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第五章 幻惑の魔女
第1話 謀略の都へ
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月が赤い。
赤黒い闇が、夜の底を舐めるように這う。
それは夜空と地平の境界を、曖昧なものへと塗りかえる。
薄闇の中、カラカラと乾いた音が響いた。
教皇聖座、清浄の地、静謐の都……その街の呼び名は、数多い。
神に最も近い街の一角で、豪奢な馬車が横転していた。
扉には、盾の中に緋色の帽子とタッセルを描いた紋章がある。
信じがたい力が作用した結果だろう、客車は真っ二つに分断されている。
足を引きずりながら這い出してきたのは、年端もいかない少年だ。
本来彼を守るべき護衛の姿は、どこにもない。
圧倒的な力を目の当たりにして、忠誠心は吹き飛んでしまったのだろう。
ひとり取り残された少年は、憎々しげに目を血走らせた。
「魔女めっ!」
視線の先には、女が立つ。
負傷した少年に手を貸すこともせず、ただ冷ややかに見下ろしていた。
「あなたに訊きたいことは、ひとつよ」
鈴を鳴らしたような、玲瓏とした声。
ダークブロンドの髪が風に揺れ、女は紅唇を動かした。
「──禁書庫の鍵は、どこにあるのかしら?」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
……思えば彼女は、唯一の仲間だった。
もちろん力を貸してくれる者なら他にもいた。
だが、秘密と目的を共有したという点においては、やはり彼女以外、仲間と呼べるものはいなかっただろう。
出会いは敵として、次に相反する目的を持った取引相手として、最後に仲間となった。
鐘塔の崩壊に巻き込まれ、彼女が死んでから三年が経つ。
だが、遺体は見つかっていない。
必ず生きていると、彼は確信していた。
だとすれば……なぜ、連絡の一つもよこさないのか。
その真意は分からない。
答えはこの街にある、彼はそう思う。
ベラナ最期の言葉。それを求める過程のどこかに、彼女は必ずいるはずだ。
「──なぜ入れないのですかっ!?」
棘のある声が響いて、アルヴィンは思索を中断した。
ちょうど彼の教え子が──といっても、三歳しか違わないのだが──衛士に、食って掛かるところだった。
彼らがいるのは、黄金の門と呼ばれる、聖都の正門だ。
もちろん黄金で造られているわけではないが……白大理石が並べられた、壮麗な門である。
だが今は、昼間だというのに衛士らによって固く閉ざされていた。
聖都へ転任する旅路、その最後の最後で足止めを食らっていたのだ。
それはアルヴィンたちだけではない。
周囲には百人近い人々が所在なげに佇んでいた。その多くは、聖都への巡礼者だろう。
「失礼、何があったのですか?」
アルヴィンは、努めて礼儀正しく問いかけた。
だが隆々たる体格をした衛士は、黒い祭服を着た二人組を胡散臭げに見下ろしただけだ。
目の前に立つのは、黒髪の青年と金髪の少年だ。
目鼻立ちがはっきりとした、秀麗と言ってもよい顔立ちをしている。
ただし衛士からすれば、軟弱な優男としか見えない。
その気になれば片腕で二人をつまみだすことなど造作もないだろう。
……もちろんそれは、大きな勘違いなのだが。
門は通さないし、説明もしない。
頑なな態度の衛士に、アルヴィンは嘆息した。
黒を基調とした祭服の中から、青銅の蛇が巻き付いた銀の十字架を取り出す。
身分をひけらかすような真似は不本意だが……やむを得ない。
聖都を目前にして、すごすごと引き返すなど、できるはずがないのだ。
「僕は審問官アルヴィンです。それでも通せない、と?」
衛士の眼光は、かえって険しさを増した。
目の前の自称審問官一行に、不信感を抱いたのかもしれない。
それは……無理からぬことではある。
アルヴィンは十九歳、ベネットは十六歳に過ぎない。
審問官を名乗るには、若すぎるのだ。
「例え上級審問官であろうと、入市させるなという厳命だ!」
衛士の態度はそっけなく、とりつく島もない。
説明を尽くしたところで、快く中に入れてもらえそうにない。
アルヴィンが考えあぐねたとき──変化は、衛士の背後から訪れた。
閉ざされた門が僅かに開き、二人組が出てきたのだ。
その姿に、衛士が息を呑む。
彼らは白い祭服に、顔の上半分を覆い隠す白い仮面をつけている。
──処刑人、だ。
三年前、アルビオで死闘を繰り広げた相手である。
アルヴィンは全身を緊張させた。
かっきり三メートル離れた位置で、仮面の男らは立ち止まった。
得体の知れない不気味さを前にして、衛士は顔を引きつらせながら後ずさる。
「審問官アルヴィン殿とお見受けするが」
「そうですが。……あなたがたは?」
アルヴィンは、状況が呑み込めていないベネットを背中に庇った。
今この瞬間、命のやり取りが行われたとしても何ら不思議はない。
問い返した刹那、処刑人が動いた。
白刃が閃き、地面に赤い花が咲く。
いや、違う。
繰り出されたのは剣光でも銃声でもなく……恭しいばかりの一礼だ。
「丁重にお出迎えするよう、申しつかっております。我々にご同行していただきたく」
「……同行?」
アルヴィンは警戒を解かない。
