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本編 『転』
第四十二章 王道と美学
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「ふふふ~ふん、ふん、ふん~ふふふんふん、ふんふん~」
そろそろ初夏の陽射しになり掛けている中、その少女は鼻歌を口ずさみながら自宅の玄関先を竹箒で掃除していた。
腰まで届く浅い色の赤毛をうなじでひっつかみにし、ワンピースにエプロンに健康サンダルと見た目の年齢の割には妙に主婦然とした貫禄がある。
名をフィーネ・アーディと言った。
この統境圏にパートナーと共に流れてきて、もう三年になる。
最初の頃は新しく、そして慣れない生活に四苦八苦したものだが、人間やってみれば何とかなるものだ。
最近ではパートナーの仕事も軌道に乗って、駆け出しの頃は色々と手伝っていたのだが、今では一人で回せるようになったからと手を貸すこともなくなった。
元々、彼は彼女に電脳界での仕事をさせたくは無かったのも理由に挙がるが。
その気遣いをありがたいやら寂しいやらと複雑な思いもあるが、だったらと他にもやることはあるのだ。何しろ、あのパートナーと来たら出不精で不摂生の極みだ。多分、理由がなければずっと鉄棺に籠もりっぱなしだろうというのは想像に難くない。身の回りのことには全くの無頓着で、フィーネが世話しなければその内埃に埋もれるか体からカビが生えてくるに違いない。
だからこそ家事を自分の仕事と定めて、彼女は日がな一日炊事洗濯掃除と主婦の真似事をしている。そして今日も普段と同じタスクをこなしていると、不意に来客があった。
黒い猫が何処からとも無くトテトテと現れて、フィーネが喜々として猫に構おうとした瞬間である。
「こんにちわ。LAKIはいるだろうか」
丁寧な挨拶と共にパートナーの在宅をその猫から訊ねられた。
●
「だから何で毎回リアルで訪問してくるんだお前らは」
突然同居人が招き入れた珍客を前に、LAKIはジト目で両名を睨んだ。
「いいじゃないいっくん。喋る猫ちゃんなんて私、初めて見たよ」
「問題なかろういっくん。吾輩も可愛がられて悪くない気分だ」
「こしょこしょー」
「あー………そこそこ、撫でるのが上手いな君は」
フィーネはアズライトを胸に抱き、指先で猫の体をまさぐっていた。アズライトも満更ではないようで、されるがままに身を委ねていた。いつの間にやら妙に仲良くなっている。
「いやいっくん言うなし。対外的にはLAKIで通しているんだから」
「何故だ?」
「ちょっと特殊な事情があんだよ。俺達にはな」
「そうか。ならば聞くまい」
「そうしてくれ。で、何の用だ?」
余り触れられたくない部分をさらっとスルーし、本題を促してやると、猫は一つ頷いて。
「貴史についてだ」
「後輩の?そういや、無茶したんだってな」
「知っているのか?」
「俺を何だと思ってるんだよ」
トントンと自分の頭を叩くジェスチャーをされれば理解も出来る。
そもそもが情報統制官。つまり電子戦のスペシャリストだ。ならば先週に起こったエリカの誘拐未遂や、それに纏わる顛末を含めた諸々を知っていてもおかしくはない。
ならば、とアズライトは自らの望みと要点を口にした
つまり、ここ暫くの新見の不調がソフトウェアに由来するもので一般的な調整が難しいこと。ましてヘリオス自体があの天才の遺物だと踏まえれば、触れる人間も限られること。
それらに通じているであろうLAKIに頼むのは―――。
「なぁる。パッチを作れってか」
「電子カルテは持ってきた。これを元にすれば作れるはずだ」
「そりゃ構わないが、本人連れてくればいいだろうに」
そっちの方が楽だぜ、と言う彼に黒猫は頭を振った。
「それは野暮というものだ」
「あん?」
「互いに惹かれ合い始めている男女を察せず引き離すのは、そう―――きっとアイがないのだろう」
唐突に愛を語る猫に、LAKIとフィーネは顔を見合わせて。
「アズライトちゃんはロマンチックキャットね!」
「何か地方競馬にいそうな名前だな………」
目をキラキラさせるフィーネにLAKIは呆れ顔で率直な感想を述べた。
「ま、いいか。で?報酬は?」
「肉球」
「お前ふざけてんの?」
提示された報酬にジト目になる彼に、しかし猫はゆらゆらと尻尾を揺らして。
「君こそふざけていないかLAKI。猫に差し出せるものなど肉球か尻尾か腹しか無い。あと愛嬌」
「良い根性してんなこの畜生」
金にならないなら引き受けない、と喉までで掛けたところで、猫が図ったかのようにフィーネを見上げた。
そしてまんまるな青い瞳でこう言うのだ。
「助けてお姉ちゃん」
「―――いいじゃないいっくん。アズライトちゃんの力になってあげて?」
「このあざとさの塊が………!」
即座にLAKIとフィーネの関係性、そしてパワーバランスを見抜いた上での言動にフィーネは陥落。そしてその尻に敷かれているLAKIには断る術は無かった。
「ちっ。暫く待ってろ」
結局、舌打ち一つしてLAKIは電子カルテのデータを受け取るとリビングから二階の自分の部屋へと向かって行った。
「怒っただろうか?」
「大丈夫だよ。いっくん、優しいから」
その後ろ姿を見送って、黒猫は若干気にはしたが、フィーネがケラケラ笑っていたのでそういうものかと思うことにした。この猫もかなり図太くなってきている。
