夫の愛人が私を殺そうとしました。まさかそれが最後の一手だったとは。

重田いの

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夫の愛人が私を殺そうとしました。まさかそれが最後の一手だったとは。

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 穏やかな午後の日差しがルクレツィアの頬を撫でる。そこは小さくもよく手入れされた庭園に囲まれた古びた屋敷だった。彼女の白髪交じりの金髪は、陽光を受けてきらめいていた。深い緑の瞳、ふんわりと垂れてきた涙袋に目尻に寄った鴉の足跡のような皺。厳かな表情はぴくりとも動かない。青い色のドレスは流行遅れのすらりとした形で、肩にかかったショールも古びていた。

 伯爵夫人と聞いた者が想像する厳格な姿そのもの。ルクレツィアとはそういう女だった。

 と、執事が屋敷への戸口に現れて彼女に何かを耳打ちした。

「まあ」

 ルクレツィアは目を見開き、そして微笑んだ。

「ええ、よくてよ。会いましょう」

 そして応接室へ向かった。

 古い屋敷に負けず応接室も古い。だが清潔に掃除されていた。濃い木目の家具と赤い絨毯、くすんでいるが磨かれたクリスタルのシャンデリア。

 花柄のソファが二脚、その間にはニスを塗り替えたばかりのオークのテーブルが置かれ、上には花瓶に生けられた新鮮な花が芳香を放つ。人の命を吸って威力を増すという魔法にかけられたようだった。

 夫はベランダに出て庭園を眺めていた。レースのカーテンごしの背中に貴族女性の一礼をしたルクレツィアは、ソファに腰かけた美しい少女にも同じようにした。少女は絶世の美貌と言っていい可愛らしい顔をつんと上に上げ、心から侮蔑した目で伯爵夫人を見下した。

 ルクレツィアは彼女の向かいのソファに音を立てず座った。執事が静かにお茶の準備をして、去った。香り高い紅茶の香りが部屋に広がっていた。

 やがて夫のリカルドは室内に戻ってきた。

「やあルツィ。元気にしていたか」

「もちろんでございますとも。お会いできて嬉しゅうございます」

 どちらも淡々として、熱のない声である。中年の夫婦といえばどこもこのくらいだろうと聞こえる会話だった。少女は勝った、と思っているのを隠しもせず、顔じゅうに満面の笑みを浮かべた。

 夫は彼の恋人を伯爵夫人に紹介すると告げた。

「こちらが、私の愛するイザベラだ」

 とリカルドが言う。イザベラはにやにやしながら軽く首を傾げた。彼女に言わせれば会釈だったが、伯爵夫人ルクレツィアにしてみればなんの動きかもわからない乱雑さだった。

「はじめましてぇ、奥様ぁン」

 子猫のような声である。溌剌とした栗色の瞳、つやつやとした茶色の髪を持つ天使のように美しい少女から出るにしては、金属音のように不快な声だった。

 ルクレツィアは穏やかな微笑みで頷いた。夫婦は微笑み、イザベラはニタニタ笑いを隠しもしない。三人は座って向かい合ったまま。

「彼女は本宅に住まわせることにするよ。このイザベラは私の特別な存在だからね。彼女と一緒にいたい」

 ルクレツィアはしばらくの間、夫と彼の恋人の間を見つめた。呆然としたようなまなざしだった。深く考え込んだ後、ゆっくりと答えた。

「リカルド様、あなたの幸福が私にとって何よりも重要です。イザベラ、ようこそ我が家へ。本宅に住むというなら、この屋敷はあなたのものでもあります。どうぞ、思う存分に過ごしてください」

 と、伯爵夫人は淡々とした口調で言った。

 イザベラは感謝の表情を浮かべた、と彼女はそうしたつもりだろうが、狡猾な表情はあまりにも露骨である。リカルドは妻の納得を得たことで安堵の表情を見せた。和やかな雰囲気のまま、その短い会談は終わった。

 伯爵家の本宅は真新しい。二十年前、不幸な火事があって伯爵夫妻の最愛の息子が死んだ。嘆き悲しんだルクレツィアは別宅である庭園に囲まれた古い屋敷に籠り切りになった。

 宮廷魔法使いの長でもある伯爵リカルドは酒に逃げ、研究に没頭し、やがて仕事に拠り所を求めるようになった。夫婦の仲は破綻した、ように思われたが、彼らは貴族らしい労わりと敬意を互いに向けることは忘れなかったから、かろうじて生活は続いていった。

