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しおりを挟む長い時間がたった気がする。けれどまだ夜明けもほど遠い時間、私はのろのろ動き出した。どうしてこんな喪失感があるだろう。どうやら思った以上に、ミラーは私の中で大きな存在になっていたらしい。私ことアマルベルガがはじめて自分で自分の人生を切り開けた証が、彼だったのだ。
――どうしよう、じゃない。
――どうにかしなければ、ならない。
私が思い出したのは、なんとか使える知識として認識したのは、【暗黒大陸編】と呼ばれる部の話だ。遠い大陸で主人公が遭遇した魔物の王は孤高で最強。まるで歯が立たなかった。その強さの秘密は一族郎党、妻子に至るまでを食べつくし、その力をわが物としたからだったという話。
――魔物は魔物を食べることができる。食べて相手の力を吸収する。
それは原作の知識だろうか、それとも私の中にいるというカムリの本能? ともあれ私は、思い出したその事実をずっと考えていた。
腕の中にはコロ太郎がいる。傍には暗殺者が倒れている。私は手を伸ばし、そのフードを払った。すると、案外年若い男の顔が出てくる。
「えっ」
これ――この顔、知ってる。赤い髪も。慌てて口元を覆っていた布を取ると、そこにはエーデルがいた。
「なん……つう、ことだよ」
と、すっかり混乱した私は項垂れる。腕の中でミラーの首がぐったり、ぶらぶら揺れる。
エーデル・ログムント。シャルロッテの取り巻きの一人で、アマルベルガの同級生だった。平民の生まれながら剣術に秀で、跡取りのいなかった男爵家に養子に取られて学園に入学。勉強はできないけれど有能な剣士で、いずれ騎士に叙任されればうちで取り立ててやってもいいとまで話は出ていたのだが……。
「確か……確か実の父親が暗殺者集団の頭目で、母親も暗殺者だった」
というのが明かされるのは、原作の二部以降である。
「だから壁を上れたし、わざわざ短刀に毒まで用意して。うわ、首に呪符仕込んでる!」
彼に魔力がないので発動が遅れたのか。よかった、これを使って自殺されていたらこっちまで呪いに巻き込まれていたかもしれない。
むくむくと闘志みたいなものが沸いてきた。そうか――エーデル。こいつさえ私の敵に回るのか。シャルロッテの言うことを聞いてアマルベルガの暗殺まで請け負うのか。ふうーん。じゃあ、やってやろうじゃないか。もう皇子にも異母弟妹にもほとほと愛想が尽きていたところだけれど、これから同級生も下級生も上級生も、父と義母はもちろん、ありとあらゆる人間が私の敵だと思わなくてはならないようだ。
原作ではアマルベルガの死因は解明されても(毒で動けなくしたところを噴水に突っ込み、溺死させたのだ)、とうの暗殺者が誰なんて話は出なかった。そこまで重要人物じゃなかったから。けれどここで犯人が死んだ以上、これから先の物語の展開にも影響があるだろう。彼は確か、シャルロッテが主人公に追い詰められたとき彼女を守って剣を抜き、主人公と斬り合う役目があった……。
私はミラーの首からゆっくりナイフを引き抜いた。手ごたえはぞり、ぞりと硬く血管の断面や脂肪のつぶの形をなぞる。もう感情は動かなかった。エーデルの髪を切り、ハンカチに包み、胸元にしまう。いつかどこかで役に立つ、あるいは男爵家には唯一彼を心から慕う妹さんがいるから、彼女に形見として貰ってもらうのでもいい。
それから覚悟を決めて、犬の死体となった魔物を見下ろす。やり方がわからないなんて言い訳だ、言い訳していては勝てない。契約とはいえよくしてくれた魔物で、私は彼を好きだ、今でも。――でも、生き残りたいならやるべきだ。
修道女たちが私と死体を放っておくはずがない。神の名の下にはいかなる拷問も凌辱も許される。あの枯れたように見える修道女たちが二十年前の宗教改革の折、どれだけのことをしでかしたのか、私もアマルベルガも知識として知っている。立ち昇る火刑の煙は王都まで届いたそうだ。修道院の裏を流れる小川からは、今でも人骨が出るそうだ。
私はすううう、はああああ、深呼吸して。
ナイフに毒は塗られていないのを確認して。念のためにおいも嗅いで。
そうっとそうっと、コロ太郎のかたちのお腹を裂いた。ぞろり、溢れ出たのは臓物でも魂でもない何か。何か、としか形容できない。あえて言うなら固形を保っている泥ではない砂。触ってみたくならないヘドロ色のスライムから、つやつやととろっとした感じを抜いたもの。
私は両手をミラーの中に差し込む。内容物をすくう。魔物が魔物を食べるという、神話にも描かれた忌まわしいともぐいが、果たしてこれでやり方があっているのかわからないが――口を、つけた。地獄の真っ赤な石のような味がした。舌が、上顎が下顎が、そして食道が溶ける! かと! 思った。
咀嚼してもしても固形の反発はなくならないように思え、またいつまでも飲み込める粘度にならないように思え……そのくせ、ちくしょう、と嘆きながら飲み込めば、案外それは喉を滑り落ち胃に収まった。
私は必死にミラーを食べた。おえっと嘔吐きながら、涙を流しながら必死に顎と喉を動かした。昇ってくる吐き気、胃液を必死に飲み下し、ときどき耐えきれなくて水差しを取りに走った。そうやって、朝がくる直前まで。必死に必死に。死にたくないから。
しまいにはとうとう完全に泣きながら、ミラー、ミラーと念じながら彼を食べきった。
ひどい後味がいつまでもいつまでも、味を感じるところ全体に残っていた。
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