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「まあ、どうしましょう!」
と母は叫んだ。宮殿に与えられたカヴリラ伯爵家のための離宮の部屋を一目見て。
そこには母と妹のためのドレスと宝飾品が溢れかえっていた。アレクの――大公アレクシオンの心遣いである。隣室は父のためにあり、同様に男性用のきちんとした服と宝石が揃えてあった。だが本人は一瞥したきり、むっつりと考え込んでいる。
無口なのは父だけではなかった。あんなに溌剌としていた妹もまた、押し黙って貝のように口を閉ざした。リュディアは見たことがない家族の様子に戸惑いながらお茶を淹れようと暖炉に手を伸ばし、
「いけません。それはわたくしどもの仕事でございます」
と侍女にやかんを奪われた。リュディアはため息を押し殺し、背筋を伸ばして頷いた。
「ええ、わかりました」
――大公アレクシオンは舞踏会のため集められた令嬢たちに挨拶することもなく、電撃的に婚約を発表した。相手は、辺境のカヴリラ伯爵家の娘。小貴族だ。貧乏貴族だ。老人しか聞いたことのない名前の。
貴族たちは阿鼻叫喚となった。いったいどこの娘が抜け駆けして大公を誑かしたのかと親たちは怒り狂い、娘たちは嘆き悲しみ、兄や弟たちは大公の部屋に詰めかけ説明を求めた。
だがすべては遅かった。花嫁の父親とその一族に巨万の富と絶大な権力をもたらすはずだった大公は誰とも会わず、式の日取りまで勝手に決めてしまった。それも再来月という性急さだった。誰にも結婚を邪魔させないという強い意志に、彼らは呆れ返った。
リュディアは自分の意思を表明することを控えた。それは徹底的に、決して敵を作らないように。人垣の中、誰かに淫乱女と言われたこともある。売女、恥知らず、思い上がるな、他にもたくさん。
まあ言いたくもなるだろうと思う。リュディアはアレクが大公アレクシオンだとは知らなかったけれど、自分より優れた他の令嬢を出し抜いたことに変わりはない。
居間にあたる部屋は巨大で、カヴリラ家の居間が五つも入りそうだ。離宮じゅうに母のはしゃぐ声、案内役の侍女の冷静な声が響いていている。あまりにも田舎者丸出しで、恥ずかしい。
父がのろのろと退出していった。庭で花でも見る様子だが、おそらく母の声を聞きたくないのだ。いつもなら母と一緒に騒ぐはずの妹も続き、一言も言わずに消えてしまった。リュディアと同じ部屋にいたくないのだった。
狩猟会が終わった次の日、アレクシオンは正式にリュディアを婚約者に内定したことを発表した。大貴族会議は荒れに荒れたらしい。それ以上に宮廷じゅうが混乱していた。
カヴリラ家が泊まる宿屋の主人は迎えに現れた大公直属の騎士団の姿に目を回した。得意げな母を筆頭に、一家はぞろぞろと豪華な馬車に乗り込み、リリン城の中にある離宮へと移されたのだった。
(決して外に出られないようになっている。ほとんど軟禁だわ)
と思うものの、警備兵も監視の目を光らせる侍女もアレクシオンの心配の現れであることはわかる。リュディアは当分の間大人しくしておくつもりだったし、また周囲からもそれを望まれている。
居間の広いテーブルが落ち着かず、リュディアも早々に部屋に引き上げた。まだ自室と呼ぶには抵抗がある、広い部屋だ。絨毯もタペストリーもリュディアの好みで変えていいと言われたが、最初に足を踏み入れたときから変えていなかった。
侍女の一人が優雅なお辞儀をして部屋から退出すると、一人になることができた。彼女はふかふかの長椅子に足を投げ出して座った。サイドテーブルの上には湯気を立てるお茶のポットがある。ロズアラド人はお茶好きである。
そのうち孤独を贅沢だと思うようになりますよと、世話係たちに脅かすように言い含められていた。お妃様という立場は、決してあなた個人の感情を考慮してくれませんからね。
(たぶん……これから私の自我がアレク以外に顧みられることはなくなるのだわ。ただ大公妃としてだけ、存在することを求められる)
どんなときでも身近に人がいて、彼らの目に沿うように振る舞わなければならない。それを受け入れよう、と思った。アレクと一緒にいられるならリュディアは何でもするつもりだった。
もちろんリュディアだってこの結婚が純真さだけで成立したとは思わない。アレクに政治に疎い外戚と花嫁が必要だったことは事実だし、大貴族たちのパワーゲームに反則手札を切って介入を防ぎたかったという思惑もあっただろう。
だが二人の間に愛と恋がなかったわけではないと、リュディアは信じている。それだけでいい。
これから先、心配なことばかりだ。大公という立場がこの国のあらゆる物事を好きにできる絶対権力者である一方、大公妃にはひたすら貞淑さと多産が求められる。大公はいくらでも愛人を囲っていいが、大公妃がおなじことをしたら最悪幽閉、処刑もあり得た。夫がどこでどう遊ぼうが嫉妬することは許されないし、夫の愛人が先に男の子を産めばそちらが後継者に指名される可能性もある。
貴族のパワーゲームの中で、リュディアは最初から不利な立場だ。だが彼女はこれから宮廷でアレクの愛と保護だけを頼りに生きていくつもりもなかった。いずれは自分の味方をしてくれる派閥を作ることを、目下の目標にしている。国と大公のため働く官僚を育成し宮殿の内務を支配し、貴婦人の務めを果たすのだ。
