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第五話
◆2/溶け出す心
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あの後、どうやって自室へと戻ったのか、篝はいまいち覚えていない。
泥のように体に張り付いた疲労感と、脳髄を這いまわる昏い感情だけを感じていた。
いつの間にか日は暮れて、窓の外には闇が広がっている。ひょうひょうと寂し気に吹く風の音が、部屋の中にまで響いていた。
ベッドに倒れ込むように入り、枕に顔をうずめる。暗く遮られた視界に夕霧の姿が浮かんだ。
体は疲れきっているのに、眠気は全くない。張り詰めた神経が、精神を覚醒させ続けている。
思考はまとまらず、感情の残滓だけが、頭の中で湧いては消えていく。耳の奥で、悲し気な風鈴の音が鳴っている気がした。
夏祭り。初詣。血痕。砕けた――風鈴。胸の奥からこみ上げる悲しみが、目から涙となって滲みだす。
頬に触れる布地に、ほんの少し湿り気を感じる。余計に眠れそうになかった。
不意に、とん、とん、と控えめなノックの音が聞こえる。その音に続いて「いるかしら?」とリンネの声が耳に届いた。
「は、はい!」
がばっと身を起こし、声に答える。
「もし……良かったら、お茶でもどうかしら?」
リンネがドアの向こうから、遠慮がちに声をかけてくる。慌ててドアを開けると、そこにはリンネが伏し目がちに立っていた。
「大変な時にごめんなさい。本当に、良ければで良いの。無理はしないでね……」
指令室でのことを気にかけてくれているのが分かった。淀んだ胸中に、ほんのわずかに風が吹く。
「ありがとうございます。ご馳走になります」
微笑んだつもりだったが、あまり上手く笑えなかった。
リンネの部屋に向かう最中、彼女は口を開いては閉じ、そして少し考えるような素振りを何度か繰り返す。
いつも通り音もなく歩いているが、どことなくギクシャクと音が鳴っているようだった。
無言の時間が流れる。けれど、篝には優しさを感じられる時間だった。
リンネの部屋は、篝の部屋よりかなり広い。壁の中心にドアがあり、そこを境目にしてスズネとリンネ、それぞれのスペースにわかれている。
向かって左側にはモノトーンの落ち着いた家具が並び、右側には色鮮やかな家具が置かれている。左は物が少なく、右は雑多にあふれている。一見でどちらのスペースが誰のものか理解できるのが、篝は面白く思えた。
「お茶を淹れるわね。そこの椅子へどうぞ」
促されるまま椅子へと腰を下ろす。ティーテーブルには、お湯の入ったポットと、大量の焼き菓子が用意されていた。
テーブルの半分を占拠する大皿に、山のように積まれたクッキー。その量に篝は一瞬固まり、目を丸くした。
「この前……ちょっと作りすぎちゃって……。協力してもらえると……えっと……ありがたいわ」
リンネが恥ずかしそうに頬を赤らめる。普段と違う可愛らしい姿に、思わずくすりと笑いが漏れた。
「いただきます。わたし、リンネさんの作るお菓子大好きです」
「ありがとう。いっぱい食べてね」
リンネの優しい声音に、凍り付いていた感覚が溶けはじめる。甘く香ばしい香りが、篝の鼻腔をくすぐった。
うっとりとする篝を見て、リンネは微笑みを浮かべていた。
リンネがゆったりとした動作でポットにお湯を注ぐ。こぽこぽと心地の良い音が響き、お湯の中で跳ねる茶葉がまるで踊り子のようだった。
「ローズと苺のハーブティーよ。リラックス効果があるの」
ティーポットからは、甘く優雅な香気が立ち昇る。胸いっぱいに吸い込むと、それだけで少し気持ちが落ち着いた気がした。
「どうぞ」
陶器製のカップに注がれたハーブティーが、篝の前に置かれる。
「いただきます」
少しだけ口に含むと、甘酸っぱい苺の香りの後ろから上品なローズの香りが顔を出す。透き通るような茶葉の味を、ほんの僅かな苦味が引き締めていた。
「美味しい……!」
「そう。良かったわ。お菓子もどうぞ」
自分にもハーブティーを注いだリンネが、焼き菓子をすすめてくれる。
こちらもまた、香ばしくも甘すぎず、絶品だった。
