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第1章王子の多忙な日々
10 眠れる王子は過去に惑う。
しおりを挟むーーー遠くで、誰かが泣いている。
雑踏の中、行き交うモノトーンの人波。これは夢だ。遠い記憶に刻まれた風景を目にし、僕はすぐに理解した。
うんざりした心持ちで適当に歩いていると、どこからともなく慟哭が聞こえてきた。耳を塞ぎ知らぬふりをしたくなるそれに、自身の意思に反し足はゆるゆると導かれるように動き出す。たどり着いた薄暗い場所には黒髪のどこにでもいる平凡な顔立ちの青年がいた。前世の僕、だ。
悔しい、悲しい、苦しい。絵の具の色彩をごちゃ混ぜにした感情を剥き出しにして、蹲り泣き叫んでいる過去の残像。記憶の中よりも見苦しい無様な姿に、僕の唇が冷笑に歪な弧を描いた。
愛されていると盲目に信じた末路がこれだ。愚かだね。愛なんて目に見えないあやふやな幻想に踊らされて。その上、自業自得のくせにこんな悲劇のヒロインぶって醜態晒して泣くなんて、みっともないったらありゃしない。泣いてても誰も君を助けてはくれないのは知っているだろう?いい加減、黒歴史を見せつけるのをやめてくれないかな。
同調した心が悲鳴を上げ、ぽろぽろと僕の眼からも涙を溢れ出す。泣きたくなんかないのに、拭っても拭っても頰伝う雫が止まらない。本当になんて恨めしい。こんな煩わしい過去に一体自分はいつまで縛られなければならないんだ。
躍起になって手の甲で涙を拭っていると、いつのまにか慟哭は潜み、前世の僕がじっと僕を見つめていた。絶望に暗く澱んだ瞳と目が合い身体が一瞬で凍りつく。
彼はこちらに向かって何かを必死になって声無き声で訴えていた。けれど、何を言っているのか僕のはずの彼の言葉が分からない。
前世の僕は何を言っているんだ?今の僕に何を求めてるんだ?
答えを求め無意識に手を伸ばす。が、一歩も動いていないはずの彼が急激に遠ざかる。
待って、と叫ぶ悲痛な声がした。それが自分が発したのものか彼のものか。もしくは二人のものだったのか…。真相は薄れゆく夢の底へとかき消えてしまった。
浅い眠りから意識が一気に浮上する。目覚めたそこは寝室のベッドの上だった。起きがけだというのに神経が異様に昂ぶっていて、鼓動が全力疾走した時のように、心臓が脈打つ音が大きく耳に響いている。
「お目覚めになりましたか?」
見知った顔が心配そうに僕を窺っていた。
「…リヒター」
気遣う言葉に応える自身の声音が思ったより掠れて、眉尻が下がる。
彼が室内にいるという事は朝なのかと、一瞬、勘違いしそうになったが、あたりはまだ暗かった。では何故リヒターが室内にいるのか?不思議に思い、とりあえず起き上がろうとしたら、やんわり止められ、濡れたタオルで目元や頬を優しい手付きで拭われた。
「…あ…」
どうやら、僕は寝ながら泣いていたらしい。涙の残滓が残るまつ毛に触れ漸く気づく。そして、彼が何故深夜にここにいるのか理解した。
「申し訳ありません。随分とうなされてらっしゃいましたので、勝手に入室させて頂きました。…また例の夢を見てらっしゃったんですね」
「うん」
蜂蜜色の瞳を痛々しげに歪めるリヒターに、僕は苦笑いを返す。
そう。あの夢を見るのは初めてじゃない。幼い時分から繰り返し見ている前世の僕が泣いている夢だ。細かい差異はあれど、いつも決まって夢の中の過去の自分は泣いているのだ。なんであんな夢を見てしまうのか、自分で自分が腹立たしい。
あまりにリヒターが心配するので、彼には前世云々は控え、もう一人の僕が泣いている夢だと伝えてある。以来、僕の変化に目敏く、何かあるとすぐこうやって心配してくれる。たまに度が過ぎる時もあるが、主従というより僕にとって兄ような存在だ。
「忌々しい夢だ。手出しが叶うなら部下共々全力で排除しますのに…」
そして、侍従であると同時に、彼は『影』の若き頭領でもある。
叶うなら前世の僕に何するつもりなんだい?僕の精神の安寧のために、怖いから絶対口に出して聞かないからね。今必要なのは不穏じゃなくて安眠です。
「リヒター。いつもの薬と水を用意して持ってきてくれない?」
「分かりました。お持ち致します」
僕が頼むとリヒターは一旦室外に行き、すぐ様、銀のトレイに水差しとグラス、それに小さな白い紙袋を乗せ戻って来た。自分に自分で睡眠魔法をかける事は出来ないからこういう時は睡眠薬に頼るしかない。上半身を起こし、リヒターからグラスと紙袋に入っていた錠剤を二錠貰い、服用する。
「これでうなされる事はないから、リヒターもう下がっていいよ」
昂ぶった精神も薬の効果で落ち着くだろう。ベッドに横になり上掛けをかけてくれるリヒターに下がって休むように命じるが、彼は一向に出て行こうとはしなかった。
「リヒター?」
「アルヴィン様が寝付くまで、お傍いさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「いや、今薬飲んだから大丈夫だって」
「この目で確認したいのです。お願いします」
彼の中の何がそこまで言わせるのか。食い下がるリヒターに根負けした僕は短息し、最後に寝たら必ず退出するよう言ってから、本格的に寝入る姿勢を取った。
程なく、薬のおかげで今度は夢を見ることもない深い眠りが訪れた。
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