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番外編・おまけ
(SWEETER LIFE) 1
しおりを挟む鼓膜を震わせる音がして、夜空がぱっと明るくなる。なんということもない一発に、大げさに観客たちは喜んだ。
人ごみに流されつつ、俺は、自分のやや後ろを歩いているミシカを振り返る。彼女はぼうっとその場に立ち止まり、花火を眺めていた。
「はぐれるぞ」
手を差し出すと、ゆっくりとなにかを噛み締めるように瞬いて、彼女は自分の手を重ねた。やや体温が低いその手を握って、家路を急ぐ。
(SWEETER LIFE)
「腹が緩んできたんじゃねえの」
急にそんなことを言われて、俺は顔を上げた。ホセが、髪から滴る水を拭いながらシャワーから出てきたところだった。小柄ながらも見事な肉体美。まさに男盛りというその体を見てから、俺は自分の体を見下ろした。
「そうか」
「ミシカに言われねえの? ああ、そうか、あんた三ヶ月も本土に行ってたんだっけ? 向こうでハンバーガーばっかり食ってたんだろ」
「食事には気をつけている……つもりだが」
「そういや、いつ帰ってきたんだよ」
「七時間前に。基地に着いたのは、一時間前だ」
一晩シャワーを浴びていないので、報告業務を済ませがてら、このシャワーブースに寄った。
「はー、じゃあ、久々の我が家か。まあ、しっかり休めよ」
ホセは手を振って出て行った。
なんとなく気になって、自分の腹をなでる。そんなに変化はないように見えたが――すでに前線を離れて二年になる。年齢的にも、体の維持はかなり気をつけなければいけなくなってきているはずだった。昔ほど簡単に疲れが抜けないことが、一番困る。
「走るか」
ひとりごちて、俺はタオルを頭にひっかけて、シャワーブースを出た。
◆
基地から車で十分、水戸からは三十分弱ほどの住宅街。その一角にあるアパートが、今の住まいだ。三年前にここを借りて以来住み続けている。新築だった物件も、三年経つと新鮮味が落ちる。グレーの外壁の、メゾネットタイプ。敷地内駐車場付き、4LDK。バルコニーはL字型。
午後四時になっても、まだまだ明るい夏空だ。駐車場に車を停めて、俺は荷物を担いで、久々の我が家に足を踏み入れた。
「ただいま」
玄関から呼びかけるが、返事はない。室内は、しんとしている。夏特有の、湿気のあるねっとりした空気が、部屋の中には満ちていた。
「ミシカ」
呼びかけるが、物音ひとつしない。
荷物をリビングの床に置いて家の中を歩き回る。
俺には低すぎるシステムキッチン、メーターモジュールでやや幅広に作られた廊下、ミシカの選んだリネンのカーテンに、いつになっても生活感の希薄なものが少ない部屋。
行き届いた掃除が、かえって居心地悪く感じるほど殺風景な部屋だ。
俺も元々荷物が少ない人間で、彼女はここに住むと決まったとき、自分の持ち物は何一つなかった。IDひとつすら。それからもものが増えず、やたら余白の多い部屋は、一人だと寒々しい。
留守か。そういえば、基地を出るときにメールしたが、返事がない。
エアコンのスイッチを入れて、着替え始める。
冷蔵庫を開けると入っていたペットボトルのアイスコーヒーを、グラスに注いでいるときだった。不意に玄関が開く音がした。
「リアン、お帰りなさい。車があったから慌てた。今、なにか冷たいものを――ああ、もう飲んでた?」
玄関から、ぺたぺたと裸足でやってきたのは、ミシカだった。買い物に行っていたらしく、食料品の入った袋を抱えている。彼女はそれを、ダイニングテーブルの上に置き、野菜や肉、魚に、ビールの缶と次々に取り出していく。
作業している彼女の後ろから近付き、肩を掴んで振り向かせ、その額に唇を落とした。シャンプーの控えめな香りが、鼻腔をくすぐる。次に、その唇に口付けると、微かに笑う声がした。
久々の感触に下腹がうずいたが、彼女はさっと離れる。
「夕食は、ブイヤベースでいいかな。ビールも買ってきたから、晩酌してもいいし」
三ヶ月ぶり――正確に言えば、九十三日ぶりの再会を感じさせない素振りで、冷蔵庫を開けて食材をしまっていく。
「ああ、頼む」
俺はソファに腰を下ろして、コーヒーに口をつけた。この人工的で安っぽい味が、意外と気に入っている。
「明日の祭りは見に行くか? せっかく帰国も間に合ったし」
毎年夏に、基地では花火を打ち上げる。まわりの自治体の祭りにあわせて行われて、出店や催しものもある。去年、一昨年と俺たちは、出店を冷やかしてから、花火をこのアパートのバルコニーから眺めた。
「あなたが疲れていなければ」
疲れてはいるが、せっかくの休み。祭りを見るのも悪くないだろう。そう伝えると彼女は、わかった行こう、と言った。
「時間早いけれど、お風呂入る? それともゆっくりしてる?」
「さっき、基地でシャワーを浴びてきた。風呂は後でいい」
「それじゃあ、私はご飯作るわ」
言うが早いか、彼女は調理器具をあちこちから取り出して、作業を始める。
その後姿を、俺はぼんやり眺めていた。
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