 やがてリカルドは女を、それも平民の若い女を連れてきては本宅に住まわせるようになった。伯爵夫人どころかまるで王女のようにもてなし、数々の宝石で飾り立て、褒め讃えて過ごすのだ。もちろんただそれだけの関係ではない。跡取り息子を亡くした伯爵を慰める、若く美しい愛人だ。

 彼は他の貴族と違って愛人が老いても追い出すことはせず、いつまでも手元に置いた。平民の少女たちの間では、リカルドに見初められれば終生貴族の家に住めるとあって希望者が殺到しているとか、いないとか。

 本宅の彼の研究室には、見上げるほどに巨大なダイヤモンドのかたまりがあるのだそうだ。愛人たちはその周りでリュートを奏で、歌を歌い、踊り、そのきらめきと美貌で彼の目を慰めるのだとか。

 ――ルクレツィアにとっては関係ないことである。

 厳かな伯爵夫人は社交界からも他の夫人たちからも距離を置き、ただ息子を想って暮らす。たった二歳で天に旅立った愛しいあの子のことを……。

 古びた別宅と庭園は彼女の心そのものだった。彼女の愛する息子は年に二度訪れる伯爵家の墓地ではなく、花のつぼみの中や垣根の影にこそいるのだった。

 ルクレツィアの日々はこの二十年、常に静かで穏やかだった。夫が本宅でいびつな笑顔で過ごす様子を横目に見ながら、ルクレツィアはルクレツィアで幸せな微笑みを浮かべることもあった。風のまにまにママと呼んでくれる幼い声を聴いて。あの子の髪の毛の匂いみたいな馥郁とした土の香りを嗅いで。彼女の心は新たな家族の一員として庭園と静寂を受け入れ、彼らへの愛情が芽生えていた。

 ある日、庭園で花々が咲き誇る中、ルクレツィアが園芸鋏で薔薇のとげを整えていると、ふいに知らない匂いがした。強すぎる香水の香りだった。振り返るとイザベラがいた。茶色の髪を結い上げ、エメラルドや真珠でゴテゴテと飾った美少女はウキウキと唇を舐めた。そういえば今日は上院議会の日であり、夫は一日いないのだった。

 日差しは優しく、風は淡い花の香りを運んでいた。ルクレツィアは鋏を園芸台に置き、庭師を目で下がらせた。

「ふっうーん? ババアが土触ってるってほんとだったんだぁ? キャハッ。おっもしろぉーい! 伯爵夫人ですぅって言うわりに、旦那に相手にされなくて寂しくて庭師ごっこしてるんだぁ!? すっごーい! みんなに言っちゃお!」

 ルクレツィアは下腹部の前で汚れた手を合わせ、堂々と少女に向かい合う。

「イザベラ。あなたは私の夫を幸せにしてくれています。私は心からそれに感謝しています。結果がどうなろうと……。私は夫に幸せを感じていてほしいのです。彼があなたと共にいることで、私も心から幸せを感じています」

 イザベラはイラッとした顔をする。何かを言い返したくて、けれどふさわしい言葉が浮かばないらしい。

「あたしさあ、あそこで暮らせてめちゃくちゃ幸せなわけ。だからアンタにあたしの幸せ壊してほしくないわけ! わかる?」

 ルクレツィアは頷く。

「わかりますとも。幸せは脆く、壊れやすいものです」

 息子を思い出した彼女の緑の目に影が差す。ますます腹を立てたイザベラはだんっと土を踏み鳴らした。

「だからあッ! ねえ! なんでわかんないかなあ!? ババアだから!? ババアだからわかんねえんだろ! このっ、このっババア! ババア! ババア!」

 彼女はキイキイ罠にかかった鼠のように叫び散らした。ふんわり膨らんだお姫様のようなドレスの裾は、脚が見えそうなほど乱れた。手にした日傘をぶんぶん振り回し、

「出てけよ! いい!? あたし言ったからね、あたし、あたし街一番のかわい子ちゃんっていっつもみんなに言われてたもん! あたしカワイイんだからね!? いつかぜったい追い出してやる!!」

