虐げられ魅了乙女は孤独な大公と恋をする

重田いの

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 リュディアは走った。後ろから彼の足音と声が追いかけてきた。

「リュディア――リュディア! 話を聞いてくれ」

 静かな、落ち着いた、低すぎない、よく通る声。支配者に向いた声だ。
 どうして気づかなかったんだろう。アレクという名前はよくあるから? 大公の目は血のような赤、お前の髪の毛にそっくりだと言われたことがあって……知っていたはずなのに。黒髪と赤い目の男は大公だと、聞いていたはずなのに。
 わからなかった。知らなかった。だってアレクは最初からとても優しかった。ニコラと一緒に助けてくれた人だ。けれど彼女はニコラではなくアレクを好きになった。そうなった理由があまりに惨めだったから、知らないふりをしていた。

 アレクは最初にリュディアとあの男の間に割って入った人だった。これまで助けてもらえたことは一度もなかったので、最初にそうしてくれたアレクの方を好きになったのだ。
 彼はせいぜい早歩き程度なのに、走るリュディアに早々に追いついた。

「何もしないから、止まってくれ。頼む。森の奥に入り込むのはまずい。熊がいる」
「離してください……」

 はあはあ、肩で息をするこちらと前髪が少し乱れただけの彼。違いは明白だった。どうして人のいる方ではなく森に入ってしまったんだろう?
 もし彼がほんの少し気を変えれば、リュディアのことをどうとでもできる。
 じわじわ涙が目に浮かんできた。アレクは――大公は傷ついた顔をして彼女の手首を掴んだ手を解いた。もう逃げ出す気力もないことを見透かされたのだった。
 リュディアはそのまま木の幹に背中を預ける。すぐ目の前に彼がいる。息遣いを感じる。
 アレクは手を伸ばしてリュディアの頬に触れた。たくさんのタコがついたゴツゴツした手が、ごく繊細に耳の近くを撫でる。

 あ。
(彼は私を傷つけない)

 そうだ。たとえ何があろうとも。アレクはリュディアの嫌がることをしないだろう。今だけの特別扱い? 騙されている? 何もわからないけれど……。
(この手は私を殴らない)
 それだけは、わかる。たぶん、本能的なもので。
 リュディアの身体はだから、彼の手にすくまなかった。ビクッと跳ねることもなかった。無骨な手に頬を撫でられるにまかせ、少しだけ首を傾げさえした。彼女本人の意思とは関係なしに。
「傷がついてる。可哀そうに。藪にひっかかれたんだな」

 そういえば低木にぶつかった気がする。リュディアは彼を見上げた。心から心配そうな赤い目と視線がぶつかって、それはまったく怖くなかった。血がついているのは怖いけれど。彼のことをリュディアは恐れていなかった。
 心臓が徐々に静まっていく。息が平常通りに戻る。ざわざわ広がるようだった髪の根本の不快感もなくなり、ようやく、リュディアにもの言う余裕が戻ってきた。

「……私をからかっていたの?」

「違う!」
 彼は勢いよく首を横に振った。
「何もかもが突然で、何も言えなかった。もっと早く告げていればよかった。すまない」

 指は優しく彼女の焦げ茶色の髪を取って、撫でた。
「驚かせるつもりはなかった。怖がらせたくなんてなかった。君は最後列の、俺の痴態が見えないところにいると思い込んでいた。ごめん、リュディア。君に血を見せた」
「痴態ですって?」

 思いがけない単語の方にリュディアは気を取られる。彼は神官の講義を神妙に聞く村の子供のように頷いた。
「俺が人を斬るところを見て、君は恐れただろう? 痴態と呼ばずしてなんと呼ぶ?」

 リュディアはまじまじと彼を見つめてしまった。彼のまっすぐな鼻の先は寒さで赤らんでいて、可愛かった。濃くけぶる睫毛が赤い目に影を落とす。少しこけた頬の線、顎の線の完璧な骨格。彼は若く美しかった。

「あなたに恥ずかしいところなんてないわ」
 リュディアは負けを認めた。

「そして私は、あなたに何をされても怒ることができないと思うわ。今だって――血飛沫が怖かったけれど、あなたは怖くない」
 アレクの顔がぱっと喜びに輝いた。彼の両手は壊れ物を扱う慎重さで彼女の腕に触れた。

「じゃあ……」
「嘘をつくつもりじゃなかったのよね?」
「ああ。誓って」
 ほっとしたようにため息をついて、アレクはおずおずとリュディアの額に額を合わせる。こつん、と軽く響いた骨同士がぶつかる音。間近に見える美貌に、耳元で聞こえる心臓の音は自分のそれか相手のそれか。

「君が好きだ――結婚してほしい」

 リュディアの両手がアレクの背中に回り、ごく自然に距離がゼロになる。彼の腕はぴったりとあつらえたように彼女の身体を包み込んだ。彼がどこも怪我をしていないことが分かって、リュディアは頭の片隅でほっとした。
 それ以外のところは麻痺していた。結婚。結婚……。好き? 誰が誰を?……あなたが私を?
 この美しい男が私と結婚したいと言ったのか?
 私、知らないうちに彼に血統魔法をかけたのかしら? じゃあ反逆罪だ。魔法で心を操るなと法律に記載されている。
 途切れ途切れにリュディアはこう言った、かろうじて、聞き取れる声で。

「いつか家を継ぐために結婚するんだと思っていたの。相手は一番高い支度金をくれる商人の息子だろうと思ってた」
「そんなことにはさせない。たとえ君が俺を受け入れてくれなくても、君が意に染まないことを強制されたら助けにいく」
「何故? どうしてそこまでしてくれるの?」
「わからない、から、おそらく知りたいのだと思う。俺は――」

 アレクは息のかたまりを吐き出す。神々はこの顛末を興味深く見下ろしているのだろうか? 雪が降ってきた。小さな氷の塊も混じっている。大公国の天気は変わりやすい。これまでの晴天は嘘のようになくなり、森の中は急速に暗くなっていく。まるで誰も二人を見つけられないようにしようと誰かが画策したようだ。

「俺は母がどうして物狂いのように男を求めるのかわからなかった。君に出会い、気づくと君のことばかり考えているようになって彼女の気持ちの片鱗が分かった。俺は君と離れることができない。君を永遠に傍においておきたい。それ以外のどんな結末も受け入れられそうにないが」

 ぐっと拳を握り、リュディアは逞しい硬い腕に閉じ込められたように感じた。世界で一番優しく暖かい腕だ。
「もし君が俺を拒むなら、それを尊重したい。君が故郷に帰りたいというなら、決して追わないと約束しよう」

 赤い目が言う。そんなことは認めたくないと。そうならないでくれと希う。
 リュディアは頷いた。唇が痺れたように震え、足ががくがくして立っていられない。彼の胸に縋りつくと寒さが消えていくようで、だが本当は死ぬほど寒いのかもしれない。
 白い軍服の胸元に爪を立てて立ちながら、リュディアは紫色の目でアレクの赤い目を覗き込む。奇妙な震えは収まらない。

「いいわ」
 声もだ。震えている。
「あなたと結婚するわ」

 そうして二人は口づけあい、祝福の雪は吹雪となる。
 森のほとりで捜索隊を組むところだった人々が偉大なる大公とちっぽけな娘を見つけたとき、不思議なことに雪は一時的に晴れ、一条の光が二人を照らしたという。
 まるで最初から決まっていたことのように。
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