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令和から長岡へ

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 後ろは塀、前は顔色の悪い男、意識を失いそうだ。犯罪か、犯罪に巻き込まれるのか。顔を覚えられたくなくて、もらった扇子で鼻と口を隠す。

「だいぶ前だが、身近で事件が起きて、知っているだろう? もうそれから一睡もしていないのだ」

 だいぶ前から一睡もしていないなら、元気に立てていられるはずがない。とは言うことも出来ず、必死に平静を保ちながら頷くに留まる。

「はあ、それは大変なことで。何故それを俺、私に」
「信頼しているからだ!」

 逃げたい。

 自分は決して初対面相手に信頼されるような絶対的顔面を持ち合わせていないはずだ。万が一持ち合わせていたとしても、こんな悲壮感溢れる内容しか想像出来ない相談なぞ受けたくない。のだが。

「何を悩んでいらっしゃるのでしょう」

 目の前の災難に目を瞑ってしまえる程器用でもなかった。

「よかった! 実は私の周りの不幸がいっこうに収まらない。これではいずれは私の身も」
「祟り、的なあれですか」
「それだ!」

 聞いたことをさっそく後悔した。物理的なものでも無理なのに、精神的なものときた。清仁にしてやれることは一つも無い。扇子の下で息を吐く。

「難しい問題ですね」
「そうだが……ああするしかなかった。なのに、私を直接呪うのではなく、じわじわ、家族に不幸をもたらす。そしてきっと最後に私を……実に卑怯だと思わないか」

 話を聞いているうちに、清仁はだんだん面倒くさくなった。相手は誰かも分からないし、話の内容もあやふやだ。彼の家族に不幸が訪れていることは本当だとしても、それが祟りだなんて誰にも証明出来ない。それなら気にしなければいいのだ。

「貴方がお気になさるのはもちろんです。でも、祟りではないと、偶然だと考えたらいかがでしょう。言霊をご存知ですか? 力の無いことでも、言葉にしてしまうと現実になってしまう、そういう何か悪いことが重なっているだけかもしれません」

 適当にもっともらしいことを流したら、相手は顎に手をかけ考え込んでしまった。さすがに適当過ぎたか。怒られるのは嫌だ。突拍子もない問題を持ち込んだのはそちらである。どうしよう、このまま立ち去ろうか。細道に置いたままの荷物をちらりと見たところで、男が顔を上げた。

「助かった。さすがは和気清麻呂わけのきよまろ
「いえ、私なんかぜんぜ、和気……だれ?」

――誰!?

 思いがけないところから往復ビンタされた気分だ。心なしか頬が痛い。

「あの、だれ」
「それではまた何かあったら頼むぞ。いやはや、天皇ともなると相談出来る相手も限られてな。長岡に遷都したばかりであるし、私がしっかりしないと。はっはっは」
「え、てんの」

 そう言って男、天皇は、こちらの言葉が聞こえていないかの如く去っていった。伸ばした右手が空しく宙を切る。

「長岡……長岡京?」

 その名前には聞き覚えがあった。先ほどまで読んでいたパンフレットだ。急いで荷物を漁り、パンフレットを広げる。

「長岡京の天皇、天皇……は一人で、平城京から遷都したかんむ」

 去った方角へ顔を放り出す。

「桓武天皇!?」

 今の男が桓武天皇だったなんて!

 過去に来てしまったかもしれないと動転していたところに、それを上回る追撃があろうとは。どうしよう。もしかして、何かよくないことをしてしまったのではないか。なにせ、相手は時の天皇である。不用意な一言で政治が大きく変わることだってある。しかも桓武天皇は清仁を和気清麻呂だと勘違いしていた。話し方から想像するに、桓武天皇と大分近しい距離にいる人間なのだろう。

「和気……パンフレットに書いてあったかな。歴史の授業で習った記憶は無いぞ。いや、忘れてるだけかもしれないけど」

 桓武天皇だって、平安京に遷都した天皇だということしか覚えていない。平城京から長岡京に遷都したこと自体忘れていた。清仁はパンフレットの続きを読む。その手が固まった。

「ううううそ……ッ」

 己の目が信じられない。読み進めていた矢先、追っていた文字がぐにゃぐにゃと踊り始め、とうとう「京都」の文字がぽろりと落ちたのだ。比喩ではなく、本当にぽろりと。

「うわわわ」

手をもつらせながら表紙へ戻る。表紙の「京都」も落ちていった。地面に着く前に両手で受け止めるが、すぐに跡形もなく消えてしまった。

「京都……消えた……」

 これはどういうことか。滲む視界を叱咤して、再度パンフレットを見遣る。そこにはすでに替わりが鎮座していた。

古町ふるまち隣都りんと……なんだこれ」

 目を細めても、印刷の文字を擦っても変わらない。「古都・京都」が「古町・隣都」になったまま。パンフレットを持つ手の感覚がどんどん曖昧になっていった。

「都の隣……都じゃなくなった……歴史が、俺の所為で……」

 長岡京も京都府のはず。しかし長く続く平安京が存在しなくなった今、「隣都」という文字から想像するに、京都が絶対的な都ではないということだ。パンフレットを再度読み込む。

『長岡京は二十年続き、桓武天皇が退いた後仏教との確執も消え、都は良都りょうとへと戻されました』
「良都へと戻されました……もしかして奈良かこれ……良い都……京都が……」

 パンフレットによれば、次の時代は小さな争いはあったものの、数百年続いたらしい。
 このまま倒れてもいいだろうか。次に目が覚めたら元通り、なんてことには。

「あはは。平安京じゃなくても、結局長岡京は二十年しかもたなかったのか。いやいやいや! そうじゃなくて!」

鞄を抱えて立ち上がり、両手で頬を叩く。痛い。現実だ。ここは元凶がどうにかせねば。とても痛い。

「クソ、絶対京都奪還してやる!」

 たった一人の市民によって京都が無くなっていいわけがない。清仁は走り出した。

「あとついでに俺を元の世界へ戻して~!」
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