 最後まで裏返ったような声で叫び終わると、彼女はずかずかと古びた屋敷を退出する。

 ルクレツィアはその背中に貴族女性の一礼をした。あくまでゆっくりと、優美に、教わった通りの少しも古びることのない礼儀だった。

「奥様……」

 いつの間に戻ってきたのだろう、庭師がひたすら恐縮したように腰を屈める。その後ろには彼の息子である助手がいて、同じようにぺこぺこしていた。

「なあに? 私は一人の平民のおイタで平民全員を嫌いになったりしませんよ。――さ、続きをいたしましょう」

「面目ねえ、面目ねえこってす」

「面目ねえです……」

 庭に溢れる四季折々の美しい瞬間は、この庭師親子がいなくては始まらない。ルクレツィアは心から微笑んで首を振り、本当に気にしていないのを示した。

 ルクレツィアの屋敷は、いつだって花と愛と幸福に包まれている。

 息子の笑い声がする、この小さな庭園が彼女の世界のすべてである。



 ***



 一年が過ぎた。イザベラはルクレツィアを追い出そうと何度も試みたが、古くからの使用人は相手にしないし、新参者の使用人も頼りにならない。新しく美しい本宅で友達もおらず、ひたすら湯水のようにお金を使って贅沢しているのだということを、ルクレツィアは祖母の代から伯爵家に仕えるメイドに聞いた。

「奥様のぶんの予算にまで手を付けそうです、あの小娘!」

「放っておおきなさい。彼女も寂しいのでしょう」

 夕暮れが近づく中、空気中には重苦しい雲が低く垂れ込めていた。嵐の前触れとして、風は静かながらも不穏な響きを持って吹いていた。庭園の花々は揺れ、ちぎれた。樹木の黒々とした影が不気味に揺れた。

 屋敷の中、ランプの灯りが静かに揺れていた。ルクレツィアは園芸の本を持ち込んで私室に籠っていた。油を刷り込まれこっくりと光るナラ材の読書机に座り、読書に励む。窓の外では次第に風が強まり、雷鳴が遠くで轟く。

 突然、屋敷全体を揺るがすような轟音が聞こえ、ルクレツィアは驚いて本を閉じた。その瞬間にランプが消えた。かちかちと爪ではじいてみるがもう付かない。廊下の灯りも消えたらしい。この屋敷の灯りはすべて夫のリカルドが歌を練り込んだ魔力石だ。魔法使いが石に込めた歌はその中で延々と反響し、効力を保ち続けるが、なにかの拍子に波動がずれて仕事を放棄することがある。――例えばこんな嵐の轟音や光や匂いなどに。

 ルクレツィアはため息をついた。

「これだから魔法ってものは。万能ではないのだから、少しはロウソクも持っておくべきなのだわ」

 引き出しを開いてロウソクを探し始めた、そのときだった。

 私室の扉が勢いよく開かれ、イザベラが入ってきた。ピカリと雷がどこかに落ち、ルクレツィアにも彼女の様相が見えた。茶色の髪は風に舞い、全身が濡れている。恍惚とした表情をして、フリルがいっぱいのドレスがぐしゃぐしゃになっても構わないような仁王立ちの姿……。

 (正気ではない)

 とルクレツィアは直感する。少しばかり、半分がた、そっちの世界に行きかけている彼女だからわかることだった。息子が息をひそめて読書机の下に潜り込んだ気配がして、母親として強くなり彼を守らなくてはと思う――いいえ、あの子はもういない。

「伯爵夫人、嵐が来るよお!」

 とイザベラは大声で叫び、何が楽しいのかキャハハと笑う。

 ルクレツィアは引き出しの中をいじくった。こんなときに限って一発でロウソクが指に当たる。インク壺、羽根ペン、封筒の束。それを束ねる麻糸。雨粒がガラスに打ちつけ、屋敷全体が真っ暗く嵐に包まれていた。

「誰も助けにこないよ! 誰も!」

 イザベラはにやにやと笑った。あの笑みが、さらに下卑たものになろうとは。

「お前はあたしに伯爵夫人の座を譲って、出てくんだよ!」

 ルクレツィアはわななく唇で、だができる限り落ち着いた口調で答えた。

「大丈夫よ、イザベラ。混乱しているのね。この部屋は頑丈だもの、嵐が通り過ぎるまでここにとどまりましょう」

 イザベラは一瞬、迷子の子供のような顔をする。

 今日も朝から何か重要な会議があるらしいことを、使用人から聞いて知っていた。ルクレツィアは夫の仕事のことを何も知らないが、彼は戻ってこないだろう。この屋敷にも使用人はいるが、ルクレツィアは一人にしてくれと言いつけてある。彼らもまた、来ないだろう。窓に木の板を打ち付けるのに忙しいのもあるだろう。

