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第2話 来迎
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「父上!」
誰かの声がした。追って、腕を持ち上げられ、抱え上げられる。
父上?誰だ?朝時か?いや、あいつは呼ばない限り、俺には寄りつかない。ではシゲか?いや、シゲは京に居着いたまま戻ってこない。
「父上、お気を確かに。誰ぞ、広元殿に使いを!」
ああ、泰時か。
「今、そこに姫御前が居なかったか?」
え、と戸惑う声に、やっと頭がはっきりしてくる。
いや、と首を横に振り、苦笑する。
——だが、やはり居たのだろう。そして、俺をまた動かそうとする。思いのままに。あの日と同じように。
「いいえ、あなたはここに残ってください。鎌倉を守れるのは、貴方だけ」
片側の口の端を上げる。
「お前、今度は俺に何をしろと言う?」
でも、それに答えは返ってこない。
大きく息をつき、松の樹を見上げる。清浄なる緑の尖った葉に新たな白い雪が降り落ちてきていた。
肩を貸してくれていた泰時に告げる。
「私は今宵、この屋敷より出られぬ。将軍の御剣持ちの役は、私と同じ程度の官位の誰か別の者に代わって貰えるよう、大江殿に頼んできてくれるか?」
泰時は諾の返事をするとすぐに去った。理由を尋ねもしない。だが理解したのだろう。彼の育ての親、乳母であった彼女の呼び名を聞いて。
「しょんねぇ。お前には逆らえない」
チラチラと庭を厚く白く埋めていく桜吹雪のような冷たい水の固まりを眺める。
「ヒミカ。日と水と風」
呼び掛ける。
「日の光が足りないぞ。早くその顔を見せろ」
だが、雲が切れることはなく、雪は二尺も降り積もった。
そしてその夜、三代将軍源実朝は、二代将軍源頼家の遺児、公暁に首を斬られて死んだ。また、義時の代わりに御剣持ちの役について参列していた源仲章も同時に公暁に斬られて死んだ。
誰かが実朝と共に自分も殺すつもりだったのだろう。だが、自分は死に損ねた。
「で、何を俺にしろと?」
重ねて尋ねるが、それに応える声はない。答えはわかっている。
泰平の世の中を——
盛大にため息をついてやる。
「ふざけるな。荷が重過ぎる。俺は無力だ。出来ることなど何もない。ただ見ているだけ。流されるだけだ」
それでいいのだと。江間、川の間として全てを流していけと言ったお前。
では、あとは何を流せばいい?どうすれば終わる?早く終わらせたいのに。早くお前の元に行きたいのに。
源実朝が斬られた二年後、京の後鳥羽院が北条義時追討の宣旨を出した。鎌倉幕府にではなく、俺個人に対して。
上手いやり方だと思った。幕府に対してなら御家人らが団結するだろうが、俺一人なら容易に切り捨てるだろうとそう思ったのだ。そしてそれで当然だった。
だが、俺一人の問題ではないと、待ったをかけたのが尼御台である姉だった。
荘園の管理について、頼朝公の作った前例を破ろうとした院を辛うじて抑えていたのが執権である俺で、だからこそ院は俺を槍玉に上げ、そして、だからこそ尼御台は俺を庇わなくてはならなかった。
それに何より、兼ねてからの付け火による逃げ回りの暮らしに、いい加減うんざりしていた姉は嬉々とした顔で立ち上がった。
「やっと尻尾を出したわね」
そう言ってニィッと両の口の端を大きくもたげる。
——怖い女。だから大姉上は止めておけと佐殿には言ったのに。
いや、だから佐殿は選んだのか。相方として。自分のあとを任せられる正室として。
姉は御家人らを前に鬼気迫る顔で胸を反らせて言い放った。
「かつて、亡き頼朝公が相手にしていたのは天下一の大天狗。でも此度は小さな狐火しか灯せぬ意気地なしのチビた妖狐。さっさとその尻尾をフン捕まえて二度と悪さ出来ないようにキツく仕置きしておやり!」
そして、御簾の内に居ながら、御所を震わせる程の胆力を篭めた低い声で男たちに告げた。
「鎌倉幕府御家人としてのその名を重んじる者たちに告ぐ!亡き将軍家の多大なる恩顧を忘れ、妖狐のちゃちな幻術に引っ掛かった愚かな裏切り者たちをとっとと討ち取って、三代の将軍家の遺跡を守って見せよ!ただし、院につきたい者は構わないから、今すぐこの私を斬り捨てて京へと去ね!」
姉の咆哮に鎌倉中が揺れる。
だが、相手は官軍を号して帝を奉る者。賊軍となってでも自分を擁して戦う御家人などいるのか?
