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#83 サイネル とある部屋(前)

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 宵の口の会議室に、十数名の隊長格の人間が集まっていた。
 
 そこで机を叩いて大きな音を出し、相手を威嚇する行為を見て、サイネルは「実戦でその威勢の良さを発揮せよ」と心の中でせせら笑う。

「ですから私は、そのようなやり方では長期戦は耐えられぬと申し上げているのです」

 そう主張するのはもうじき五十路に手が届きそうな金髪の男、ヨナス・リャーケントだ。ハイリーが北軍に配置転換される二年ほど前に、彼も北軍に配置転換されていた。二年で大いなる苦労があったのか、額の面積が広がっている。それなりに格式ある武門の出で、イスマウル軍相手の初戦は、大見得きって出陣していき、あっさり敗走してきた実績をもつ。

 サイネルは、知っていた。この男が自分の上官にひねくれた優越感や征服欲を持っていて、色々とこじらせていることを。そして上官はこの男が死ぬほど嫌いだということも。

「そもそも、マルート鋼製の武具を使う必要がどこにあるのですか。魔族が出現しない今、貴重で高価なマルート鋼製ではなくても、じゅうぶん用を成すじゃないですか。長期戦になって物資が足りなくなった時、もしも魔族が攻めてきたら我軍は壊滅ですよ」

 うんざりした空気が室内に流れている。
 リャーケントが口を開くまではあった緊張感は、今や霧散してしまった。

 七日に渡る戦闘の、北軍ユーバシャール隊の続けざまの奇襲で、ようやく戦局がこちら有利に傾いてきたからと、新参者のハイリー・ユーバシャールに厳しくあたっていた他の指揮官たちがなんとか一枚岩になってきたというのに、彼はその時流に完全に乗り遅れたらしい。

 リャーケントは、未だ、上官のは下策だと周囲に同意を得ようとしている。そもそも、北軍が『出鼻をくじかれた』という不名誉を被る原因になったのは自分だということを、完全に忘れているのだ。もとから理解してなかった可能性も捨てきれない。だから、他の指揮官が嫌がった、士気の落ちきった段階での出陣を、尻拭いのためにしてもらったという意識もない。全くない。自分の隊の後始末が押し付け合いになったとき、立場の弱い新参者で、親と所属長が反目しあっているという不利があった上官が、貧乏くじをひいた、などという事情もきっとわかってないだろう。失敗を楽しみにしていた連中の前で、圧力を跳ね除け戦果をあげたことにより、彼の期待を裏切って、彼女のほうが周囲に受け入れられていることですら。

 この冷たい空気のなか、ひとりで踊っている男を見ると、奇妙な嗜虐心が刺激され、サイネルはぞくぞくした。こりゃたまらん、と喉元まででかかる。

 そもそも、サイネルもこういう輩が死ぬほど嫌いだ。出自がいいだけでのさばっている。こちらがいくら努力したところで追い抜けない、生まれながらの優位性だけで生きている、完全なる目の上のたんこぶだ。おまけにそれを自分の実力と勘違いするだけの素直さ――言い換えるなら阿呆さ――をもちあわせているのだ。
 
 もう八年近いつきあいになる上官にも、出会った当初は同じような感想を抱いていたが、そちらに関しては今は違った評価になっている。彼女はわずかに成長――鈍化?――してきたし、自己研鑽を続けている。

 ところが、彼女にはまだやはり足りないところがあって、……たとえば阿呆は適当にあしらってもいいが挑発してはいけない、というところがまだ理解できてない、とかである。

「さて、リャーケント殿のお話も終わったようですし、明日の陣形ですが」
「ハイリー・ユーバシャール、まだ話は終わってない」

 机上に、等高線も描かれた詳細で大きな地図が広げられている。そのさらに上に置かれた騎兵や歩兵を模した駒をハイリーが掴んで話しだそうとしたら、リャーケントが椅子を倒して立ち上がった。

「貴殿の隊のほとんどがマルート鋼製の武具を装備している。そのような特別待遇が許されるとお思いか」

 リャーケントが机を叩いたせいで、せっかく陣形通りに並べた駒がいくつかひっくり返ってしまった。ハイリーがそれを元に位置に戻しながら、リャーケントを見ずに答える。

「許されているから、装備しているのです」
「であればどの部隊にも均等にマルート鋼製の武具を配布すべきではないか!」

 ぷ、と吹き出したのはリャーケントと同年代の別部隊の指揮官だった。叩き上げでのし上がってきた男で、北軍で最も早くハイリーと打ち解けた。
 一瞬、そちらに気を取られたリャーケントに、ハイリーが穏やかな声で問いかけた。作業を続けて、視線は手元のまま。

