忘れえぬ人

勇魚

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 町のはずれ、海の側の閑散とした地に、一軒の宿屋があった。

 梅雨の中頃ということもあり、急激に雨に降られた日は、空き部屋が一つ二つあるかどうかといった状況になる日が幾つかあった。

 かといって、そこが格段と快適だとか、そういう訳ではない。寧ろ宿屋自体かなりの年数が経過しており、彼方此方で家なりがする程であった。

 それでも客足が途絶えることはない。

 宿を訪れる客は皆、宿の主人と客人同士とで、酒を盛ることと、そこから見える海の景色を楽しみにやって来ていた。

 春は寒空の下で夜桜を囲み、夏は風鈴の音を聴き怪談話を交え、秋は主人の女房がつくった団子を食らい、冬は火鉢に小さくなって暖まる。これが常連客の知る楽しみ方。

 毎日の仕事内容にさして変化は無いが、客人が運んでくる新しいを、主人も女房の辰枝も、待ち遠しく、満足した様子で過ごしていた。

 そんな宿屋にまた、新しいが。


「お帰んなさい!何名だい?」

「二人で頼む。急ですまないが、今晩泊まれる宿を探していてね。同室で構わない、空いている部屋はないか?」

「丁度二人部屋が空いているよ。運が良かったね阿仁あにさん、最後の一部屋だ。姉さんも急に降られるもんだから、大変だっただろう」

 雨のと共に運んで来たのは、身なりの良い男と、これまた身なりの良い女だった。

 男は髪を七三に流しており、銀フレームの眼鏡の奥からは、頭の切れそうな瞳を覗かせている。宿まで女に傘をさしていたのだろう、右肩がしっぽり濡れてしまっていた。

 女は艶のある髪を折り目正しく纏め、長い睫毛に隠れた伏し目がちの瞳からは、育ちの良さが伺えた。

「まぁ!お二人共すっかり濡れてしまって。外も暗くて大変だったでしょう、ゆっくりしておいき」

 辰枝は厨房からひょっこり顔を出し、奥に消えていったかと思えば、下ろしたてのタオルを二つ抱えてパタパタと戻って来た。

 二人は品の良い振る舞いと、纏った服装のわりに顔は幼く、二十歳そこそこに見える。また、服装もこれまで訪ねて来た客人と異なり、背広をこれでもかと言うほど小意気に着こなしていた。

「さァ上がんな。いくら六月とはいえ、そんなに濡れたんじゃ身体も冷えるたろう。すぐにでも湯に浸かるといい」

「あぁ、是非そうさせていただくよ」

「そういや、阿仁さんも姉さんもこの辺じゃ見ない顔をしているが、いったいどこから来たんだィ」

「どこから、と訊かれたらどこてもない、と答えよう。旅をして一年になるんだ」

「ッはは、これまた面白い縁を運んで来たもんだ。気に入ったよ阿仁さん、名は?」

「こちらが井口で、わたくしは上間という物で」

「姉さんが井口で、阿仁さんが上間ってんだね。覚えておくさ。

 阿仁さん方、旅してここに着いたんなら、この宿は今まで邪魔してきた場所とだいぶ造りが違って驚いただろう。今やこんなとこ、物好きしか来ない場所になっちまったよ。

 でもな、ここはただのぼろ家って訳でもねェんだ。

 どこぞの物好き達が、いろんな土産話を持ってくんだよ。そりゃ腹抱えて涙浮かべる話から、よく生きて帰って来れたもんだと思う話まで。

 おれはそいつらが持ってくる話を聞くのが楽しくて仕方ないんだよ。時たま酒を交わしたりしてね。

 まぁ気が向いたら待合室に顔を出してみるといい。阿仁さん方の話を聞きたい奴もいるだろうよ」

「あんた!こんな色男になんて野暮な口の聞き方してんだィ。悪かったねうちの主人が。

 そういやあんた達、うちの湯の効能は見てきたかい?疲労回復に血行促進、おまけに肌がこれまでにないくらい潤うのさ!

 今のあんた達にぴったりの湯だよ。さぁ行った行った、絶世の美男美女になっておいで!」

 勢いに押され温泉の入り口で背中を叩かれた二人は、一瞬何が起こったか分からない、というような表情を見せた。

 そして、やがて二人で顔を見合わせ、ふ、と笑い振り返り、頭を下げてからそれぞれの湯に消えていった。
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