「それより、何して遊ぼっか」
「時間がかかりそうなら、何かの映像作品が見たい」
「いいよ。映画?特撮?アニメ?お姉ちゃん色々持っているから」
そう言って、彼女はアズライトを抱っこしたまま自分の部屋へと招き入れた。
女性の部屋と言えば、アズライトの創造主である三村なぎさぐらいしか参考例がない彼だが、それを参考にしても変わった部屋だなと言う感想が出た。
「これは………」
「いいでしょう?私の趣味部屋。ちょっとした自慢なんだから」
主の部屋は大概殺風景だった。それもそのはずでほぼ寝るぐらいにしか使っていなかったからだ。フィーネの部屋はそれとは真反対で物に溢れていた。だが、乱雑にされているのではなく、かなり整頓されている。特に目を引くのは壁三面に大きな本棚か。備え付けられているそこには、紙媒体の本やら円盤やらが敷き詰められていた。
「すまないが、吾輩には価値が分からない」
その作品群を見上げては見たが、余りに多すぎて困惑していると、フィーネは考え込む仕草を見せ。
「んー………それじゃ、まずはお約束のいろはをまずは覚えてもらおうかしら」
「お約束」
「そう。王道、とも言うわね。―――超大事よ?」
A.Iに、ある種の英才教育を施し始めた。
俗に、漢の英才教育と呼ばれるそれを得て、A.Iが如何な感覚質を獲得したかは―――今はまだ、誰にも分からない。
●
「お兄ちゃん、がっこう行かなくていいの?パパとママ、しけんがあるって言ってたよ」
いつもの何だか気が乗らない日に教練校をサボった木林は長嶋邸で朝食をタカっていた。
食器洗いを長嶋静流に任せ、一人食後の茶を飲んでいるといつものように久遠がひょっこり顔を覗かせて、唐突にそんなことを宣った。
「いーんだよ。むしろ赤点取った罰で強い奴とやり合えるからもしれねぇからな」
鐘渡教練校の補習にそんな戦闘狂なものはないのだが、とりあえず反抗しときゃ良いだろというヤンキーマインドの木林であった。
しかしそんな彼を見て、久遠はこてんと頭を傾げ。
「―――どM?」
「オイコラ待て何処で覚えたそんな言葉」
「このあいだ、パパがカツお兄ちゃんのこと『アイツはなぐられるのが好きなどMっていうヘンタイだからちかづくな』って。―――お兄ちゃん、ヘンタイさんなの?」
「よしあのデカブツ畳んでくるか」
ガキになんて言葉吹き込んでやがるあのヘタレ、と憤った木林は腰を上げ掛けるが、制服の袖を久遠に掴まれた。
それを振り切ることも当然できたが、袖を掴んだ彼女が顔を伏せていることに気づいて、結局腰を下ろすことになった。何となくだが何時もと様子が違うと感じたのだ。それ程長い付き合いではないが、それでもここしばらくは顔を会わせることが多かった。木林自身も勘が良い。相手の微妙な感情の機微にはすぐに気づいた。
「近づくなって言われてんだろ?」
「お兄ちゃん、わるいお兄ちゃんじゃないから」
「バーカ。親の言う事は聞いてやれよ」
だから、久遠の次の言葉に木林は思わず息を飲むこととなる。
「パパとママは、ほんとうのパパとママじゃないの、しってるから」
「―――お前」
二の句が継げなかった。久遠の来歴はある程度静流から聞かされていたが、本人はその事に自覚がないとも言われていたのだ。だが、彼女は既に自力で気づいている。自分が何者なのか分からなくても、傍にいる両親が本物でないことを。
それでも。
「でも、やさしいの。だけど、だけど………」
「そうかよ」
寄る辺無き身であったとしても、優しくしてくれる周囲の関係を信じたくて幼い心は必死に不安に耐えていた。いや、むしろだからこそそうするしかなかったのだ。もしも真実を問うたのならば、それと引き換えに今ある優しさが溶けて無くなってしまうのではないかと思ったから。
彼女は幼いながらも、その果てを予見していた。
(どうしたもんかね、こりゃ………)
顔を伏せ、肩を震わせる幼い子供を前に木林は嘆息した。
親になったことは当然、余り親に甘えてこなかった木林にはどうすることも出来ず、取り敢えずは不器用に久遠の頭を撫でてやることにした。
それでもまだ、久遠は涙を流すことはなかった。
●
昼休みを利用して、三上と飛崎は班室に集っていた。
さっさと昼食を済ませて、テーブルに広げるのは筆記用具と教科書の群れ。自分達で広げておきながら、それを眺めて男二人が嘆息する。
その理由は―――。
「教練校生になっても中間試験はあるんだなぁ………」
「全くだ。面倒極まりねぇな………」
試験範囲の確認だった。
朝のミーティングで班長である新見に『そう言えばそろそろ試験あるけど大丈夫だよね?』と尋ねられ、二人は『お、おう………』と曖昧な返事をした。正直な所、すっかり忘れていたのである。
慣例として所属班の二年生が面倒を見るらしいのだが、体の不調もある新見にこれ以上の心労は割りとマジで死ぬんじゃないかと案じた二人はこっそりと勉強会を開くことにしたのだ。因みに、エリカとリリィは当然のように余裕だそうで、新見も特に勉強をしなくても赤点を取らない程度には地頭は良い。
では三上と飛崎はと言うと。
「しっかし意外だった。言語関係はめっちゃ得意なんだな、レン」
「凍結状態になる前は海外留学が決まってたから、英語だけはめっちゃ勉強したんだわ。目覚めたら南米で実地でも学んだしな。歴史とか現国とか古文は婆ちゃんと時代劇良く見てたから、元々得意だった。―――代わりに理数系が全滅だが」