「なぜですか?」
「あきらかに優遇されている部隊があっては、他の部隊の士気にかかわるじゃないか」

 議題が変わってないか?
 サイネルは眉を跳ね上げた。あからさまにやってみたが、リャーケントは気づいてない模様だ。

「先ほどのは、物資の枯渇を憂いての発言ではなかったのでしょうか。

 結界を越えて、魔族が出没する危険の高い場所まで攻め入る任を唯一負っている我が隊と、基地のそばで兵站部の護衛のみをしている隊が同じ装備では、物資が足りなくなりますし、それこそ周囲の士気に関わるのではないでしょうか。

 そもそも、これは平等不平等のはなしをするための会議ではなかったはず。我々が読むのは帳簿ではなく、地図です。出納帳を管理するのは、プレザの文官たちの仕事と心得ておりますが」

 ああ、もう。論破しようとしても、どうせ理屈も皮肉も通じやしないのに、ムキになるなんてまだ青臭い小娘のままだ。こういうときは「将軍の判断にお任せします」とでも言っておけばいいのだ。よけいな反感を買わずに済む。将軍の顔を立てることにもなるのに。サイネルは舌打ちしたいのを堪える。

「それは私を、地図も読めぬ文官風情と同列だと言っているのか」
「そんなことはちっとも思っておりません。そもそも、文官風情だなどと、文官を低く見たことは一度もありません。手元に置くのが帳簿か地図かの違い、担務と領分の違いと申しております。そして、文官も地図が読めねば仕事になりますまい。プレザの文官もきっとしっかり地図を読んで、……長期戦にはならないよう手を尽くしているはずですよ」

 ハイリーが、手袋に包まれた指でこつこつと地図上を叩いた。以前、ユーバシャール隊が護衛任務で向かったこともある、星霊花の群生地のあたりだ。魔族の出現箇所として常に警戒されている。

 リャーケントは、にやりとして肩をすくめた。

「そのような根拠のない、楽観的な考えでいればいつ足をすくわれるかわからないぞ。ともかく、長期戦への備えは必要です。今の士気が落ちきって統率が乱れたイスマウル軍でしたら、鉄の武具でも十分打ち破れる」

 胸を張って言うリャーケントの周辺で、白けた空気が流れだす。
 おそらく彼はハイリーがなぜそうも「長期戦にはならない」と言い続けているか、想像もできないのだ。だから、思いつきもしない。

 もしかしたらこの場にいる自分以外の全員が、暗黙の了解でとある事実を確信しているということに。
 それを言外に確かめあっているということに。自分にだけはそのことを示唆してくれる相手すらいないということにも。

 イスマウル軍の統率が乱れ、脱走者が相次ぎ、幾人もプーリッサの捕虜となっているのは事実だが、それは間違いなくリャーケントの隊の戦果ではない。彼は初戦敗走からここまでずっと、兵站の警護に専念させられてきたからだ。

 分厚く展開したイスマウル兵に、騎馬の機動力を生かすと言って正面から突撃し、失速して取り囲まれて、命からがら逃げ出してきたことなど、すっかり忘れて――あるいは強敵との邂逅からも生還したという謎の自信におきかえて――彼は今ここに平気で座っている。リャーケント直属の上官の退却命令を半ば無視したことで、部隊の半数を殺してしまったことや、自分がその上官の温情でまだ軍服を着られているのだという意識はないのだろう。

 夜陰に乗じて敵地まで赴き、魔族入りの魔石を投擲して敵軍を混乱させ、各個撃破するという奇襲を初めて行ったのはユーバシャール隊で、その作戦を打ち出した時に、話にもならない下策と喚き散らしたのはもちろん彼である。この空気の読めない鈍感さには、もはや称賛の言葉しか出ない。よくぞ今まで生きながらえたな、という。

 サイネルはここ数日のできごとを思い出していた。ヨナス・リャーケントの口から出る言葉を理解するのを、たぶん脳が拒んだゆえの現実逃避に。
 
 初戦の敗走から、北軍は汚名返上のため、普段はソリの合わない指揮官同士で合力してきた。このままでは、イスマウル兵に国土を侵されたのは北軍が軟弱だからだと言われかねない事態だった。全軍の衝突前に手を打たなければならない状況で、最も勝率が高そうだと採用されたのがハイリーの策だった。

 研究所から徴収した、魔族入りの魔石の数は限りがあるので、馬を脅かすための爆竹や火薬付きの矢をいくらかまぜての騎射をおこない、混乱した敵兵の結界を越えてきた部分だけを排除する。魔石から再出現した魔族は、結界を越えられないから、結界の向こうの敵の陣営を破壊しにいく。必然的に狭い面積にたくさんの魔族が集まることになって、結界の向こうは阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