「ね? イザベラ。きっとすぐにリカルドも戻ってきてよ。私と一緒に居間の暖炉に当たりましょう。嵐が過ぎるまで」

 イザベラは――おそらくは母親にすらそうされたことはないだろう可哀想な美少女は、一瞬、瞳を濡らした。だが次の瞬間にはキッとルクレツィアを睨みつけ、胸の前でナイフを構えた。肉を骨ごとかたまりに分けるのに使う、巨大な肉切り包丁だ。

「あんたさえ死ねばあたし幸せになれるもん。あたし、あたし、幸せになりたいのっ!!」

 ルクレツィアは後ろ手に引き出しの中をかき回し続け、そしてついにそれを見つける。小さな石だ。案の定一番奥にあった。自分でそこに隠したのか彼女は背中に隠したそれを握りしめた。

 屋敷全体が一層激しく揺れた。ランプの灯りは戻らない。窓の外では稲妻が次々と天を裂くように光り、雷鳴が鼓膜を震わせる。

「人を殺してもなんにもならないわ」

 ルクレツィアはぽつりとその言葉を放ったが、雷に紛れてイザベラの耳には届かなかっただろう。美少女は奇声を発して伯爵夫人に躍りかかった。刹那。

 ルクレツィアはリカルドの蒼い目を見た。雷鳴の音は聞こえず、ただ白すぎるほどの光が部屋の中を満たしていた。息子の小さな手が彼女のスカートを掴み、丸い額が擦り付けられ、そして離れた。

「――ルクレツィア! 無事か!」

 彼女はすとんと腰を抜かして床に座り込む。

 夫は両手で妻の肩を掴み、そっと揺すぶった。蒼い目、長く伸ばしてひとつに括った銀色の髪、宮廷魔法使い長の制服は礼装軍服に似て黒く無骨でインクの匂いが染みついている。

「あなた……」

「ルツィ、私だよ」

 赤黒い液体が静かに床を這って広がった。その生臭さとむわっと立ち上る湯気のようなもの、そして夫の手に握られた杖が赤く濡れていることにルクレツィアは気づいた。

 伯爵夫人は悲鳴を上げた。伯爵は妻の身体をかき抱き、ああ、と嘆いた。

「ルツィ、ルクレツィア! ああ、大丈夫。大丈夫だよ。お前を害するものは私が何もかも消し飛ばしてやるから!」



 ***



 庭園の中で鳥たちが囁き交わしている。風に揺れる葉の音がそれに交じり合い、音楽が生まれる。ルクレツィアは耳を澄ませて息子の声を探したが、もうあの子はどこにもいないのだった。

 手には一輪の花を摘んでいた。夕方の花摘みの時間に、ふと呆然としてしまったのである。花弁は夕日に照らされて、まるで宝石のように輝く。

「奥様ァ……」

 庭師の若い助手が困ったような声を出した。

「ええ、戻るわ。お花を頼める?」

「はい、奥様」

 彼女は古びた屋敷の中へ戻った。緑色の絨毯と森の中を描くタペストリーによって、居間の中は森を模している。暖炉の火にあたるリカルドはのんびりと手足を伸ばし、古い魔法書を読んでいた。

「やあ」

 と手を挙げる彼のすっきりした顎に、少しばかり髭が伸びかけている。

 ルクレツィアは厳かに頷いた。

 あの嵐の日から半年。普段なら夫は次の愛人を作る頃合いなのだが、彼はどうしたわけかそれをしていない。代わりにルクレツィアの屋敷にふらりとやってきてはくつろいで、夜になる前に帰っていくようになった。

 リカルドの精悍な美貌は今は緩んで、まるで家の中で安心した猟犬のようである。イザベラを殺した杖が彼の足元に転がっているのを、ルクレツィアは見ないようにした。

 庭園には花々が盛りに咲き誇り、目にも眩い。夕日の暖かな光が花々を暖めて、まさしく匂い立つ美がそこにあった。

「アンヌマリアを呼ぼうかしら」

 ルクレツィアはぽつりと呟いた。白髪交じりの金髪は今の大きな窓から差し込む夕陽を透かし、とろけた黄金のよう。リカルドは眩し気に妻を見つめ、本の背表紙を親指でなぞる。

