遠き秋夜夢 <頼朝と政子〉

やまの龍

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撫子と竜胆

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 鹿が鳴いている。

 遠くの山で鳴く声を耳にするならば、一句したためねばと風雅な気にもなろうが、いかんせん声が近い。畑を荒らしに来たのか。秋なのだから山奥で恋をしていればいいものを。

 頼朝は手元の草紙に目を落とし、それから硯箱すずりばこを手に取ろうとして動きを止めた。

 肩にのしかかる重み。墨を磨るには障りとなる。

「重いのだが」

 控えめに苦情を呟いてみるが、改善される気配はない。ちらりと視線を落とせば、案の定その少女はうとうとと微睡まどろんでいた。少し声を強めて彼女の名を呼ぶ。すると少女の瞼がぴくりと震えた。


「ん……」

 遅れて戻ってくる返事。

「眠いなら、部屋へ戻って寝なさい」

 軽い命令口調で顎を戸に向けると、頼朝の肩口を握っていた手に僅か力が戻った。

「眠くない」

 不機嫌な声が応じる。瞳はいつもの半分程しか開いていない。だが意識が戻ったおかげか、肩にのしかかっていた重みは大分減った。とりあえずはそれで良しとして、頼朝は墨を磨り始める。

 ゆっくりと軽い力で硯の海に墨を滑らせる。龍脳の柔らかでふくよかな香りが部屋に広がっていく。鈴虫が羽を擦らせる音に合わせて腕を動かすうちに、いつの間にか鹿の声は遠く移動していた。

「佐殿、お歌読んで」

 幾分かはっきりとした声が乞う。

 頼朝は草紙へ目を落とした。

「かささぎの渡せる橋におく霜の白きをみれば夜ぞ更けにける」

 綴られているままに吟じれば、肩の上の丸い頭が少しだけ持ち上がる。

「ひどい歌」

「ひどい? そうかな」

「ええ、そうよ。七夕に霜だなんて稲が可哀想。縁起の悪い歌だわ」

 文句を言って、また頼朝の肩にもたれかかる。



 かささぎの渡せる橋とは、確かに牽牛と織女が一年に一度出会う天の架け橋のこと。だが夜も更ければ、星の位置は変わる。

「大丈夫。これは冬の歌だ。霜が下りても構わないんだよ」



 そう言ったら、少女は少し首を傾げて「それならいいけど」と肩を竦めた。

彼女は稲穂を愛する東国の土豪の姫。いつも田と共にいて、風を読んでは豊作を願う素朴な田舎の娘だった。

 「ね。他には?佐殿の好きなお歌でいいわよ」

 そう言って、まだ長さの足りない髪を指で摘んで引っ張る。眠いのに我慢してるのだろう。何気無い風を装って口元を袖で隠しつつ、こっそり欠伸を噛み殺して澄ました顔を繕っている。

 大人びた振りが却っていとけなく愛らしい。


 頑固な少女のこと、眠れと言えば却って寝ないのはわかってる。さて、どうするか。

隣の句へと目を移して続ける。

「ひさかたの雨の降る日をただ独り山辺に居ればいぶせかりけり」

「どなたのお歌?」

「中納言家持。さっきの歌も家持だよ」

 ふーん、とあまり興味のなさそうな声が応じる。その反応に頼朝は安堵した。

 意味も考えずに何気なく読んでしまったが、これは作者が辺境の山辺の地で鬱屈して詠んだ歌。今の彼自身の境遇のことかと勘ぐられるのは避けたい。頼朝は別の歌に熱中している風を装って口をつぐんだ。

 ここ伊豆韮山の蛭ヶ小島に送られてから、もう何年経つだろうか。北条の監視の下で流人という立場上、武芸の稽古は出来ぬものの、食客として割に恵まれた環境で写経をしたり書を読んだり、馬を駆けさせたり、時には狩りにも参加するなど、のんびりと穏やかな生活を送ってきた。