「俺は逆に理数系は得意だけど、言語関係が全滅なんだよなぁ………古文とか将来使うのかよ」
「三角関数とか微分積分って設計者の領分だろ?四則演算さえできりゃ問題ねぇだろうに」
得意教科が尖りすぎていて、苦手分野が比較的絶望的だった。そういう事もあって、お互いの苦手分野をフォローしようと集ったのである。
「あ、そういえば」
勉強も進み、そろそろ昼休みも終わろうかという頃、三上が思い出したかのように口を開いた。
「なぁ、レン」
「なんぞ?」
「古文でさ、引かれなば悪しき道にも入りぬべしって知ってるか?」
「心の駒に手綱を許すなって続く古歌だろ?それが何だ?」
するっと出てきた返答に、三上は流石、と感嘆して尋ねてみた。
「どういう意味だ?」
「オイコラ現代っ子。便利な板やら箱があるんだから自分で調べろよ」
儂は辞書じゃねぇぞ、と飛崎は辟易し、それでも分かりやすく解説してやることにする。
「早い話、人間の心なんざテキトーしてれば揺れるし暴走するしよく分からんことになるから、しっかり制御しとけよってこったな」
「制御」
「人間のやることなんざ、何をするにしても感情を伴うもんだ。切り離して行動しているつもりでも、どっかでしわ寄せが来る。だが心のままに動かすのと心のままに動くのは似てるようで違う。棲み分け、ケジメ、TPO、色々言い方はあるが、何事か成そうとするのならどの道感情は制御せにゃならん」
「精神修養って奴か?」
「そうだな。だが、パンピーが一年二年それをやったところで身につくとは思わんがね」
「じゃぁどうすんだよ。座禅でもしろってか?」
「経験談でいいか?」
「ああ」
三上の頷きに、飛崎はぴっと人差し指を立ててこう宣った。
「美学だよ。美学を持て。そしてそれを絶えず磨け」
「お前事ある毎にそれ言うよな」
前々から折に触れて美学を語る飛崎に、三上は呆れ顔になった。正直、またそれかよと思わなくもない。しかしそれは飛崎も分かっているようで、呵呵と笑ってその理由を話す。
「最初は婆ちゃんの受売りだったが、色んな奴と知り合って、人が人であるのに必要なことだと知ったしな。大抵の人間は気づかなくても大なり小なり自分の美学は持っているし、持っていない人間は軒並み屑だ。総じて人としての価値が無い。だったら人格とか人権とか消して家畜か歯車でもやってればいいと思う。正直、儂は人として見てない。ゲームで言うならNPCかなんかだと思ってる」
「酷ぇ奴………」
「人間ってのは所詮我欲や欲動ありきの生き物なんだよ。そうやって進化してきたんだから、どうやったって否定しようがない。だからそこを理解し制御して、それでもと自分が寄って立つ考えに邁進するのが正しい在り方だ。目を背けたり、詭弁を弄して誤魔化すからおかしなことになる」
その人間の立脚点こそが美学だと彼は語った。
「我欲や欲動、ねぇ………」
「我儘って奴だ。―――美学を語る上で大事なことだぞ?」
「ガキの頃、我儘言うなって育てられたんだけど」
「責任や負担は全部親に丸投げで、ああしたいこうしたいと言うだけやるだけなんだからそりゃぁそうよ。その癖後始末も親に任せっきりだろ?酷い奴になると途中で放り出すし。そういうのは駄々っていうんだよ。みっともねぇったらありゃしねぇ」
「うっ………」
思い当たる節があったか、飛崎の言葉に三上は言葉を詰めた。
「美学はな、そこで発生する責任も負担も後始末も、全部ひっくるめて自分で背負って振れずに通すから美学足り得るんだ。それを見失っちゃぁ、ガキの駄々と変わんねぇのさ」
だから感情を制御したいなら美学を持て、と彼は締めくくった。
「話がそれたな。んで?その古歌が何だよ」
「いや、先生に前に言われたんだよ。だけど、今の今まで忘れてて」
「悪い奴」
「いやだってほら、最近は殴れるようにはなったし………」
言い訳がましく目を逸らす三上に、飛崎はポツリと呟いた。
「―――自覚はしてねぇ、か」
「え?」
「いんや、気付いてないならいいさ。それよりほら、そろそろ昼休みも終わるんだから追い込むぞ。このサイン・コサイン・タンジェントとか言う暗号を平文に直してくれ」
「三角関数はエニグマじゃねーよ?」
この時にもっと深く聞いておけばと、後々三上は酷く後悔することになる。
●
夕刻、横浜市内のある邸宅に灰村高虎はいた。
武家屋敷のような日本家屋で、庭の手入れも専属の庭師を入れてしっかりしているらしく、きっとそれに精通する人間からすれば侘び寂びを感じるであろう。だが、そうした修飾に無頓着な灰村からしてみれば『金の掛かる趣味だな』としか思えなかった。
「伊藤組に続いて広辻会が壊滅したってのは良くないな」
「やっぱ親父さんもそう見るか?」
「ああ、所詮、ウチもはみ出しモンの寄り合い所帯なのは変わらん。外に敵があるから纏まっちゃぁいたが、それが居なくば、次はテメェの足場って寸法よ」
その庭を臨む一室で、灰村は和装の老人と差し向かいで話していた。
今年で75を迎える中背の男性だが、背筋は伸びているし、喋りもしっかりしている。その佇まいや眼光は老いて尚鋭く、気の弱い人間ならば目も合わせることすら難しい程の威圧感があった。
名を、安曇利重と言う。今や統境圏の裏社会を支配する安曇会の会長であった。
灰村との付き合いはそろそろ十年になろうとしている。教練校を卒業後、三年の徴兵を終えた灰村がフラフラと歓楽街を流しの用心棒をしていた頃に出会った。一時は組にも誘われはしたが、組織に飼われるのにうんざりしていた灰村はそれを拒否。だが、その独立心を気に入ったのか安曇は灰村を年の離れた友人として扱うようになった。
