魔法の唾

赤とんぼ

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魔法の唾

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 この世の中には、数多くの「迷信」が存在する。例えば、「蛇の皮を財布に入れるとお金が貯まる」、「誰かが噂をすると噂された人はくしゃみが出る」、「しゃっくりが100回出ると死ぬ」などのように、合理的、科学的根拠の薄い言い伝えや信仰のことだ。
 「怪我をした時に唾をつける」というのもある。これについては医学的に正しいと言われていたり、唾液には雑菌が含まれているから良くないなど様々なことが言われているが、僕にとっては迷信ではない。本当に唾をつければ傷がえるのだ。この能力には、僕が小学生の頃からなんとなく気づいていた。
 傷の程度にもよるが、こけてできたり傷なら5秒、1mmほどの切り傷なら10秒、骨折なら40秒あれば治癒ちゆする。この前は、通り魔が通行人を包丁で刺している現場を目撃したのだが、私が怪我をした人に駆け寄って傷口に唾をかけると、1分ほどで傷口がふさがり、痛がっていた本人もポカンとした表情を浮かべていた。
 僕の唾は、怪我人が死んでいなければ、基本的にどんな怪我でも治すことができる。こんな能力をもった僕だから、自分自身が怪我で苦しんだこともないし、口内炎だってたとえできてもひと舐めすればすぐに治る。
 しかし、こんな能力をもった僕でも、高校時代、大切な友人が負った傷を治すことができずにその友人を死なせてしまったことがある。
 その友人は、自殺したのだ。
 どんな傷でも治せるこの僕でも、ただ一つ、治せない傷があることをその時知った。
 それは、物理的な衝撃によってできるとは限らない傷。
 それは、言葉や文字によって簡単にできてしまう、目で見ることができない傷。
 それは、言葉だけでなく、陰で何かを言われているような、そういう「雰囲気」によっても生まれる傷。
 それは、誰もが負い、誰もが負わせてしまう恐れのある傷。
 それは、心の傷。
 人の心は、思った以上に壊れやすい、ガラスのようなものだ。見た目がどんなに強そうでも、普段どんなに明るく振る舞っていても、硬質ガラスのような心を持った人は滅多にいない。
 僕の大切な友人もそうだった。
 高校2年生の時、クラスは違ったが、彼がいじめられていて「目に見えない傷」を負っていることは知っていた。知っていたのに、僕はどうすることもできなかった。僕に会う度にいつも笑顔で話してくれる彼を見ると、どうしたらいいのかわからなかった。僕の唾は、彼が負った「傷」をいやすことはできないのだから。
 そして、いじめが3ヶ月ほど続いたある日、彼は自宅の部屋で首を吊って自殺した。何もできなかった自分に腹が立った。
 しかし、僕は気づいた。心の傷を癒すのに、特別な能力なんていらない。ただ話を聞いてくれて、共感してくれる人がいるだけで不思議と心が軽くなる。そもそも、相手を思いやるだけで心の傷自体 は生まれないのかもしれない。言葉は、使い方次第で相手を傷つける凶器にも、相手を喜ばせる魔法の薬にもなり得る。
 家族からは、将来医者になることを勧められたが、僕は、友人の自殺をきっかけに、今は心理カウンセラーとして地元の中学校で勤務している。僕は魔法の唾ではなく、この魔法の薬で多くの人を救う決意をした。

 コンコン、と相談室の扉がノックされた。きっと悩み相談の約束をしていた女の子だろう。
「はーい、どうぞー」
 ガチャと扉が開いた。うつむく女の子に、僕はそっと微笑んだ。
 窓から入る柔らかな春の風と日差しが、僕の背中をそっとでた。
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