも確かに存在していた。
  
  ーー然し、雫も光も永遠では無い。もちろんそれにも限りがあるのだ。直ぐに日は沈み、月が昇る。湿気も消えて、また図々しい草々が乱れることになった。その勢いはいつにも増して凄まじく、大量の水を得たのをいいことに彼らは好き放題に暴れた。そして、遂にはその栄華の中心にまで根を張り始めた。地面は既に根が張り巡らされ、もう僅かな隙間すらないような状況であったのだ。次第に、突き出た葉先の多くが、その輝きに触れようとしていた。花は、野蛮で卑しい刃に囲まれたのである。
  それと同時に泉の流れは勢いを増した。巌に張り付いていた幾つかの苔は剥がれ、下へ〻〻と流れ落ちていった。
  遂に草々の根は、花の根とも絡み合い、余すところなく、この地を占領した。虚勢を張り、上へ〻〻、我先にと光を求めた。そのために白い花弁は徐々に、その色の透き通るようなヴェールを手放し、草々の影に沈んだ。美しさも内に消えていき、本当の白さをも失っていく。花の茎も萎れ、葉も皺を作り、先端を垂れ下げた。太陽の昇っている間も、草々の下には光はなかった。一方、その外側はいつになく甚だしく乱れていた。山奥のこの場所は、彼らを食らう者も居らず、いつまでも好き放題に荒れ果てるであろうと思われた。
  夜も深まり、花は草々の発する水滴に濡れ、又一層弱々しくなった。月光も虚しく、夜空から地上を照らした。星々も息を潜めるように、淡く、薄い光で夜空に輝いていた。
  そんな時、一つの星が、燃え盛るような眩さを纏った一本の光線を放ち、あの花の所を刺した。それは草々の盾など無意味に、その花の中心まで届いていた。核を突かれた花は、外側の花弁から一葉々々、ゆっくりと宙に浮かべるように、剥落させ、崩壊していく。地面に触れた薄片は、先端を翻し、そのまま硬くなった。最後の一葉を剥がしてしまうと、茎の真ん中が折れ曲がり、何にも逆らうこともなく、静かに倒れた。真に美しいものは、最期まで美しく崩れるのであった。それと同時に、星の光も弱まっていた。ウィンドチャイムの音が聞こえるような、煌めきの消え方であった。
  雲も動き始めた。風のために、樹々の葉も騒ぎ始め、草々も激しくなびいた。泉の水は漲り、その雫は月光を揺らし、曖昧な光の散乱を生んだ。影も激しく揺れ動き、草々の作り出す波の上は、前触れもなく混沌に支配されていた。淀んだ灰色の大群が、月の前を素早く横切っていく。樹々や草々の波はそれと連動するかのように、絶えず現れた。
  そして、一際大きな風が、険しい山の地を這いながらやって来た。辺りの空気は、それまでの混沌を全て押しのけられたように、騒がしく根底から揺らいだ。地面に転がっていた花弁の、ある一葉がその風に押し出され、泉の冷たい流れに乗った。その頃、下界の方では、幾万の産声が上がっていたのであった。

  小舟のような形をしたそれは、鋭く突き出た巌の上から、押し出されるように、落ちていった。撒菱のように散乱している、酷くとがった岩と岩の隙間を、勢いの良い流れに乗って、進んでいく。日の光がいつもより早く姿を見せた。あっという間に泉は遠い場所となってしまった。進んでいくと、草々は一層生い茂り、所々踏み倒された跡もあった。小舟はそんな光景をよそ目に、くどい程に曲がりくねった、流れを唯ひたすらに流れ落ちていった。
  いつからか、魚や水草も姿を見せ始めた。その姿は、川沿いに在る岩とは反対に、下へ行く程、図太く、威勢を放っていた。然し、これも岩とは逆に、大きくなればなるほど、その姿には、謙虚で、純粋な、溢れ出る美しさが消えていったように思われた。清流の勢いに負けんと、懸命に尾を動かす上流の小魚ーー泥に塗れ、身を隠し、その大きな図体を満たすための獲物を伺う下の魚達。清流の内に密かに、地に張り付き、その流れに戦ぐ、芯を持った小さな水草の一つ〻〻ーー地に深い根を張り、細長いその体を卑しく振り回し、流れを掻き乱す水草達。
  樹々の枝に止まった鳥は、木陰の中で羽を繕いながら川を眺めていた。鋭い嘴が木漏れ日に当たったりもしていた。そして時々、鳥が魚を捕らえに来ては、川にしぶきを上げる。川に波紋を残しながら、鳥は梢に止まり、雫を落とした。
  時間が経つにつれて、森の深さは衰退を見せた。樹々は細々と痩せていき、岩も削られ、小さくなる。川は幅を広げ、底も深くなった。周囲には、無数の虫が地を這い、落ち葉や草の影に隠れた。地面は露に湿り、落ち葉もその湿気に染まっていた。風は頻りに、広い木々の隙間を通り抜けていた。そして、幾つかの落ち葉は足元を掬われて、川に落ち、そのまま流された。
  そして小舟は落ち葉と共に下った。次第に川にも、堂々と日光が当たるようになった。川の広がりが著しく、樹々も小さくなっていた為に、樹葉は日を遮ることが出来なくなってしまったのだ。鹿や猿が、時々姿を見せ、様々な場所に足跡をつけていった。草や花も秩序なく乱れている所であった。やはり華は、下に行くほど零落していった。川は人間から見れば小さいものであったが、小舟と比べれば、それは大河と言っても過言ではないものであった。小舟も大分下の方へと下ってきたように思われた。
  この辺りには、不自然に崩れた崖や、等しい間隔で立っている細い樹々が見られた。そして崖の斜面は禿げ、外見だけは山に溶け込んだそれらの樹々の下には、沢山の貧しい土が積もっていた。
  然し、遂には純粋な地面すら消え失せた。異常な程、対称的に作られたコンクリートの覆いが流れを囲んだ。地面を深々と掘って作られたその路では、流れは地を削り、運ぶと云った、自然の役割を満足に行うことはなかった。起伏やカーブのない、永遠に安定したその路は続いた。魚や蛙、亀、ザリガニなんかが、しぶとくコンクリートの隙間から生えている水草どもの影に隠れていた。塵芥が無数に漂い、川底に光は届いていなかった。水面には艶を失い、陰に染まった落ち葉が漂う。全てが均一過ぎるがために、何の変化もなく、小舟は唯、硝子細工のようになってしまった流れと共に、実に緩やかな時間の中を進んだ。川を下っていることが感じられない程、その空間は静止していた。
  同じ風景がループした。それでも擦り切れる様子はなく、そのループは永遠のようにすら思われた。時間も圧縮され、意味など持たなくなっていた。同じリズムの音が、森の中に酷く平坦に響いた。日に当たり、ぬるくなった流れは、唯平行に緩やかな下り坂を下っていた。
  