口の端を歪め、処刑人は笑ったような顔を作った。
「枢機卿エウラリオが、あなた様をお待ちです」
赤黒い闇が、夜の底を舐めるように這う。
それは夜空と地平の境界を、曖昧なものへと塗りかえる。
薄闇の中、カラカラと乾いた音が響いた。
教皇聖座、清浄の地、静謐の都……その街の呼び名は、数多い。
神に最も近い街の一角で、豪奢な馬車が横転していた。
扉には、盾の中に緋色の帽子とタッセルを描いた紋章がある。
信じがたい力が作用した結果だろう、客車は真っ二つに分断されている。
足を引きずりながら這い出してきたのは、年端もいかない少年だ。
本来彼を守るべき護衛の姿は、どこにもない。
圧倒的な力を目の当たりにして、忠誠心は吹き飛んでしまったのだろう。
ひとり取り残された少年は、憎々しげに目を血走らせた。
「魔女めっ!」
視線の先には、女が立つ。
負傷した少年に手を貸すこともせず、ただ冷ややかに見下ろしていた。
「あなたに訊きたいことは、ひとつよ」
鈴を鳴らしたような、玲瓏とした声。
ダークブロンドの髪が風に揺れ、女は紅唇を動かした。
「──禁書庫の鍵は、どこにあるのかしら?」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
……思えば彼女は、唯一の仲間だった。
もちろん力を貸してくれる者なら他にもいた。
だが、秘密と目的を共有したという点においては、やはり彼女以外、仲間と呼べるものはいなかっただろう。
出会いは敵として、次に相反する目的を持った取引相手として、最後に仲間となった。
鐘塔の崩壊に巻き込まれ、彼女が死んでから三年が経つ。
だが、遺体は見つかっていない。
必ず生きていると、彼は確信していた。
だとすれば……なぜ、連絡の一つもよこさないのか。
その真意は分からない。
答えはこの街にある、彼はそう思う。
ベラナ最期の言葉。それを求める過程のどこかに、彼女は必ずいるはずだ。
「──なぜ入れないのですかっ!?」
棘のある声が響いて、アルヴィンは思索を中断した。
ちょうど彼の教え子が──といっても、三歳しか違わないのだが──衛士に、食って掛かるところだった。
彼らがいるのは、黄金の門と呼ばれる、聖都の正門だ。
もちろん黄金で造られているわけではないが……白大理石が並べられた、壮麗な門である。
だが今は、昼間だというのに衛士らによって固く閉ざされていた。
聖都へ転任する旅路、その最後の最後で足止めを食らっていたのだ。
それはアルヴィンたちだけではない。
周囲には百人近い人々が所在なげに佇んでいた。その多くは、聖都への巡礼者だろう。
「失礼、何があったのですか?」
アルヴィンは、努めて礼儀正しく問いかけた。
だが隆々たる体格をした衛士は、黒い祭服を着た二人組を胡散臭げに見下ろしただけだ。
目の前に立つのは、黒髪の青年と金髪の少年だ。
目鼻立ちがはっきりとした、秀麗と言ってもよい顔立ちをしている。
ただし衛士からすれば、軟弱な優男としか見えない。
その気になれば片腕で二人をつまみだすことなど造作もないだろう。
……もちろんそれは、大きな勘違いなのだが。
門は通さないし、説明もしない。
頑なな態度の衛士に、アルヴィンは嘆息した。
黒を基調とした祭服の中から、青銅の蛇が巻き付いた銀の十字架を取り出す。
身分をひけらかすような真似は不本意だが……やむを得ない。
聖都を目前にして、すごすごと引き返すなど、できるはずがないのだ。
「僕は審問官アルヴィンです。それでも通せない、と?」
衛士の眼光は、かえって険しさを増した。
目の前の自称審問官一行に、不信感を抱いたのかもしれない。
それは……無理からぬことではある。
アルヴィンは十九歳、ベネットは十六歳に過ぎない。
審問官を名乗るには、若すぎるのだ。
「例え上級審問官であろうと、入市させるなという厳命だ!」
衛士の態度はそっけなく、とりつく島もない。
説明を尽くしたところで、快く中に入れてもらえそうにない。
アルヴィンが考えあぐねたとき──変化は、衛士の背後から訪れた。
閉ざされた門が僅かに開き、二人組が出てきたのだ。
その姿に、衛士が息を呑む。
彼らは白い祭服に、顔の上半分を覆い隠す白い仮面をつけている。
──処刑人、だ。
三年前、アルビオで死闘を繰り広げた相手である。
アルヴィンは全身を緊張させた。
かっきり三メートル離れた位置で、仮面の男らは立ち止まった。
得体の知れない不気味さを前にして、衛士は顔を引きつらせながら後ずさる。
「審問官アルヴィン殿とお見受けするが」
「そうですが。……あなたがたは?」
アルヴィンは、状況が呑み込めていないベネットを背中に庇った。
今この瞬間、命のやり取りが行われたとしても何ら不思議はない。
問い返した刹那、処刑人が動いた。
白刃が閃き、地面に赤い花が咲く。
いや、違う。
繰り出されたのは剣光でも銃声でもなく……恭しいばかりの一礼だ。
「丁重にお出迎えするよう、申しつかっております。我々にご同行していただきたく」
「……同行?」
アルヴィンは警戒を解かない。
口の端を歪め、処刑人は笑ったような顔を作った。
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