その時、ふと比企の尼の顔が浮かんだ。
——天道についてどう思う?
そう問われた。
戸惑った顔で、俺と尼の顔を見比べていた幼いヒミカ。でも、俺が
「世の乱れは天道からの踏み外しに起因すると聞く。ならばそれは正されるべき」
そのように答えたら、真っ直ぐ俺を見て、そっとその長い睫毛を伏せた。幼さが消え、清廉な美を、女を感じさせた瞬間だった。
ああ、そういうお役目だったのか、と合点がゆく。
あの時、尼はそれは俺自身の考えか、それとも佐殿の考えかと尋ねたが、今ならはっきりと答えられる。俺自身の考えだと。天道を正すのは佐殿のお役目ではなく、俺の役目だったのだ。
姉の飛ばした檄で御家人らは奮い立ち、俺は激流の先頭に立つこととなった。だが総大将は泰時。佐殿のご落胤。清廉潔白な男。体面的には俺の嫡男。
「もし、帝御自らが刀を手に我らのゆく手を阻まれたら、どうすべきでしょうか?」
出陣の時、そっと問うてきた泰時に俺は迷いなく答えた。
「その時は、刀捨て弓を折り、膝ついて帝に従え」
——正すべきは天帝にあらず。帝を奉るフリをしながら裏で天道を穢すモノ。これは天道を踏み外させようとする穢れを駆逐する為の戰。
泰時は一言、承服いたしました、と答えて十数騎のみで出陣した。
こんな首など、いつでもくれてやる。狼煙としてでも旗印にでも何にでも使え。
山木の合戦の折、似たようなことを言っていた佐殿を思い出し、そっと笑う。
——やはり、俺はあんたの影だ。そこが心地良い。
泰時は一路京を目指し、それを追った数十万の軍勢全てを纏めて京を完全に制圧した。
優しげで、いつもどこか寂しげな顔をしていた金剛。でも、真の父に託された太刀をその腰に佩き、父の悲願だった都への凱旋を見事果たして見せた。
「やはり血は争えぬものなのですね」
京からの大勝利の報が記された書簡を天に捧げる。
「佐殿、お預かりしていた金剛をお返しいたします」
一陣の突風が吹いて、その紙を吹き飛ばした。白い紙は鳩のように舞い上がり、ハタハタと羽音を残して消える。
「おい、小四郎。暇なら、ちと碁に付き合え」
どこからか聞こえてくる声。
「あんたの欲求不満に付き合って、煮え湯を飲まされるのは、もう御免だ」
そう答えたら、呵々大笑する声と、クスクスと忍び笑う軽やかな笑い声が重なった。
俺は口をひん曲げた。
「なんだ。二人して極楽にいて、こっそり此方を覗き見してるのか。意地が悪いな」
帰依していれば、死ぬ時に極楽へと導いてくれるという来迎図に描かれる阿弥陀三尊。
阿弥陀如来に観音菩薩。そして勢至菩薩。
ヒミカは姉に観音菩薩を視たと聞いた。ならば中央の阿弥陀如来は佐殿か。では、勢至菩薩は?