できる限りのことをしたかった。アレクシオンのために。そしてこの暗く寒い愛しい故郷、北方大公国ロズアラドに。
リュディアはカップに紅茶を注いで口に含んだ。それからベルを鳴らし、家庭教師に講義を頼みたいと告げた。式までの少しの猶予期間、できることは何でもしたい。
隣室からは母の嬌声と妹の泣き声が響いており、父の姿はどこにもない。
そういう日々をしばらく、過ごした。
アレクは結局、大貴族会議へ対応を迫られているようだ。伝令に来てくれたニコラがそれとなく教えてくれたことには、随分とひどいことを言われているらしい。
「私が釈明することで彼を助けられるなら、何か……」
「男たちの会話にご令嬢が出しゃばっていいことがあるとでも?」
ニコラはにこやかな笑顔のままぴしゃりと言い切った。リュディアは沈黙した。
「お妃様の仕事というのはね、優雅に清らかにそして堂々として、何も心配ごとなどないわという顔をしてくださることなんですよ。我が主の治世に花を添えてくださることがあなたの使命です」
「はい……」
ニコラは何も間違っていない。大貴族たちにとってリュディアは『下層から拾い上げられた女』である。今、アレクのためにしてやれることはない。
「俺を罰してくれと陛下に言いつけますか?」
いっそ愛情を感じるほどに優しく、ニコラは微笑む。ああ、もうこれまでのように優しくしてもらうことはできないのだとリュディアは悟る。友達のように、ペットにするように愛でてはもらえない。リュディアはこれからアレクの横で彼を支えねばならない。花のように美しく強くしなやかに。
「いいえ。必要なことを言ってくれて、ありがとう、ニコラ」
そういう一幕のあと。侍女たちからの扱いがわずかに変わった。本当に些細なことだがリュディアは嬉しかった。これまで通り完璧な仕事ぶりに加えて少しだけ、リュディアの好きな茶葉を取りやすい位置に出してくれたり、目を見て微笑んでくれる回数が多くなったり。
もし――もし、これからも頑張り続ければ、なれるだろうか? 決してなれないだろうと思っていた理想の女主人の姿に。
使用人が使用人だからではなく、彼ら自身に心底、慕われ仕えてもらえるような優しいお妃様に。そして夫に愛され、心変わりされず、たくさんの子供たちに恵まれてずっと仲良しな家族を手に入れられる?
未来は誰にもわからない。リュディアにできることは遮二無二頑張ることだけである。
彼女は家庭教師から礼儀作法と勉学を学び、侍女たちの立ち居振る舞いを見て真似をした。少しでも優雅に見えるように。
まだ幼かったアレクシオンに数学の手ほどきをし、彼が宮廷から逃げてからは後見人であったマカリオスという神官長にも会った。太った頬をたるませた彼は複雑な表情でリュディアを眺めたが、帰り際には会釈して、
「これからもたゆまず努力をお続けなさい。地位や権力や金銭の力に負けてはなりませぬ」
と微笑み、諭した。
家庭教師は長年宮廷女官を続けてきた壮年の女性だったが、礼儀作法の時間に少し目をすがめてリュディアに確認した。
「あなた様の言動には宮廷作法への精通がみえます。以前、授業を受けたことがおあり?」
「いいえ、そんな……ああ、ばあやが元宮廷婦人だったと聞いております」
「まあ、どちらのどなたでしょう?」
リュディアは名前を言った。家庭教師は少しだけ、両手を握る力を強くした。
「その人は、わたくしの前に女官長を務めていらした方です」
「そうなのですか? ばあやが?」
「あなたは、大公女に礼儀を教えた方に手ほどきを受けたのです」
そして彼女は新鮮な驚きを得たという目でリュディアを見て、
「よろしいでしょう。基礎があるならより厳しく致します」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
リュディアは深々と頭を下げた。心の中でばあやに、彼女を家に受け入れリュディア付きにした父母に感謝した。
ばあやは本当に優しくて、リュディアがどれだけ間違えても怒らなかった。だから彼女は大好きな老婆をガッカリさせまいと、自室でいつもお辞儀や歩き方、会話の発音の練習をしていた。
今のリュディアもそのようにした。暇さえあれば口の中で舌を鍛える運動をして、高貴な人がスカートの裾を捌くやり方を練習した。侍女たちに恥じないような動き方を早く習得したかった。わからないことを聞けば教えてくれる、品のいいまっすぐな性質の女性たちの仲間だと思われたい。
リュディアは新しい生活に、希望に満ちて光って見える未来に、夢中だった。
アレクシオンが訪ねてきてくれたのは、狩猟会の日から数えて一か月後のこと。連日続いた大貴族会議がようやく一端の終着を見せたあとだった。
「リュディア、会いたかった!」
「アレク!」
離宮の玄関ホールは広く、天上が高かった。男二人が肩車しても手が届かないほどだ。その巨大なホールに見合うだけの巨大な扉が侍従たちによって開かれ、アレクシオンは入ってきた。念願を叶えた大公にふさわしい若さと颯爽とした自信に満ちていた。
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