  ーーどうやら流れの中に、少しずつ泡が立ち始めたようだ。魚たちもこの辺りにはいない。小舟は揺蕩う。この先には、さらに大きな川が顔を覗かせている。それは凄まじい音を放つ奔流で、様々な川を包含してきたのだろう。先日の雨のせいか、荒々しい、酷く濁った流れが様々なものを飲み込んでいた。突然現れた、恐ろしい大河と、次々と湧いてきては、流れの勢いに負けて弾ける舟底の泡ーー安定した囲いの中で、その混沌は膨張するーー反射した光も皆、刹那のうちに消えてしまった。
  それでも小舟は荒波の中を進んだ。芯のない落ち葉は、波の起伏のために、身をよじらせた。遂に、コンクリートの壁が消えるのだ。流れの先には蒼空が一面に広がり、急に広闊な場所へ来て、風も激しくなってきた。袂の森は、枝葉の間をその風が通り抜け、大いに揺れ動き、流れは乱れ、白波も増した。そして辺りの勢いが絶頂を見た時、小舟は何度も翻り、宙を舞った。奔流との間には、大きな落差があった。小舟は形を崩すこともなく、緩やかに落ちていく。太陽は大地を包むように照らしていたが、花弁の輝きは何処かへ失われていた。
  小舟は何とか、大量の土砂を含み、大きく広がった奔流に乗った。梢に葉をつけたままの木の枝や水草以外の植物も水面から顔を出しながら、流されていた。流れは凄まじい轟然たる音を響かせ、その威厳を周囲に示していた。徐々に小舟が出てきた場所は遠くなり、見えなくなっていく。そして直ぐに、袂のどの辺から下ってきたのかすら、分からない程になってしまった。様々なものと共に、為す術もなく流され、月が昇り、太陽がもう一度辺りを包んだ。その間に川もすっかり落ち着いてしまった。本来の流れは、細々しく見られ、平然とした辺りに広がる石が、その空々しさを更に演出した。遠くに立ち並ぶ木々は、川に沿って吹く風に、葉を軋ませていた。
  又も流れの勢いが落ちてきた。そして川は、底が見えない程に深さを増した。何処となく弧を描く岸が、その先に待っていた。小舟は風だけを頼りに進むしかなかった。水の青は深まり、底の闇が水面にも届いていた。そこは音もなく、不気味な雰囲気が漂う、大き過ぎる湖であった。より向こうには月が昇っていたが、山に隠れた太陽は未だに空全体を橙に染めていた。又、月の手前には幾つか眩い光が、規則的に並んでいた。
  その光は、夜星にしては低過ぎる。そして、その夜星達はいつになっても姿を現さない。ここは何かがおかしい。だが、風は湖の中まで吹いては来なかった。そのため、小舟は中央に止まったまま、動かなかった。そして、長い夜だけが何処か陰鬱な速度で動いていた。奇妙な光に照らされ、静けさに染まった湖にはその間、鏡のようにもう一葉の花弁を冷たい水面が映していたーー