しばらくの間、他愛のない雑談に花を咲かせる。朗らかな笑い声が、部屋の空気を彩った。
ハーブティーを飲み終え、ソーサーへカップを戻す。陶器が触れ合い、乾いた音を立てる。
その音がやけに大きく、部屋に響いた気がした。
「おかわりは?」
篝はそれに答えず、空になったカップを見つめている。
「聞かないんですか?」
篝は、カップの縁を指でなぞりながら呟く。
「何を?」
「……夕霧のこと」
縁に這わせた指が、篝にしかわからない程度に震えている。
「聞かないわ」
「どうして……ですか……?」
「話してくれるまで待つわ。わたしは、あなたの優しさを知っているから」
目に熱いものが込み上げてくる。滲み出したそれは、次第に大きな粒となり、とめどなく流れていく。
「わたしは……わたしは、優しくなんかないです。自分勝手に、夕霧を見捨てました」
後悔と自責で胸が押しつぶされそうだ。
過去に戻って夕霧を救いたい、それが叶うなら、自分はどうなったっていい――そんな思いが頭の中を渦巻く。
「いいえ、篝。あなたは優しい人よ。だって、その涙は、自分のためじゃなくて、彼女のために流れているでしょ?」
リンネの一言が篝の心を優しく包み込む。音が消え、体に微弱な電流に似た感覚が走る。それは一瞬で消え、体温が戻っていくような暖かさが、ゆっくりと広がっていった。
「夕霧の……ため……?」
「ええ、そうよ。だから、あなたの後悔や涙は、優しさの証」
リンネの手が篝の髪にそっと触れ、滑るように頭を撫でる。
重なった場所から、暖炉の火のような暖かさが広がっていく。
「それは、わたしが保証する」
限界だった。
心の中に堆積していた様々な感情が、崩れて流れ出す。
悔恨。
悲哀。
絶望。
感情の奔流は、悲痛な叫びとなって口からあふれ出た。
「わたし、夕霧ともっと一緒にいたかった! 笑って。泣いて。もっとたくさん、笑いあって!」
――夏祭りの時のように。
「ええ」
「気づかなきゃいけなかった! 気づいていたはず……なのに……っ!」
――父親と去っていく夕霧の後ろ姿。
「辛かったでしょう」
「わたし、わたしは――」
言葉にならなかった。
「わかってるわ」
リンネが篝を抱きよせる。
子供のように泣きじゃくる篝を包み込むように。
泥のように体に張り付いた疲労感と、脳髄を這いまわる昏い感情だけを感じていた。
いつの間にか日は暮れて、窓の外には闇が広がっている。ひょうひょうと寂し気に吹く風の音が、部屋の中にまで響いていた。
ベッドに倒れ込むように入り、枕に顔をうずめる。暗く遮られた視界に夕霧の姿が浮かんだ。
体は疲れきっているのに、眠気は全くない。張り詰めた神経が、精神を覚醒させ続けている。
思考はまとまらず、感情の残滓だけが、頭の中で湧いては消えていく。耳の奥で、悲し気な風鈴の音が鳴っている気がした。
夏祭り。初詣。血痕。砕けた――風鈴。胸の奥からこみ上げる悲しみが、目から涙となって滲みだす。
頬に触れる布地に、ほんの少し湿り気を感じる。余計に眠れそうになかった。
不意に、とん、とん、と控えめなノックの音が聞こえる。その音に続いて「いるかしら?」とリンネの声が耳に届いた。
「は、はい!」
がばっと身を起こし、声に答える。
「もし……良かったら、お茶でもどうかしら?」
リンネがドアの向こうから、遠慮がちに声をかけてくる。慌ててドアを開けると、そこにはリンネが伏し目がちに立っていた。
「大変な時にごめんなさい。本当に、良ければで良いの。無理はしないでね……」
指令室でのことを気にかけてくれているのが分かった。淀んだ胸中に、ほんのわずかに風が吹く。
「ありがとうございます。ご馳走になります」
微笑んだつもりだったが、あまり上手く笑えなかった。
リンネの部屋に向かう最中、彼女は口を開いては閉じ、そして少し考えるような素振りを何度か繰り返す。
いつも通り音もなく歩いているが、どことなくギクシャクと音が鳴っているようだった。
無言の時間が流れる。けれど、篝には優しさを感じられる時間だった。
リンネの部屋は、篝の部屋よりかなり広い。壁の中心にドアがあり、そこを境目にしてスズネとリンネ、それぞれのスペースにわかれている。
