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しおりを挟むリュディアは半分泣きそうになっていた。コルセットが、きつい。
つまりはこういう話である。母はリュディアに夜会で踊るにふさわしいドレスを買わなかった。父はいきなり舞踏会の話を持ち出し、出発までの時間はドレスを仕立てるには短すぎる一週間だけだった。結果としてリュディアは手持ちのドレスだけを持ってカヴリラを出発し、母は都のお店で新しいドレスを買ってあげると約束した。
しかしながらそれこそ田舎者の浅慮というものだった。都のお店は新年祭りよりも混んでいた。リュディアと同じような事情だったり、どうせ仕立てるなら都の流行を知るお針子の手が入った方がいいわと考えた貴婦人たちが詰めかけたのだ。大変頑張りまして納期を早めましても出来上がりは三か月後です、と店主は慇懃無礼に言った。
母は怒り狂い、その様子を店主からバカにした目で見られていることに気づいてさらに怒り狂い、リュディアとマジョリーナを荷物のように両脇に引っ立てて店を飛び出した。
宿に帰り、持ってきた荷物をぶちまけ、マジョリーナのドレスの内一着をリュディアに渡した。
「仕方ないからこれをリュディアにおあげ、ジョリーや」
「ええーっ」
「ワガママ言わないの。お母様が今度もっといいのを買ってあげますからね。あーあ、リュディアにジョリーのためのドレスをやるのはあたくしだっていやなのよ」
「……すみません、お母様。ありがとう、マジョリーナ」
ということで問題は解決された、ように見えた。
困ったことにマジョリーナはリュディアよりだいぶ小柄な妹だった。母の侍女ローズが一生懸命ウエストに継ぎ布を当ててくれたけれども、リュディアは父に似て女にしては背が高い。内臓が飛び出るギリギリまでコルセットを締めに締めてようやく、マジョリーナのドレスにリュディアは身体を押し込めた。
「おあ……」
リュディアは浮かんできた涙をぬぐう。口から出るのはもはや喘鳴である。ど、どこか。空いている部屋。リュディアは不慣れな宮殿の広い廊下を血眼で探す。
コルセットを一度緩めたら、もうドレスは入らないかもしれない……それでも、緩めないとたぶん、失神する。大広間には上から下まで貴族たちが詰めかけていた。新大公に恭順を、見せかけだけかもしれないが示そうとして。そんなところで気を失ったらあとあとまで語り継がれる大失態である。それだけはできない。
いくつかの扉から使用人が出てきては走り去っていく。宮殿を訪れる貴族たちがそれぞれ威信をかけて連れてきた優秀な使用人だが、当然、主家の一員でもなければ主の友人でもないリュディアには目もくれない。
彼女はひいひい言いながら人目につかないところを探し、探した。青白い肌はますます青ざめ、ほとんど白くなる。
広大な廊下はいつまでも続くように思われ、ずらりと並ぶあらゆる扉が外に続いているように見えた。
(帰りたい、カヴリラに)
ぐずぐず鼻をすすりながらリュディアは試しにひとつの扉に手をかけ――とんとん、と肩を叩かれたのはそのときである。彼女は生気のない顔で振り返った。
「気分が悪いんですか、レディ?」
堂々とした軍服姿の、だがどこか卑屈な印象を与える男が佇んでいた。リュディアは反射的に彼の身分を示すもの、たとえば胸の勲章だとか襟の家紋のついたピンだとかを探したが、それはどこにもない。つまり彼は平民で、さほどの手柄を立てたわけでもない仕官だということだ。
(ええと、たとえ平民でも……大公様のお身内ということだってありえるわ)
新大公アレクシオンがどこの国にも属さない流れの傭兵団をそのカリスマ性で屈服させ、尖兵としたのは有名な話である。リュディアは回らない頭でそう考え、儀礼的な笑みを浮かべた。
「え、ええ。少し」
「それは大変だ! 俺が安全に休めるところに案内してあげましょう。さあ」
「いいえ騎士様。それには及びませ……ん、」
中身出そう。大広間に入ってすぐに配られたシャンパン。宿でちょっとだけ摘まんだクラッカー。どっちも出そう。
横を向いて涙ぐむリュディアに何をどう思ったのか、男は喜色を顔に浮かべて彼女の手をとろうとする。父親のいない場所で貴婦人が男に手を握らせたとなれば大問題である。リュディアは必死に身を捩ってその手を避ける。
男はよく見れば見た目よりも年を取っており、香水の香りの向こうに饐えた体臭がした。
「結構です、結構ですわ、騎士様。ご心配をおかけして申し訳ありません。私は大丈夫ですから……」
「ほうほう、そんな慎み深いところもおかわいらしい」
男は一層にやにやした。だめだ、話が通じない。リュディアは迷った。
――魔法を使うべきか?