  ーー光の向こうに太陽が、堂々とあの白さを率いながら姿を見せる。日光が地上を照らし出して間もなく、光は皆消えてしまった。東の方は樹々もなく、よくひらけ、手間にはコンクリートの壁が、正確な弧を描いて、嫌になる程、横に続いていた。ここはダムであった。然し、今は放流時期ではなく、ただ周囲には退屈な程に、張り詰めた緊張感が漂っているだけであった。
  それから次々と、長いような、短いような時の間に、山から、草木の欠片が流されてきた。それはまるでこの静かな場所に、時の流れを伝えに来ているようであった。そして、それを頼りに自然は移り変わった。とても穏やかに、時が流れるように移り変わった。青々しい葉が増え、虫の音が微かに鳴った。

  ーー季節はとっくに移ってしまったーー
  
  そして或る、日光が燦々と水面を照りつけていた日、水中の深い所から、図太い揺れが湖中に走った。それは森や川、山をも揺らす勢いの、鈍い揺れであった。水面の光沢も徐々に揺れを増し、周囲の秩序は今に崩れようとしていたーー
  ーー壁の外では一滴の水が滴り落ち、それが次々と連なりを成していった。霧のように、降り注ぐ微細な水滴は、森をも包む勢いで、落ちていった。そして姿を変え、下界へ続く一筋の白い道となった。下の方でそれは、大きな歯車のように激しい流れを以て、その先に続く川へと注いだ。白く、鋭利な刃を何個も備えたその歯車は、勢いよく回り続けていたーー

  ーー中の流れもいよいよ甚だしくなり、小舟の居る場所にも、流れの尾が届いた。その先は壁の中心に向かって、深く〻〻、闇の中へと続いていた。白波は流れるものを、闇の中に掻き入れるようにして、何処からともなく湧き出ていた。
  山には轟音がこだました。あらゆるものが、次々と下界に顚落した。小舟も、鏡に映る一葉の幻と離別して、ゆっくりと壁の中心へ向かい始めた。緩やかな勾配を下り、壁の向こうから鈍い音が振動と共に伝わる。目の前は白波の限りで、その仕切りの先は見えない。仕切りの向こうの日光が透け、靄のような、ぼやけた明かりを醸していた。勾配は急速に高くなっていく。最早滑り落ちる奇妙な壁と共に落下しているようであった。そして暗闇に包まれ、小舟は山に響く轟音の中心に達し、瞬く間にそこを過ぎ去っていった。
  目の前が微細な霧に覆われた。然し、霧が空を覆っていたが、粒の一つ〻〻は、確実に下へ落ちていた。次々と作られる粒が降り注ぎ、混じったものは皆、それらに突き落とされていく。霞がかる空気の隙間に、灰色の街並みが映された。アスファルトの舗道が、虫が住み、種が埋まり、地下水が流れる地面を覆っていた。然し、小舟は落ちる。そんな風景は直ぐに何処かへ行ってしまった。
  
  ーー川の勢いが衰え、水嵩も減っていくと、辺りには大小様々な礫が姿を見せた。遮るものもなく、眩しい夕日が皓々と小舟を差し、辺り一帯に広がった礫の縁を赤く染めた。枯れ草や枝葉も未だに旅を続けていた。
  辺りはもう夜であった。街灯りが川沿いに漏れ、唯乱雑に辺りを照らしていた。月明かりは淋しく街を見下ろした。やがて礫は砂になった。いつからか、粉塵に塗れた花弁は表面の白さをも失っていた。目前に広がる海はそれを洗うであろうか。打ち付ける波は荒々しく、護岸を削り、壁に張り付いた藤壺なんかも巻き添えを食らった。その潮騒は街にも届いていた。眩い星々は消え、虚しいその幻影を映すかの如く、地上には途切れることのない、光の海が広がっていた。地平近くの夜空はその光のために淡く白みがかり、絶えぬ人声の影の下、花弁は波に漂っていた。半球の天井には一つだけ、瞬く星が浮かんでいた。

  微細な生き物は速やかに花弁を分解してしまう。波の音は何度も繰り返した。最期にその白さは、太陽の光に還る。そうして、それは誰に知られるでもなく、消えていった。花弁に含まれた美しさが、本当に存在していたのか、誰が知るであろう。街にはいつまでも消費の音が響き、漣がそれを消していった。
  川は凶暴さを内に隠し、穏やかなままに流れていた。そして、それは日光に煌めく流砂を運んで行き、再生の海へ続いた。
  泉の方での、賎しい争いは静まっていた。幾度の雨は草々を打ちのめし、共に地面に融けていった。平静が戻ってきたのである。太陽はその地を快く照らした。泉から流れた水もその華やかさを堂々と咲かせた。水草の節々に産められた真珠のような、小さな球体は、白波の湧き出る激しい流れの下で幾度も煌めいた。小鳥の声が山に響く。 時はいつもと変わらず、止まることなく、流れ続けていた。
  微風が木漏れ日を揺らす。鳥が種を落とし、雨が降る。泉の水は、あの窪みの奥からいつまでも流れ続けていた。巌に張り付いていた苔が、そのしぶきに少しだけ、影を落としていた。
 
  
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...