「学院時代の友人だったか。いいじゃないか」

 これほどに穏やかな瞬間が再び訪れるとはルクレツィアは想像したこともなく、それは夫も同じだったろう。

 平民女を殺しても貴族が罪に問われることはない。リカルドは無罪放免された。妻が殺されかけたのだと抗弁する必要もなかった。またルクレツィアもそんな事情を家の外にまで知られるのはごめんだった。弔問客とは名ばかりの見物客が家に詰めかけ、見世物にされるのはもう二度と嫌。

 寝椅子に転がる夫を眺められる椅子に彼女は座り、暖炉の火で手を温めた。まるで嫁いできた当初のように、負担にならない沈黙が居間に満ちる。足音を立てずに使用人がやってきては、カーテンを閉めたりランプを灯したりクラッカーの皿を二人の間の小机に置いたり、世話を焼いてくれる。

 ――ルクレツィアは十六歳でこの夫と愛のない結婚をした。

 貴族の義務だった。結婚式は嬉しさなどなく、ひたすらヘマをしやしないか緊張していたことを覚えている。

「ご自分の幸せをお考えになってね」

 と言ったのはいつの夜だったか。

「愛妾は我慢します。子供さえ作っていただければ文句は言いませんわ」

「私はそんな夫になる気はない」

 才能と魔力量によって将来を嘱望されたリカルドは、ちょうど出世の瀬戸際にいた。結婚は彼の癒しではなく足枷になった。

 ベッドの上、若い彼はルクレツィアにのしかかり、

「私は君と幸せになる。幸せになってみせなきゃいけないんだ。父母のようにはならない」

 うわごとのようにそう言った。

 そして息子が生まれ、それはそれは可愛くて、そして――

「あの火事の犯人の罪は償われないままね。焼け死んでしまったから。私たちの息子と一緒に。あなたがイザベラのことを誰にも咎められないのと同じに」

「……ルツィ」

「もう出て行って。お願い。辛いの」

 夫は彼女の言う通りにした。

 傷は癒えないままだ。二十年も経ったのに。あの子は二十二歳だと思うばかり。だが痛みはずいぶん鈍くなった。

 もし彼がまた居間に来てくれたら、次は過去ではなく未来の話ができるかもしれない、とルクレツィアは思った。

 そのときはすぐに来た。ほんの三週間後のことだった。

「あの女は許し難いが、最後の最後で役に立った。断末魔の悲鳴が魔法石の埋まらなかった項目の波動を埋めたのだ。癪だが褒めてやらねばならないかもな」

 リカルドは投げ出すように言い、彼に従う使用人たちは巨大なダイヤモンドのかたまりを台車で運んでいる。侍従ばかりうんうんといかにも重そうである。

 ルクレツィアは古びた屋敷の前に陣取り、両手を口に当てた。

 ダイヤモンドのかたまりの、真ん中。ドクドクと赤く脈打つものがある。

「――ホムンクルス!」

「そうだ。禁忌だ。だがこれしかなかったんだ」

「人の命を、何人ぶんも使うと聞いたわ。何を、どうして、どうしてあなたがそんな、」

 唐突に全部が組み合わさっていった。余計なことは何も漏らさない信頼の厚い使用人たち。穏やかな愛情籠った目で微笑む夫。伯爵。伯爵夫人は、私。

 ……踊らされる若い娘。歌わされる若い娘。楽器を弾く娘。我こそはと立候補して本宅に迎え入れられた娘たち。かつてとても美しかったからと、年老いても伯爵家に住むことを許されたリカルドの愛人たち。

 ルクレツィアは立ちすくんだ。リカルドは彼女の前に深々と頭を下げる。

「ルクレツィア。私はかつて誤りを犯した。息子の命を救えなかった。償いを、償うすべを、ずっと長い間探した。これで許されるとは思っていない。けれどもしもこれが、君の悲しみの一片でも拭うことができたら」

「あなた……、あ、あ。――アンジェロ!」

 ルクレツィアは息子を呼んで泣いた。ダイヤモンドの中、赤いそれはどこか嬉しそうに跳ね上がった。

「過ちは許されざるものでも。償いが見せかけでも。できることがあったはずなんだ。私はそれを探した、そして、この道を選んだ。――ルクレツィア。ホムンクルスを、この世に出してもいいかい。君がかつて成し遂げた快挙を、人類のすべての母が通ってきた奇跡を、男の私がこの世に放つ。その罪を、見届けてほしい」