以来、こうしてちょくちょく茶飲みがてら呼ばれたり会いに行ったりする関係性だ。灰村の人脈の広さは、これに起因している。
「暫くは残党を始末するなり吸収するなりで忙しいから大丈夫だろうが、それが終わったら内部抗争だろうな」
「広辻会との全面戦争よりかはマシにはなったが………」
「伊藤と広辻の人員食って膨れ上がってるんだ。規模は多少縮小しても余り変わらん。それに、情けないことだがウチも跡目で揉めている」
「誰が考えたかしらねぇが、今までの三竦みってのは理に適ってたんだなぁ………」
「―――そうだな」
「そういや、安曇会は最古参だったか。ひょっとして、知っているのか、親父さん」
「まぁ、な」
安曇はそこで一旦言葉を切って、僅かに瞑目するとこう切り出した。
「ワシももう長くはない。倅や若頭には伝えてあるが、お前にも教えておくか」
「おいおい、縁起でもねぇこと言うなよ」
まぁ聞けよ、と彼は前置いて。
「いいか?今、政府に関わっていて西泉の名前を持っているヤツには気をつけろ」
「西泉?参院議員の西泉義一か?」
「それを含めて、西泉の名がついている公僕だ」
「何だよ、まるで一族丸ごと………おい、そういうことか?」
「一時期を境に、その名を持つ優秀なヤツが増えた。結婚して名字が変わっている奴もいるが、旧姓を探ると西泉に行き着く。西泉議員はその最初の男だな。もう、何十年も前の話になる。まだワシが親父から組を継いだばかりの頃、あのガキは接触してきた」
当時、『消却事変』黎明期を抜け出て、混乱期と称される慌ただしくも活気に溢れた時代だ。安曇会はまだ安曇組と名乗っていて、表向きは小さな自警団だった。無論、それだけで荒れた社会を生きていけるはずもなく、当然後ろ暗いこともした。
しかし治安維持を考えると概ね社会貢献寄りの行動指針を採っていて、それが一人の―――当時は小学生だった少年の目に止まった。
彼は唐突に組事務所に現れ、『裏社会を纏めるために、天下三分の計をしてみませんか?』と話を持ちかけた。
当然、安曇は当時からして組長であり、護衛の類は普段から付いている。その目を掻い潜って自分と二人っきりになることがまず異常であるし、出た言葉も異常と言えた。
まず頭に過ったのは早期覚醒者。幼くして異能に目覚めた適合者ならば、異能を用いて護衛を掻い潜って自分の前に現れたのは納得できる。だが、治安維持に関して出てきた天下三分の計―――その概略を聞いて眉をひそめた。およそ小学生が考えつく内容でないし、何かしら少年を操っている存在がいる―――と、当時の安曇は考えた。
話を飲んだのは、その黒幕を探るためだった。殊更命を大事にしているわけではないが、自分の死の影響は部下達の生活にも波及する。組織の長である以上、軽々には死ねないのだ。だというのに、この不可解な少年に懐まで入り込まれている。安曇とて荒事を生業とする以上、それなりに戦えはするが適合者ではないのだ。少年が暗殺を試みようと動けば、容易く完遂されるだろう。
だが、結果から言って黒幕など居なかった。いや、あの少年―――西泉義一こそが黒幕であったのだ。
以後、安曇は西泉と利用し利用される間柄で付かず離れずに接してきた。時に抗争相手を指示され、時に利益のために食う組織を選定し弱体化を指示する。そうして、まるで蠱毒のように密度を増して3つの勢力が出来上がった。
「結果、裏社会は一種の安定期に入って今に至るんだ」
全ては、あの少年が描いた絵図の通りになった。
ある時ふと自らの道程を振り返った時に、安曇は戦慄したと言う。
「仮に関わることがあっても、深入りはするなよ。アイツ等からは死臭がする」
「分かったよ」
「それから、ウチに何かあったら頼んだぞ。若衆には、コレをお前に預けると言ってある」
そう言って彼が懐から取り出したのは、一枚の封書。表面には達筆で遺言状と書かれていた。
「おいおい、俺は組員でも何でも無いんだぞ」
「分かってるさ。ただ、このままタダで終わらねぇ気がするんだよ。どうにも、嫌な予感がする」
そしてこの予感は、紛うこと無く的中することになる。
●
同じ頃、メティオンとブライアンは顔を突き合わせていた。
「ガリウスからの連絡は?」
「仕込みは終えたそうです。―――しかし面倒な相手ですね、アレ」
「否定はせんが、アレで腕は良い。対電脳界に限って言えば上から数えた方が早いぐらいだし、正義感や倫理観から解き放たれている分汚れ仕事に躊躇いがない」
「薬物中毒者みたいな言動しているんですけどね………」
「あれは擬態だ。奇抜な言動で相手を揺さぶるのが奴の他人との距離の図り方だからな。性質的には全く逆で理性的だが、手段のために目的を選ばない快楽型破滅主義者だ」
それでも有用だから使うがね、とメティオンは苦笑して一息つく。
「さて。これで全ての準備は整ったな。後はタイミングだが………」
「先程、無貌からメッセージが届きました。どうやら、中間考査の後で打ち上げをするそうで」
「全く、学生というのは気楽で良いものだ………。では、シュガールを除いた全戦力を姫の確保に。今回は私も出よう」
「よろしいので?」
「人手不足は否めないし、重要な局面だ。直接指揮を取る。君には現場を頼むよ」
「了解です。翠の巫女は………シュガール大司教一人で十分でしょうね」