使えば、男を意のままにできる。彼女の魔法はそういう用途の魔法だった。
貴族は皆、魔力を持っている。魔力は血統によって子に受け継がれる血統魔法と、自然界に存在する火、水、風、地、風の五大要素を利用する一般魔法がある。通常、戦争に行かない女は一般魔法を学ばない。
リュディアの数少ない長所の一つに、カヴリラの血統魔法を生まれながらに使えることがあった。この一点に関しては父も、母すら手放しに長女を褒めた。
けれど貴族の女性は魔法を使わない、とされている。それどころか、生産的な仕事には一切関わらないことが名誉だった。貴婦人が己の手を動かさずに生きていけることが一族の誇りであり、本来であればリュディアのように人々に入り交じって働くなど許されないはずだった。カヴリラが辺境の土地で、貴族の噂にならないから目こぼしされていただけだ。
そろり、男の手が動いてウエストを掴もうとした。リュディアは覚悟を決めた。
(魔法を放って、放って、こいつを大人しくさせる――そのあとのことはあとに決めるわ!)
「ときに、あなたは処女ですかな?」
「は?」
あまりに思いがけない、あまりに無礼な言葉に彼女は絶句する。男は舌なめずりをせんばかりに彼女を曲がり角に追いやり、詰め寄った。傍らには壺が乗った小さな円卓。もう一方には壁。
しまった、逃げ場がない。リュディアは内心自分を思い切り罵倒したけれども、もうどうにもならない。
「処女でないならそれでもよろしい。しかし処女でしたら、どうかな、あなたは当世風に、結婚前に少しばかり経験を積んでみたいと思っていませんか?」
どうにもならない? いいえ。
リュディアには怖いものがたくさんある。母の激怒、父のため息、妹の自覚していない嘲り。とはいえ、こんなどこの馬の骨とも知れない男に見くびられるほどではないつもりだった。
――目の前がくらくらする。全部、そのせいにしようと思った。
リュディアは思いっきり円卓の足を蹴った。自分の足の甲が砕けたかと思うほど痛かったが、倒れた壺が男にぐわんと当たって、それ以上に痛そうな音を立てた。
身を低くして男の腕の範囲から走り出す。背中に怒号が飛んだ。
「このアマ、下手に出りゃ付け上がりやがって!」
リュディアはくるりと振り向いた。口の中で魔法が弾けた。ぱっと両手を挙げて男の心を魔力で探る、どこにある? 捕まえた。やっぱり貴族ではない。彼の心には魔力で張られた防壁が存在しない。
自分に触れる魔力の存在に男は気づいたのだろう、ぷっと唾を吐き出したあと、怒りのあまり歯を剝き出した。
「いいのか、魔法を使ってよ? え? やってみろよ。どうせお前みたいな小娘の魔法なんてせいぜい幻覚魔法くらいだろう。俺は目をつぶっていてもお前がどこにいるかわかるぞ」
確かに鍛えた武人相手では魔法の出来ることはたかが知れている。エルフが生きていた時代とはもう違うのだから。
でもリュディアは、舐められっぱなしのまま終わるつもりはなかった。家族に対しては遠慮がちな彼女だが、内心は父の気性を受け継いで苛烈な心を持っている。
あんなに通っていた使用人たちはいなくなっていた、違う、何か面倒ごとが起きているのを察知して、ここに寄りつかないことにしたのだ。宮殿に無数の抜け道や大公さえ知らない小道があるというのは本当らしい。つまり誰もリュディアを助けようとは思わなかったのだ。
ならば彼女は、自分で自分を助けるしかない。
「近寄ったら殺す。私の魔法がなんなのかもわからないんでしょ? 近づかないのが身のためよ」
ハッタリだった。だが男は明らかに動きを止めた。緩慢に足の左右を入れ替えながら、リュディアと男は膠着状態になる。
(このまま立ち去ってくれないかしら)
と思った、のはリュディアの甘さだった。
そう、リュディアはいつも、甘い。最後の最後で、抜けている。
男の姿が消えた、と思ったのはスカートがふわりと浮き上がったことで違うとわかった。彼は身をかがめて一気に距離を詰めてきた。速い。
「あ……っ」
魔力を練る暇も、魔法を解き放つ暇もなかった。
「お、」
男は大きな手でリュディアの細腕を掴み上げ、彼女を宙吊りにした。爪先が絨毯を蹴った。
一瞬あとに痛みが爆発した。
「ぎゃああ……」
リュディアはか細い悲鳴を上げた。肺も一緒に上に引っ張られて、叫ぶのに十分な空気がなかった。
「最初から大人しくしときゃよかったものを……」
男はぶつぶつ言いながら、彼女を小脇に抱えた。リュディアは一瞬、頭の中が真っ白になった。
母の殴打はしょせん、女の力だった。父はぶって言うことを聞かせようとするほどリュディアに興味がなかった。ばあやは当然、手なんか上げたことはない。
リュディアはこれまで本物の暴力に触れたことがなかった。抵抗の方法も、わからない。身体が弛緩してしまう。男は嬉しそうに笑った。
(こんなのに殺されるの?)
いやだ。
「離せ……くず」
男の脇腹を掻き毟り、身をよじりながらそれだけ言った。男が不愉快そうに顔をくしゃくしゃにして、強引に彼女の身体を揺さぶった。ガクガク首が揺れ思考が散乱する。
悔しい。
女の身体とは、力の差とは、これほどのものなのか。
嫌悪感と無力感にみぞおちが震えた、瞬間、
「離せと言われているのが聞こえなかったのか?」
男が消えた。と思った。
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