 四回目の奇襲のときには、音と光だけであちらがわの陣営は蜂の巣をつついたような混乱をきたすようになった。魔族の昼夜問わない襲撃で、夜襲にも慣れたプーリッサ軍とは違って、暗闇での戦闘に慣れないイスマウル軍は、山越えの疲労や兵糧の不足もあってか、すぐに統率がとれなくなった。異形の魔族たちが夜陰に乗じて襲ってくる恐怖は、プーリッサ軍人であるサイネルもよく知っている。彼らイスマウル兵もそれをすっかり刷り込まれたのだ。

 烏合の衆になった大軍は、命令よりも不安や不満の伝播、浸透が早い。
 捕虜が語るに、イスマウル兵の間では、悪魔の女騎士だとか、魔女だとかいう死の名代の噂が流行っているという。彼女が現れると、複数の隊がに消える。そして翌朝、無残な姿で戻ってくるというのだ。

 その恐れられている人物の正体は、間違いなくハイリー・ユーバシャールだろう。
 夜襲に右往左往しているイスマウルの陣営へ、精鋭の騎兵百名ほどを率いて突っ込み、敵指揮官を討ち取っては、翌早朝その遺体を馬にくくりつけて返却するというのを繰り返した結果だ。

 北軍に配置転換になったのを見計らって、国主ヨルク・メイズから彼女に贈られたマルート鋼製の甲冑は、実用性と費用削減を最優先した軍の標準装備品とは一線を画している。
 鳥の頭部に似せた兜に、身体の曲線に沿って蔓草の彫り込みのされた胸当て。頭の天辺に付いているとさかみたいな羽飾りは完全に不要だと思うのだが……。とにかく派手である。

 ハイリーは狙われる危険をあえて好み、その甲冑で敵地に突っ込んでいく。相手に姿を覚えさせるのに、その甲冑は大いに役立った。ただし、攻撃の的になるのも確かだ。

 その特別製の甲冑は、左の篭手だけは揃いの品ではなくて、通常支給品になっている。三度目の奇襲の時、複数の騎兵に取り囲まれ、その包囲網を破る際に腕を切断したのだ。彼女の腕はすぐに回復したが、篭手は失った。

 あのときの、イスマウルの精兵ですら後退りする、鬼気迫る彼女の剣さばきは、サイネルの記憶に生々しく残っている。

 死を覚悟したのだ。奇襲を読まれて待ち伏せされていた。敵の炬火に囲まれて、頼りの上官が腕を失い、もはや最期と思った。これまでもハイリーは大怪我をしてきたが、大きな部位を切断されたのは、たしか初めてだった。さすがに、もう戦闘不能だと、部隊の誰もが思ったはずだ。
 その焦燥を掻き消すように、ハイリーの剪断された上腕がまりまりと嫌な音を立てて骨や血管を伸ばし、前腕を拾い上げてくっついた。

 おぞましいほどのユーバシャールのギフトの強さを見せつけられ、怯えたのは自軍だけではなく、敵軍もだった。あとは海が割れたように左右に道を開け逃げ惑う敵兵を、一方的に屠った。サイネルも、自己最多の十二人を屠り、血脂で剣把が滑るというはじめての経験をしたのだった。

 そこからイスマウル兵は彼女のことを悪魔と称するようになったらしい。

 そこにさらに、朝方返却する敵指揮官の遺体の扱いが加わって、恐怖を誘うのだろう。四肢を切断し、縄で一列に結んで馬にくくりつけて返すなんて、サイネル自身も、もしイスマウル側の人間だったら、きっと同じあだ名をつけた。

 いずれ、イスマウル兵は引くだろう。
 様々な理由があるが、士気の下がり具合といい、捕虜の様子――貧しいプーリッサでの食事にすら目を輝かせるかつえぶり。おそらくは職業軍人ではない――といい、星霊花の群生地の存在といい、長期戦に耐えられないのは目に見えている。あちらの大将がまともな人物であれば、全軍壊滅の前に諦めるはずだ。

 戦局が読めてないのはリャーケントだけだ。
 
「ヨナス、意見はそれだけだな。
 では、翌朝の日の出とともに出陣するのは、ユーバシャール隊とイオス隊、それから――」

 見切りをつけた将軍が、リャーケントの言葉を遮り、翌朝の陣形を発表していく。
 不満で顔を赤くしていくリャーケントを尻目に、ハイリーはサイネルの隣に着席しなおして、反対隣の別の指揮官と何かを話し合っていた。直前まで話をしていたリャーケントのことなど、きっと完全に忘れているだろう。互いの騎兵の戦闘可能者の人数確認や、合図の確認など実務的な話に没入している。
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