「アレで『歩く天災』だ。ただの学生相手ならしくじりようもないよ」
こうして、統境圏全土を巻き込む悪意が遂に動き出した。
そろそろ初夏の陽射しになり掛けている中、その少女は鼻歌を口ずさみながら自宅の玄関先を竹箒で掃除していた。
腰まで届く浅い色の赤毛をうなじでひっつかみにし、ワンピースにエプロンに健康サンダルと見た目の年齢の割には妙に主婦然とした貫禄がある。
名をフィーネ・アーディと言った。
この統境圏にパートナーと共に流れてきて、もう三年になる。
最初の頃は新しく、そして慣れない生活に四苦八苦したものだが、人間やってみれば何とかなるものだ。
最近ではパートナーの仕事も軌道に乗って、駆け出しの頃は色々と手伝っていたのだが、今では一人で回せるようになったからと手を貸すこともなくなった。
元々、彼は彼女に電脳界での仕事をさせたくは無かったのも理由に挙がるが。
その気遣いをありがたいやら寂しいやらと複雑な思いもあるが、だったらと他にもやることはあるのだ。何しろ、あのパートナーと来たら出不精で不摂生の極みだ。多分、理由がなければずっと鉄棺に籠もりっぱなしだろうというのは想像に難くない。身の回りのことには全くの無頓着で、フィーネが世話しなければその内埃に埋もれるか体からカビが生えてくるに違いない。
だからこそ家事を自分の仕事と定めて、彼女は日がな一日炊事洗濯掃除と主婦の真似事をしている。そして今日も普段と同じタスクをこなしていると、不意に来客があった。
黒い猫が何処からとも無くトテトテと現れて、フィーネが喜々として猫に構おうとした瞬間である。
「こんにちわ。LAKIはいるだろうか」
丁寧な挨拶と共にパートナーの在宅をその猫から訊ねられた。
●
「だから何で毎回リアルで訪問してくるんだお前らは」
突然同居人が招き入れた珍客を前に、LAKIはジト目で両名を睨んだ。
「いいじゃないいっくん。喋る猫ちゃんなんて私、初めて見たよ」
「問題なかろういっくん。吾輩も可愛がられて悪くない気分だ」
「こしょこしょー」
「あー………そこそこ、撫でるのが上手いな君は」
フィーネはアズライトを胸に抱き、指先で猫の体をまさぐっていた。アズライトも満更ではないようで、されるがままに身を委ねていた。いつの間にやら妙に仲良くなっている。
「いやいっくん言うなし。対外的にはLAKIで通しているんだから」
「何故だ?」
「ちょっと特殊な事情があんだよ。俺達にはな」
「そうか。ならば聞くまい」
「そうしてくれ。で、何の用だ?」
余り触れられたくない部分をさらっとスルーし、本題を促してやると、猫は一つ頷いて。
「貴史についてだ」
「後輩の?そういや、無茶したんだってな」
「知っているのか?」
「俺を何だと思ってるんだよ」
トントンと自分の頭を叩くジェスチャーをされれば理解も出来る。
そもそもが情報統制官。つまり電子戦のスペシャリストだ。ならば先週に起こったエリカの誘拐未遂や、それに纏わる顛末を含めた諸々を知っていてもおかしくはない。
ならば、とアズライトは自らの望みと要点を口にした
つまり、ここ暫くの新見の不調がソフトウェアに由来するもので一般的な調整が難しいこと。ましてヘリオス自体があの天才の遺物だと踏まえれば、触れる人間も限られること。
それらに通じているであろうLAKIに頼むのは―――。
「なぁる。パッチを作れってか」
「電子カルテは持ってきた。これを元にすれば作れるはずだ」
「そりゃ構わないが、本人連れてくればいいだろうに」
そっちの方が楽だぜ、と言う彼に黒猫は頭を振った。
「それは野暮というものだ」
「あん?」
「互いに惹かれ合い始めている男女を察せず引き離すのは、そう―――きっとアイがないのだろう」
唐突に愛を語る猫に、LAKIとフィーネは顔を見合わせて。
「アズライトちゃんはロマンチックキャットね!」
「何か地方競馬にいそうな名前だな………」
目をキラキラさせるフィーネにLAKIは呆れ顔で率直な感想を述べた。
「ま、いいか。で?報酬は?」
「肉球」
「お前ふざけてんの?」
提示された報酬にジト目になる彼に、しかし猫はゆらゆらと尻尾を揺らして。
「君こそふざけていないかLAKI。猫に差し出せるものなど肉球か尻尾か腹しか無い。あと愛嬌」
「良い根性してんなこの畜生」
金にならないなら引き受けない、と喉までで掛けたところで、猫が図ったかのようにフィーネを見上げた。
そしてまんまるな青い瞳でこう言うのだ。
「助けてお姉ちゃん」
「―――いいじゃないいっくん。アズライトちゃんの力になってあげて?」
「このあざとさの塊が………!」
即座にLAKIとフィーネの関係性、そしてパワーバランスを見抜いた上での言動にフィーネは陥落。そしてその尻に敷かれているLAKIには断る術は無かった。
「ちっ。暫く待ってろ」
結局、舌打ち一つしてLAKIは電子カルテのデータを受け取るとリビングから二階の自分の部屋へと向かって行った。
「怒っただろうか?」
「大丈夫だよ。いっくん、優しいから」
その後ろ姿を見送って、黒猫は若干気にはしたが、フィーネがケラケラ笑っていたのでそういうものかと思うことにした。この猫もかなり図太くなってきている。
「それより、何して遊ぼっか」
「時間がかかりそうなら、何かの映像作品が見たい」
「いいよ。映画?特撮?アニメ?お姉ちゃん色々持っているから」
そう言って、彼女はアズライトを抱っこしたまま自分の部屋へと招き入れた。