「あ、あぁぁ、あ……」

 リカルドは嘆願し、ルクレツィアは泣き、そしてダイヤモンドのかたまりは。その中にいる、赤い何者かは。

 本宅に囚われた、伯爵に生命力を提供するための女たちは。

 ルクレツィアはその選択を選んだ。



 ***



 伯爵家は数十年ぶりに来客で溢れかえった。もう四十も越した伯爵夫人が産み落としたという奇跡の赤ん坊を、誰もが見に来たがったのである。中にはその出生を疑い、つまりは伯爵の若い愛人が産んだものを体面を考え偽ったのではないかと興味津々の者もいたが、いまだ寝床から起き上がれない伯爵夫人があまりに憔悴した様子なのを見て考えを改めた。

 客は来ては去り、やがて誰も来なくなった。

「君はあの嵐の夜、私が渡した魔力石を手に持っていた。この石に込められた魔法に助けを求めれば、すぐに私の耳に届いて助けにいくからねと……二十年も前に渡した石だ」

 リカルドはぽつりぽつりと内面を語る。ルクレツィアは耳を傾ける。彼女の腕の中、息子はすやすや眠っている。二十年ぶりに腕に抱いた息子は、二十年前と変わらぬ顔で微笑みながら眠る。

「あのときあなたが来てくれたのは、それでは」

「いいや。私は嵐が来たので早退していたんだ。嵐で屋敷の魔法が不安定になると思ったから……真っ先に、君の屋敷を見に行った。君に気づかれないように屋敷を見回り、すぐに退散するつもりだった」

 ルクレツィアは頭を振った。息子がむにゃむにゃ寝言を言う。

「あの平民女が君の部屋に入ったとわかって――目の前が真っ赤になった」

 寝台からは庭園がよく見える。花には美しさと儚さが同時に宿る。生命力をホムンクルスに極限まで吸い取られ、泣き叫びながら命を終わった女たちの嘆きもまた、宿るのだろうか。

 寝室はまるで時間が止まったかのような静謐な空気に包まれ続ける。息子が目覚めるまで、言葉を発するまでずっとこのままだろう。ルクレツィアは心の中で過去と現在、そして未来を想う。これから先の伯爵家のことを想う。

 夫は杖を腰に差している。ルクレツィアが嫌がればすぐにでも外すだろう。だがそれがイザベラを殺した凶器だと、おそらく彼は思いいたらない。彼は自らの意思で女を殺し、妻を救ったのだ。杖は手段であり彼の腕の延長だ。

 息子を蘇らせた禁術もまた、彼の意志そのものだ。その結果が伯爵夫妻に背負いきれないものだとしても、リカルドの意志がそれを選んだのだ。

「君が無事でよかった……」

 愛がルクレツィアのそばにあった。肩に回された腕、そして自分の腕の中。本当はもっとずっと前からあったのだと思う。花を見ていたから気づかなかっただけで。

「ふああぁ……」

 と息子がぐずるので、ルクレツィアは厳かな表情で彼をあやした。

 ――リカルドがやろうと思えば、彼はルクレツィアの抵抗を封じ込め犯して、次の跡取り息子を家に授けることができた。

 彼はそれをしなかった。貴族男性にとって、それがどれほどの愛なのか。ルクレツィアは知らないわけではない。

 最初から、知らないわけでなかったのだ。

 やがて成長した息子は類まれな魔法の才能を示し、魔導王の再来だと人々に騒がれた。その異能がどんな理由からくるものか、彼の父母だけが知っていた。

 やがて時が満ち、魔物の軍勢が地を埋め尽くす。その背後に息子がいることを、やはりとある伯爵夫妻だけが知っているのだった。人と人の営みから生まれたわけではないから。あの子はルクレツィアの子ではなく、リカルドが顔も忘れたまま殺戮し続けた数多の女たちの嘆きから生まれたのだから。

 いずれ訪れる未来はそれだけれど。今はただ、居心地のいい古びた屋敷の一室で二人は寄り添って。

 心から愛する赤ん坊をあやし、笑いかけ、世話して暮らす。

 かつてそうしたかった、本当にそうしたかった過去を、未来に再現したかのような光景だった。

 了




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