向かって左側にはモノトーンの落ち着いた家具が並び、右側には色鮮やかな家具が置かれている。左は物が少なく、右は雑多にあふれている。一見でどちらのスペースが誰のものか理解できるのが、篝は面白く思えた。
「お茶を淹れるわね。そこの椅子へどうぞ」
促されるまま椅子へと腰を下ろす。ティーテーブルには、お湯の入ったポットと、大量の焼き菓子が用意されていた。
テーブルの半分を占拠する大皿に、山のように積まれたクッキー。その量に篝は一瞬固まり、目を丸くした。
「この前……ちょっと作りすぎちゃって……。協力してもらえると……えっと……ありがたいわ」
リンネが恥ずかしそうに頬を赤らめる。普段と違う可愛らしい姿に、思わずくすりと笑いが漏れた。
「いただきます。わたし、リンネさんの作るお菓子大好きです」
「ありがとう。いっぱい食べてね」
リンネの優しい声音に、凍り付いていた感覚が溶けはじめる。甘く香ばしい香りが、篝の鼻腔をくすぐった。
うっとりとする篝を見て、リンネは微笑みを浮かべていた。
リンネがゆったりとした動作でポットにお湯を注ぐ。こぽこぽと心地の良い音が響き、お湯の中で跳ねる茶葉がまるで踊り子のようだった。
「ローズと苺のハーブティーよ。リラックス効果があるの」
ティーポットからは、甘く優雅な香気が立ち昇る。胸いっぱいに吸い込むと、それだけで少し気持ちが落ち着いた気がした。
「どうぞ」
陶器製のカップに注がれたハーブティーが、篝の前に置かれる。
「いただきます」
少しだけ口に含むと、甘酸っぱい苺の香りの後ろから上品なローズの香りが顔を出す。透き通るような茶葉の味を、ほんの僅かな苦味が引き締めていた。
「美味しい……!」
「そう。良かったわ。お菓子もどうぞ」
自分にもハーブティーを注いだリンネが、焼き菓子をすすめてくれる。
こちらもまた、香ばしくも甘すぎず、絶品だった。
しばらくの間、他愛のない雑談に花を咲かせる。朗らかな笑い声が、部屋の空気を彩った。
ハーブティーを飲み終え、ソーサーへカップを戻す。陶器が触れ合い、乾いた音を立てる。
その音がやけに大きく、部屋に響いた気がした。
「おかわりは?」
篝はそれに答えず、空になったカップを見つめている。
「聞かないんですか?」
篝は、カップの縁を指でなぞりながら呟く。
「何を?」
「……夕霧のこと」
縁に這わせた指が、篝にしかわからない程度に震えている。
「聞かないわ」
「どうして……ですか……?」
「話してくれるまで待つわ。わたしは、あなたの優しさを知っているから」
目に熱いものが込み上げてくる。滲み出したそれは、次第に大きな粒となり、とめどなく流れていく。
「わたしは……わたしは、優しくなんかないです。自分勝手に、夕霧を見捨てました」
後悔と自責で胸が押しつぶされそうだ。
過去に戻って夕霧を救いたい、それが叶うなら、自分はどうなったっていい――そんな思いが頭の中を渦巻く。
「いいえ、篝。あなたは優しい人よ。だって、その涙は、自分のためじゃなくて、彼女のために流れているでしょ?」
リンネの一言が篝の心を優しく包み込む。音が消え、体に微弱な電流に似た感覚が走る。それは一瞬で消え、体温が戻っていくような暖かさが、ゆっくりと広がっていった。
「夕霧の……ため……?」
「ええ、そうよ。だから、あなたの後悔や涙は、優しさの証」
リンネの手が篝の髪にそっと触れ、滑るように頭を撫でる。
重なった場所から、暖炉の火のような暖かさが広がっていく。
「それは、わたしが保証する」
限界だった。
心の中に堆積していた様々な感情が、崩れて流れ出す。
悔恨。
悲哀。
絶望。
感情の奔流は、悲痛な叫びとなって口からあふれ出た。
「わたし、夕霧ともっと一緒にいたかった! 笑って。泣いて。もっとたくさん、笑いあって!」
――夏祭りの時のように。
「ええ」
「気づかなきゃいけなかった! 気づいていたはず……なのに……っ!」
――父親と去っていく夕霧の後ろ姿。
「辛かったでしょう」
「わたし、わたしは――」
言葉にならなかった。
「わかってるわ」
リンネが篝を抱きよせる。
子供のように泣きじゃくる篝を包み込むように。
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