女性の部屋と言えば、アズライトの創造主である三村なぎさぐらいしか参考例がない彼だが、それを参考にしても変わった部屋だなと言う感想が出た。
「これは………」
「いいでしょう?私の趣味部屋。ちょっとした自慢なんだから」
主の部屋は大概殺風景だった。それもそのはずでほぼ寝るぐらいにしか使っていなかったからだ。フィーネの部屋はそれとは真反対で物に溢れていた。だが、乱雑にされているのではなく、かなり整頓されている。特に目を引くのは壁三面に大きな本棚か。備え付けられているそこには、紙媒体の本やら円盤やらが敷き詰められていた。
「すまないが、吾輩には価値が分からない」
その作品群を見上げては見たが、余りに多すぎて困惑していると、フィーネは考え込む仕草を見せ。
「んー………それじゃ、まずはお約束のいろはをまずは覚えてもらおうかしら」
「お約束」
「そう。王道、とも言うわね。―――超大事よ?」
A.Iに、ある種の英才教育を施し始めた。
俗に、漢の英才教育と呼ばれるそれを得て、A.Iが如何な感覚質を獲得したかは―――今はまだ、誰にも分からない。
●
「お兄ちゃん、がっこう行かなくていいの?パパとママ、しけんがあるって言ってたよ」
いつもの何だか気が乗らない日に教練校をサボった木林は長嶋邸で朝食をタカっていた。
食器洗いを長嶋静流に任せ、一人食後の茶を飲んでいるといつものように久遠がひょっこり顔を覗かせて、唐突にそんなことを宣った。
「いーんだよ。むしろ赤点取った罰で強い奴とやり合えるからもしれねぇからな」
鐘渡教練校の補習にそんな戦闘狂なものはないのだが、とりあえず反抗しときゃ良いだろというヤンキーマインドの木林であった。
しかしそんな彼を見て、久遠はこてんと頭を傾げ。
「―――どM?」
「オイコラ待て何処で覚えたそんな言葉」
「このあいだ、パパがカツお兄ちゃんのこと『アイツはなぐられるのが好きなどMっていうヘンタイだからちかづくな』って。―――お兄ちゃん、ヘンタイさんなの?」
「よしあのデカブツ畳んでくるか」
ガキになんて言葉吹き込んでやがるあのヘタレ、と憤った木林は腰を上げ掛けるが、制服の袖を久遠に掴まれた。
それを振り切ることも当然できたが、袖を掴んだ彼女が顔を伏せていることに気づいて、結局腰を下ろすことになった。何となくだが何時もと様子が違うと感じたのだ。それ程長い付き合いではないが、それでもここしばらくは顔を会わせることが多かった。木林自身も勘が良い。相手の微妙な感情の機微にはすぐに気づいた。
「近づくなって言われてんだろ?」
「お兄ちゃん、わるいお兄ちゃんじゃないから」
「バーカ。親の言う事は聞いてやれよ」
だから、久遠の次の言葉に木林は思わず息を飲むこととなる。
「パパとママは、ほんとうのパパとママじゃないの、しってるから」
「―――お前」
二の句が継げなかった。久遠の来歴はある程度静流から聞かされていたが、本人はその事に自覚がないとも言われていたのだ。だが、彼女は既に自力で気づいている。自分が何者なのか分からなくても、傍にいる両親が本物でないことを。
それでも。
「でも、やさしいの。だけど、だけど………」
「そうかよ」
寄る辺無き身であったとしても、優しくしてくれる周囲の関係を信じたくて幼い心は必死に不安に耐えていた。いや、むしろだからこそそうするしかなかったのだ。もしも真実を問うたのならば、それと引き換えに今ある優しさが溶けて無くなってしまうのではないかと思ったから。
彼女は幼いながらも、その果てを予見していた。
(どうしたもんかね、こりゃ………)
顔を伏せ、肩を震わせる幼い子供を前に木林は嘆息した。
親になったことは当然、余り親に甘えてこなかった木林にはどうすることも出来ず、取り敢えずは不器用に久遠の頭を撫でてやることにした。
それでもまだ、久遠は涙を流すことはなかった。
●
昼休みを利用して、三上と飛崎は班室に集っていた。
さっさと昼食を済ませて、テーブルに広げるのは筆記用具と教科書の群れ。自分達で広げておきながら、それを眺めて男二人が嘆息する。
その理由は―――。
「教練校生になっても中間試験はあるんだなぁ………」
「全くだ。面倒極まりねぇな………」
試験範囲の確認だった。
朝のミーティングで班長である新見に『そう言えばそろそろ試験あるけど大丈夫だよね?』と尋ねられ、二人は『お、おう………』と曖昧な返事をした。正直な所、すっかり忘れていたのである。
慣例として所属班の二年生が面倒を見るらしいのだが、体の不調もある新見にこれ以上の心労は割りとマジで死ぬんじゃないかと案じた二人はこっそりと勉強会を開くことにしたのだ。因みに、エリカとリリィは当然のように余裕だそうで、新見も特に勉強をしなくても赤点を取らない程度には地頭は良い。
では三上と飛崎はと言うと。
「しっかし意外だった。言語関係はめっちゃ得意なんだな、レン」
「凍結状態になる前は海外留学が決まってたから、英語だけはめっちゃ勉強したんだわ。目覚めたら南米で実地でも学んだしな。歴史とか現国とか古文は婆ちゃんと時代劇良く見てたから、元々得意だった。―――代わりに理数系が全滅だが」
「俺は逆に理数系は得意だけど、言語関係が全滅なんだよなぁ………古文とか将来使うのかよ」
「三角関数とか微分積分って設計者の領分だろ?四則演算さえできりゃ問題ねぇだろうに」
得意教科が尖りすぎていて、苦手分野が比較的絶望的だった。そういう事もあって、お互いの苦手分野をフォローしようと集ったのである。