 それでも元服した頃には女院や法皇に近侍するなど華やかな世界も知る身。それなりの官位も賜っていた。

 東国にはその昔、父に直に仕えた武将らも多く、頼朝に対する彼らの目には都落ちの同情と憐憫、そして憧れと野心が入り混じった色が乗せられていた。


「ね、佐殿。恋のお歌を詠んで」

 囁くように遠慮がちに紡がれた声が、耳をふわりとくすぐる。

 咄嗟に閉じてしまった草紙を開き直し、それらしい歌はないかと目を走らせる。

「道の辺の尾花がしたの思ひ草 今さらさらに何をか思はむ」

「どういう意味?」

「え」

 さらりと聞かれて、いささか返答に窮する。

 これは不倫か浮気か、忍ぶ恋の歌なのだろう。思い悩むかのように俯いて咲く思ひ草とかけ、だが、もう悩むまいと開き直る歌。

「えーと、そうだな。道の端のススキの下で咲く思い草のように悩むのはやめよう、という歌かな」

「思い草って何?」

「竜胆の花のように首をうなだれて咲く地味な花さ」

「どうして悩むの?」

 恋の歌を乞うたくせに、まだまだ幼い。恋で思い悩むとは思わないらしい。
 頼朝はそっと苦笑する。どう答えたものか。

「尾花、つまりススキはサラサラと音を立てるだろう? それと今更という言葉をかけてあるんだ。思い草と思はむもそうだ。また、ススキに隠されている上に、下を向いて目立たず咲く思い草を自分自身に見立てて卑下しているようだが、その裏で、いつかススキすら凌駕してやるぞ、と固い決意を滲ませていると読むことも出来る」

 歌の技巧的な面を説明して、はぐらかしを図る。

「これも中納言家持のお歌?」

「いや、詠み人知らずだ」

 すると少女は、ふーんと少し難しい顔をしてから、おもむろに口を開いた。

「つまり、年貢や役とかで頭を抑えられてきた、位の低い男衆が、理不尽な行いをするススキの上官に反旗を翻そうと決意を表明したのでしょう? これは血判状に書かれた歌ではないの?」

「え、ああ。そう……とも取れるような取れないような。まぁ、そんなところかな」

 頼朝は、こほんと一つ咳払いをして口元に浮かんだ笑みをそっと隠した。

 さすがは東国の武士の姫と言うべきか。身分違いの恋、許されぬ恋、人目を忍ぶ恋。頽廃たいはい的な都の男女の駆け引きを一刀両断するような少女の潔さに、胸がすっとする。

「恋の歌じゃないわ」

 不服を申し立てる少女に頼朝は素直に詫び、また草紙に目を落とした。

「中納言家持の恋のお歌がいい」

 少女の要望に応えようと、はらはらと紙をめくる。どれがいい? 家持は恋の歌も多く詠んではいる。だが、意味を問われても問題のない歌にしなければ。

 口の中で小さく読み、意味を考えては思い悩む。大伴家持は坂上大嬢にいくつも恋の歌を送っているが、二人は最終的には別れることとなる。それもあまり良い別れ方ではなかった。そこまで突っ込まれないかもしれないが、敏い少女のこと、何が飛び出すかわかったものではない。

 ふと首に凝りを感じれば、肩にずっしりと重みがかかっていた。続いて、すーすーと規則正しい寝息が耳に届く。頼朝は歌選びから解放されたことに幾分安堵を覚えつつ、苦笑した。

「ほら、風邪を引き込むぞ」

 ずり落ちまいと首にしがみつく細い腕にそっと指をかけるが、深く寝入ってしまったらしく何の反応もない。少し力を加えれば腕はぱたりと下へ落ちた。ぐらりと揺れる上体を腕で抱きとめると膝裏を掬って抱え上げる。

「撫子が……」

 最初に目を留めていたが詠まなかった一句。草紙を見ずとも暗誦できる。


「撫子がその花にもが朝な朝な手に取り持ちてこひぬ日なけむ」

 意味を聞かれたら何と答えようか。

——貴女が撫子の花であれば、毎朝手にとって、恋しく思わない日などないのに。

 まだ幼い目元に唇を落としかけて、はたと気付いて顔を上げる。

「さすがに北条殿に殺されるな」

 いつか、あと少し。少女が大人になったら妻にして、朝な朝な手に取り持って、共に歌を読み、共に稲と土地、人を守って、共に白髪になるまで……。

 だが竜胆の歌が頭をよぎる。目の端で存在を顕示する妖刀——髭切。

「それこそ、今さらさらに、というもの」

 こんな刀、何故自分に託されたのか。長兄の方が、次兄の方がずっと似合いだったというのに。自分にはこの穏やかな暮らしこそが似合っている。この稚い少女と共に年を重ねて。

 いつか雨が降り始めたらしく虫の音は止んでいた。だが牡鹿が牝鹿を求めて鳴く声は、まだ遠く小さく届いてくる。

 撫子と竜胆。秋を彩る美しい色。山から吹き下りた風がススキの細い葉を散らす気配。 

 ふと気づくと、少女の口元が動いている。むぐむぐと何か美味しいものを食しているような動き。幸せそうなその顔に頬を緩ませる。

 この重みが、この温もりが、この柔らかな気配が、共にありますよう。出来うる限り長く留めておけますよう。

 山の神へと祈りを捧げる。

「人も無き国もあらぬか吾妹子と携ひ行きて副ひてをらむ」

——誰もいない国。きみと二人、ただ手を繋いで共にありたい。

 もし、許されるならば。



——了

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