そっと息をつく。
「俺は極楽には行けそうにないが、地獄でつとめを果たせば、いつかはまた生まれ変われよう。その時までそこで待っていろ」
——今度こそ迎えに行くから。
そう誓った時、ふわりと風が薫り、背から肩を伝い、耳を掠めて目隠しをしてくる小さな手の気配を感じた。
「だぁれだ?」
その手を掴み、後ろを振り返る。
「お役目、ご苦労さまでございました」
手をついて俺の帰りを出迎えてくれる妻の笑顔。
ホッとして腕を伸ばす。
「そうか。お前が迎えに来てくれたか」
重かった荷を下ろし、その白い手を取って立ち上がる。
もうこの手を離しはしない。ずっと共にいよう。飽きるほどに。
——了
誰かの声がした。追って、腕を持ち上げられ、抱え上げられる。
父上?誰だ?朝時か?いや、あいつは呼ばない限り、俺には寄りつかない。ではシゲか?いや、シゲは京に居着いたまま戻ってこない。
「父上、お気を確かに。誰ぞ、広元殿に使いを!」
ああ、泰時か。
「今、そこに姫御前が居なかったか?」
え、と戸惑う声に、やっと頭がはっきりしてくる。
いや、と首を横に振り、苦笑する。
——だが、やはり居たのだろう。そして、俺をまた動かそうとする。思いのままに。あの日と同じように。
「いいえ、あなたはここに残ってください。鎌倉を守れるのは、貴方だけ」
片側の口の端を上げる。
「お前、今度は俺に何をしろと言う?」
でも、それに答えは返ってこない。
大きく息をつき、松の樹を見上げる。清浄なる緑の尖った葉に新たな白い雪が降り落ちてきていた。
肩を貸してくれていた泰時に告げる。
「私は今宵、この屋敷より出られぬ。将軍の御剣持ちの役は、私と同じ程度の官位の誰か別の者に代わって貰えるよう、大江殿に頼んできてくれるか?」
泰時は諾の返事をするとすぐに去った。理由を尋ねもしない。だが理解したのだろう。彼の育ての親、乳母であった彼女の呼び名を聞いて。
「しょんねぇ。お前には逆らえない」
チラチラと庭を厚く白く埋めていく桜吹雪のような冷たい水の固まりを眺める。
「ヒミカ。日と水と風」
呼び掛ける。
「日の光が足りないぞ。早くその顔を見せろ」
だが、雲が切れることはなく、雪は二尺も降り積もった。
そしてその夜、三代将軍源実朝は、二代将軍源頼家の遺児、公暁に首を斬られて死んだ。また、義時の代わりに御剣持ちの役について参列していた源仲章も同時に公暁に斬られて死んだ。
誰かが実朝と共に自分も殺すつもりだったのだろう。だが、自分は死に損ねた。
「で、何を俺にしろと?」
重ねて尋ねるが、それに応える声はない。答えはわかっている。
泰平の世の中を——
盛大にため息をついてやる。
「ふざけるな。荷が重過ぎる。俺は無力だ。出来ることなど何もない。ただ見ているだけ。流されるだけだ」
それでいいのだと。江間、川の間として全てを流していけと言ったお前。
では、あとは何を流せばいい?どうすれば終わる?早く終わらせたいのに。早くお前の元に行きたいのに。
源実朝が斬られた二年後、京の後鳥羽院が北条義時追討の宣旨を出した。鎌倉幕府にではなく、俺個人に対して。
上手いやり方だと思った。幕府に対してなら御家人らが団結するだろうが、俺一人なら容易に切り捨てるだろうとそう思ったのだ。そしてそれで当然だった。
だが、俺一人の問題ではないと、待ったをかけたのが尼御台である姉だった。
荘園の管理について、頼朝公の作った前例を破ろうとした院を辛うじて抑えていたのが執権である俺で、だからこそ院は俺を槍玉に上げ、そして、だからこそ尼御台は俺を庇わなくてはならなかった。
それに何より、兼ねてからの付け火による逃げ回りの暮らしに、いい加減うんざりしていた姉は嬉々とした顔で立ち上がった。
「やっと尻尾を出したわね」
そう言ってニィッと両の口の端を大きくもたげる。
——怖い女。だから大姉上は止めておけと佐殿には言ったのに。
いや、だから佐殿は選んだのか。相方として。自分のあとを任せられる正室として。
姉は御家人らを前に鬼気迫る顔で胸を反らせて言い放った。
「かつて、亡き頼朝公が相手にしていたのは天下一の大天狗。でも此度は小さな狐火しか灯せぬ意気地なしのチビた妖狐。さっさとその尻尾をフン捕まえて二度と悪さ出来ないようにキツく仕置きしておやり!」
そして、御簾の内に居ながら、御所を震わせる程の胆力を篭めた低い声で男たちに告げた。
「鎌倉幕府御家人としてのその名を重んじる者たちに告ぐ!亡き将軍家の多大なる恩顧を忘れ、妖狐のちゃちな幻術に引っ掛かった愚かな裏切り者たちをとっとと討ち取って、三代の将軍家の遺跡を守って見せよ!ただし、院につきたい者は構わないから、今すぐこの私を斬り捨てて京へと去ね!」
姉の咆哮に鎌倉中が揺れる。
だが、相手は官軍を号して帝を奉る者。賊軍となってでも自分を擁して戦う御家人などいるのか?