「あ、そういえば」
勉強も進み、そろそろ昼休みも終わろうかという頃、三上が思い出したかのように口を開いた。
「なぁ、レン」
「なんぞ?」
「古文でさ、引かれなば悪しき道にも入りぬべしって知ってるか?」
「心の駒に手綱を許すなって続く古歌だろ?それが何だ?」
するっと出てきた返答に、三上は流石、と感嘆して尋ねてみた。
「どういう意味だ?」
「オイコラ現代っ子。便利な板やら箱があるんだから自分で調べろよ」
儂は辞書じゃねぇぞ、と飛崎は辟易し、それでも分かりやすく解説してやることにする。
「早い話、人間の心なんざテキトーしてれば揺れるし暴走するしよく分からんことになるから、しっかり制御しとけよってこったな」
「制御」
「人間のやることなんざ、何をするにしても感情を伴うもんだ。切り離して行動しているつもりでも、どっかでしわ寄せが来る。だが心のままに動かすのと心のままに動くのは似てるようで違う。棲み分け、ケジメ、TPO、色々言い方はあるが、何事か成そうとするのならどの道感情は制御せにゃならん」
「精神修養って奴か?」
「そうだな。だが、パンピーが一年二年それをやったところで身につくとは思わんがね」
「じゃぁどうすんだよ。座禅でもしろってか?」
「経験談でいいか?」
「ああ」
三上の頷きに、飛崎はぴっと人差し指を立ててこう宣った。
「美学だよ。美学を持て。そしてそれを絶えず磨け」
「お前事ある毎にそれ言うよな」
前々から折に触れて美学を語る飛崎に、三上は呆れ顔になった。正直、またそれかよと思わなくもない。しかしそれは飛崎も分かっているようで、呵呵と笑ってその理由を話す。
「最初は婆ちゃんの受売りだったが、色んな奴と知り合って、人が人であるのに必要なことだと知ったしな。大抵の人間は気づかなくても大なり小なり自分の美学は持っているし、持っていない人間は軒並み屑だ。総じて人としての価値が無い。だったら人格とか人権とか消して家畜か歯車でもやってればいいと思う。正直、儂は人として見てない。ゲームで言うならNPCかなんかだと思ってる」
「酷ぇ奴………」
「人間ってのは所詮我欲や欲動ありきの生き物なんだよ。そうやって進化してきたんだから、どうやったって否定しようがない。だからそこを理解し制御して、それでもと自分が寄って立つ考えに邁進するのが正しい在り方だ。目を背けたり、詭弁を弄して誤魔化すからおかしなことになる」
その人間の立脚点こそが美学だと彼は語った。
「我欲や欲動、ねぇ………」
「我儘って奴だ。―――美学を語る上で大事なことだぞ?」
「ガキの頃、我儘言うなって育てられたんだけど」
「責任や負担は全部親に丸投げで、ああしたいこうしたいと言うだけやるだけなんだからそりゃぁそうよ。その癖後始末も親に任せっきりだろ?酷い奴になると途中で放り出すし。そういうのは駄々っていうんだよ。みっともねぇったらありゃしねぇ」
「うっ………」
思い当たる節があったか、飛崎の言葉に三上は言葉を詰めた。
「美学はな、そこで発生する責任も負担も後始末も、全部ひっくるめて自分で背負って振れずに通すから美学足り得るんだ。それを見失っちゃぁ、ガキの駄々と変わんねぇのさ」
だから感情を制御したいなら美学を持て、と彼は締めくくった。
「話がそれたな。んで?その古歌が何だよ」
「いや、先生に前に言われたんだよ。だけど、今の今まで忘れてて」
「悪い奴」
「いやだってほら、最近は殴れるようにはなったし………」
言い訳がましく目を逸らす三上に、飛崎はポツリと呟いた。
「―――自覚はしてねぇ、か」
「え?」
「いんや、気付いてないならいいさ。それよりほら、そろそろ昼休みも終わるんだから追い込むぞ。このサイン・コサイン・タンジェントとか言う暗号を平文に直してくれ」
「三角関数はエニグマじゃねーよ?」
この時にもっと深く聞いておけばと、後々三上は酷く後悔することになる。
●
夕刻、横浜市内のある邸宅に灰村高虎はいた。
武家屋敷のような日本家屋で、庭の手入れも専属の庭師を入れてしっかりしているらしく、きっとそれに精通する人間からすれば侘び寂びを感じるであろう。だが、そうした修飾に無頓着な灰村からしてみれば『金の掛かる趣味だな』としか思えなかった。
「伊藤組に続いて広辻会が壊滅したってのは良くないな」
「やっぱ親父さんもそう見るか?」
「ああ、所詮、ウチもはみ出しモンの寄り合い所帯なのは変わらん。外に敵があるから纏まっちゃぁいたが、それが居なくば、次はテメェの足場って寸法よ」
その庭を臨む一室で、灰村は和装の老人と差し向かいで話していた。
今年で75を迎える中背の男性だが、背筋は伸びているし、喋りもしっかりしている。その佇まいや眼光は老いて尚鋭く、気の弱い人間ならば目も合わせることすら難しい程の威圧感があった。
名を、安曇利重と言う。今や統境圏の裏社会を支配する安曇会の会長であった。
灰村との付き合いはそろそろ十年になろうとしている。教練校を卒業後、三年の徴兵を終えた灰村がフラフラと歓楽街を流しの用心棒をしていた頃に出会った。一時は組にも誘われはしたが、組織に飼われるのにうんざりしていた灰村はそれを拒否。だが、その独立心を気に入ったのか安曇は灰村を年の離れた友人として扱うようになった。
以来、こうしてちょくちょく茶飲みがてら呼ばれたり会いに行ったりする関係性だ。灰村の人脈の広さは、これに起因している。
「暫くは残党を始末するなり吸収するなりで忙しいから大丈夫だろうが、それが終わったら内部抗争だろうな」
「広辻会との全面戦争よりかはマシにはなったが………」
「伊藤と広辻の人員食って膨れ上がってるんだ。規模は多少縮小しても余り変わらん。それに、情けないことだがウチも跡目で揉めている」
「誰が考えたかしらねぇが、今までの三竦みってのは理に適ってたんだなぁ………」
「―――そうだな」
「そういや、安曇会は最古参だったか。ひょっとして、知っているのか、親父さん」
「まぁ、な」
安曇はそこで一旦言葉を切って、僅かに瞑目するとこう切り出した。
「ワシももう長くはない。倅や若頭には伝えてあるが、お前にも教えておくか」
「おいおい、縁起でもねぇこと言うなよ」
まぁ聞けよ、と彼は前置いて。
「いいか?今、政府に関わっていて西泉の名前を持っているヤツには気をつけろ」
「西泉?参院議員の西泉義一か?」
「それを含めて、西泉の名がついている公僕だ」
「何だよ、まるで一族丸ごと………おい、そういうことか?」
「一時期を境に、その名を持つ優秀なヤツが増えた。結婚して名字が変わっている奴もいるが、旧姓を探ると西泉に行き着く。西泉議員はその最初の男だな。もう、何十年も前の話になる。まだワシが親父から組を継いだばかりの頃、あのガキは接触してきた」
当時、『消却事変』黎明期を抜け出て、混乱期と称される慌ただしくも活気に溢れた時代だ。安曇会はまだ安曇組と名乗っていて、表向きは小さな自警団だった。無論、それだけで荒れた社会を生きていけるはずもなく、当然後ろ暗いこともした。
しかし治安維持を考えると概ね社会貢献寄りの行動指針を採っていて、それが一人の―――当時は小学生だった少年の目に止まった。
彼は唐突に組事務所に現れ、『裏社会を纏めるために、天下三分の計をしてみませんか?』と話を持ちかけた。
当然、安曇は当時からして組長であり、護衛の類は普段から付いている。その目を掻い潜って自分と二人っきりになることがまず異常であるし、出た言葉も異常と言えた。
まず頭に過ったのは早期覚醒者。幼くして異能に目覚めた適合者ならば、異能を用いて護衛を掻い潜って自分の前に現れたのは納得できる。だが、治安維持に関して出てきた天下三分の計―――その概略を聞いて眉をひそめた。およそ小学生が考えつく内容でないし、何かしら少年を操っている存在がいる―――と、当時の安曇は考えた。
話を飲んだのは、その黒幕を探るためだった。殊更命を大事にしているわけではないが、自分の死の影響は部下達の生活にも波及する。組織の長である以上、軽々には死ねないのだ。だというのに、この不可解な少年に懐まで入り込まれている。安曇とて荒事を生業とする以上、それなりに戦えはするが適合者ではないのだ。少年が暗殺を試みようと動けば、容易く完遂されるだろう。
だが、結果から言って黒幕など居なかった。いや、あの少年―――西泉義一こそが黒幕であったのだ。
以後、安曇は西泉と利用し利用される間柄で付かず離れずに接してきた。時に抗争相手を指示され、時に利益のために食う組織を選定し弱体化を指示する。そうして、まるで蠱毒のように密度を増して3つの勢力が出来上がった。
「結果、裏社会は一種の安定期に入って今に至るんだ」
全ては、あの少年が描いた絵図の通りになった。
ある時ふと自らの道程を振り返った時に、安曇は戦慄したと言う。
「仮に関わることがあっても、深入りはするなよ。アイツ等からは死臭がする」
「分かったよ」
「それから、ウチに何かあったら頼んだぞ。若衆には、コレをお前に預けると言ってある」
そう言って彼が懐から取り出したのは、一枚の封書。表面には達筆で遺言状と書かれていた。
「おいおい、俺は組員でも何でも無いんだぞ」
「分かってるさ。ただ、このままタダで終わらねぇ気がするんだよ。どうにも、嫌な予感がする」
そしてこの予感は、紛うこと無く的中することになる。
●
同じ頃、メティオンとブライアンは顔を突き合わせていた。
「ガリウスからの連絡は?」
「仕込みは終えたそうです。―――しかし面倒な相手ですね、アレ」
「否定はせんが、アレで腕は良い。対電脳界に限って言えば上から数えた方が早いぐらいだし、正義感や倫理観から解き放たれている分汚れ仕事に躊躇いがない」
「薬物中毒者みたいな言動しているんですけどね………」
「あれは擬態だ。奇抜な言動で相手を揺さぶるのが奴の他人との距離の図り方だからな。性質的には全く逆で理性的だが、手段のために目的を選ばない快楽型破滅主義者だ」
それでも有用だから使うがね、とメティオンは苦笑して一息つく。
「さて。これで全ての準備は整ったな。後はタイミングだが………」
「先程、無貌からメッセージが届きました。どうやら、中間考査の後で打ち上げをするそうで」
「全く、学生というのは気楽で良いものだ………。では、シュガールを除いた全戦力を姫の確保に。今回は私も出よう」
「よろしいので?」
「人手不足は否めないし、重要な局面だ。直接指揮を取る。君には現場を頼むよ」
「了解です。翠の巫女は………シュガール大司教一人で十分でしょうね」
「アレで『歩く天災』だ。ただの学生相手ならしくじりようもないよ」
こうして、統境圏全土を巻き込む悪意が遂に動き出した。
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