その時、ふと比企の尼の顔が浮かんだ。
——天道についてどう思う?
そう問われた。
戸惑った顔で、俺と尼の顔を見比べていた幼いヒミカ。でも、俺が
「世の乱れは天道からの踏み外しに起因すると聞く。ならばそれは正されるべき」
そのように答えたら、真っ直ぐ俺を見て、そっとその長い睫毛を伏せた。幼さが消え、清廉な美を、女を感じさせた瞬間だった。
ああ、そういうお役目だったのか、と合点がゆく。
あの時、尼はそれは俺自身の考えか、それとも佐殿の考えかと尋ねたが、今ならはっきりと答えられる。俺自身の考えだと。天道を正すのは佐殿のお役目ではなく、俺の役目だったのだ。
姉の飛ばした檄で御家人らは奮い立ち、俺は激流の先頭に立つこととなった。だが総大将は泰時。佐殿のご落胤。清廉潔白な男。体面的には俺の嫡男。
「もし、帝御自らが刀を手に我らのゆく手を阻まれたら、どうすべきでしょうか?」
出陣の時、そっと問うてきた泰時に俺は迷いなく答えた。
「その時は、刀捨て弓を折り、膝ついて帝に従え」
——正すべきは天帝にあらず。帝を奉るフリをしながら裏で天道を穢すモノ。これは天道を踏み外させようとする穢れを駆逐する為の戰。
泰時は一言、承服いたしました、と答えて十数騎のみで出陣した。
こんな首など、いつでもくれてやる。狼煙としてでも旗印にでも何にでも使え。
山木の合戦の折、似たようなことを言っていた佐殿を思い出し、そっと笑う。
——やはり、俺はあんたの影だ。そこが心地良い。
泰時は一路京を目指し、それを追った数十万の軍勢全てを纏めて京を完全に制圧した。
優しげで、いつもどこか寂しげな顔をしていた金剛。でも、真の父に託された太刀をその腰に佩き、父の悲願だった都への凱旋を見事果たして見せた。
「やはり血は争えぬものなのですね」
京からの大勝利の報が記された書簡を天に捧げる。
「佐殿、お預かりしていた金剛をお返しいたします」
一陣の突風が吹いて、その紙を吹き飛ばした。白い紙は鳩のように舞い上がり、ハタハタと羽音を残して消える。
「おい、小四郎。暇なら、ちと碁に付き合え」
どこからか聞こえてくる声。
「あんたの欲求不満に付き合って、煮え湯を飲まされるのは、もう御免だ」
そう答えたら、呵々大笑する声と、クスクスと忍び笑う軽やかな笑い声が重なった。
俺は口をひん曲げた。
「なんだ。二人して極楽にいて、こっそり此方を覗き見してるのか。意地が悪いな」
帰依していれば、死ぬ時に極楽へと導いてくれるという来迎図に描かれる阿弥陀三尊。
阿弥陀如来に観音菩薩。そして勢至菩薩。
ヒミカは姉に観音菩薩を視たと聞いた。ならば中央の阿弥陀如来は佐殿か。では、勢至菩薩は?
そっと息をつく。
「俺は極楽には行けそうにないが、地獄でつとめを果たせば、いつかはまた生まれ変われよう。その時までそこで待っていろ」
——今度こそ迎えに行くから。
そう誓った時、ふわりと風が薫り、背から肩を伝い、耳を掠めて目隠しをしてくる小さな手の気配を感じた。
「だぁれだ?」
その手を掴み、後ろを振り返る。
「お役目、ご苦労さまでございました」
手をついて俺の帰りを出迎えてくれる妻の笑顔。
ホッとして腕を伸ばす。
「そうか。お前が迎えに来てくれたか」
重かった荷を下ろし、その白い手を取って立ち上がる。
もうこの手を離しはしない。ずっと共にいよう。飽きるほどに。
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